16話:現実は、現実よりもうなぎなり。あれ? うさぎだっけ? どっちだっけ!? いや、わかんない!・前編
(さっむ。うぅ……体めっちゃ冷えて死にそうなんだけど!? えっ、ここどこ!? 暖房ない!? あっ、サウナでもいい! 温まりたい!)
暗闇の中。レイは腕を擦りながらも、歩を進めていた。
視界に映るのは、薄汚れた石畳だけ。それ以外は真っ暗で、足元以外は何もわからない。
本当ならば、ここがどこかと立ち止まるべきところ。だがどうしてか――立ち止まってはいけない。本能的に、そう感じてしまった。
だから、彼女は先の見えない暗闇をひた歩く。
(シリウスに、会わなくちゃ……)
そんな、焦燥感にも似た感情に突き動かされながら。
しかし、いくら歩いても何処にも辿り着くことができない。
果てしなく続いているであろう道は、蜃気楼のように揺らめきながらも、数メートル先を照らし続けるばかり。
やがて、距離の感覚すら徐々に消え失せてきた頃。彼女の中に、漠然とした虚無が広がり始める。
(……。私なんでこんなに必死なんだろ……? シリウスに会いに行かなきゃどうなるんだっけ?)
なぜ歩いているのか、その理由さえ曖昧になりかけると同時。レイの足がピタリと、止まりかける。
しかし、“ここで立ち止まってはいけない”という不確かな直感だけが、彼女を再び奮い立たせていく。
すると、遠くからきゃははは。と子供のような無邪気な笑い声と、ゴゴゴゴッというどこか不気味な轟音が交互に耳を劈く。
(なに……これ、怖っ。え、真っ暗なとこにいるお化けって絶対ヤバいやつでしょ!? 私、呪われる!?)
ただでさえ暗い世界。そんなところに、奇妙な声が響くなど、ただ事ではない。レイは内心でそう呟きながら必死に念仏を唱えた。
「南無阿弥陀仏……。南無阿弥陀仏……えっと、次なんだっけ? なんか色々あるよね!? 観自在菩薩とか! えっと、えっと、えと……|般若波羅蜜多時《はんにゃ〜はらみ食べたい》みたいな感じだった気が! え、でもわかんない! ナムル! ハラミ! 悪霊退散!」
そのおかげか、次第に幻聴は薄れていくものの、次は幻覚というのだろうか。影のような黒い腕が、にゅるりと石畳から生えてきたかと思えば、なんの前触れもなく、彼女の足に絡みつき始める。
まるで、粘液のように彼女に纏わり付く奇妙なその腕。
「うわっ! えっ、なに!? なになになに!? いや待って、蜚蠊!? 蜘蛛!? えっ、気持ち悪いんだけど! いや、本気で無理だから! 無理無理無理! ほんと、ダメだって。虫NG! アイム、ムシ、ノー! ノーラブ! ノーライク!」
そう必死に叫びながらも、黒い腕から逃れようと藻掻くものの、藻掻けば藻掻くほど、その腕が絡み付いて離れてくれない。
それどころか、むしろ離さないという強い意思を示すようにして、彼女の足に絡み続けていく。
「お願い、ほんとマジで無理! 誰か助けて! 一生のお願いだから! ほんと、ほんとに一生のお願い!」
必死に声を張り上げ叫んでみるも、応じる者など存在せず。それどころか、闇が声そのものを吸い取るようにして消えてしまう。
そんな絶体絶命のピンチの中。レイは思わず目に涙を溜めながら、尚も叫び続ける。
「お願い。誰か助けて! ねぇ、シリウス! セレスティア――!」
だがその悲痛な声もまた。風に呑まれるように途切れてしまう。
まるで“お前を救う者などいない”と言わんばかりに。
しかし、次の瞬間――
何故なのか、わからない。だが突如、眼前にあったはずの石畳も、黒い腕も、闇に溶けるように消えてしまう。
ただそこに残るのは、深い暗黒へと塗り潰されていく空間。
レイは不安を覚えながらも内心で呟きを落とす。
(……さっきの……消えた? ていうか、さっきの変なやつなんだったの? あ……ううん。そんなことよりも、早くシリウスんとこ行かなきゃ……でも、シリウスは会ってくれなくて……でも会いに行かなきゃ家追い出されて、首刎ねられて……だから――)
だから、シリウスの元に早く行って、関係性を修復しなければいけない。そう思うのに、まるで鳥籠の中で飼育される不自由な鳥のように、どれだけ歩いても彼の元には辿り着けない。
徐々に募る不安と恐怖。早鐘を打つように鼓動がドッドと速まっていく。それと同時にキーンッとまるで、クリスタルチューナーのような、甲高い音が耳の奥に響き、息が詰まるように苦しくなっていく。
しかし、なぜそのような不調を感じるのか――それを理解することは叶わない。
なんせ、視界は闇に覆われ、いつの間にか一寸先も見えなくなっているのだから。
そんな中。不意にポワッと奇妙な影が浮かび上がる。
長い髪が風に揺れるように靡くその白い人影。けれど、顔を認識することは叶わない。そもそも眼前の存在は、本当に人影なのかも怪しいところ。
ゆえにレイは問いかける。
「……だ、れ?」
だが、思うように言葉が紡げない。まるで、喉が締め付けられるように苦しく、必死に絞り出そうとしても弱々しい言の葉しか舞うことはない。
そんな奇妙な感覚に、レイはよけい恐怖を抱き、ふるりと瞳を揺らしながらも口を閉ざしてしまう。
同時――
『お前は誰だ?』
低くも抑えられたような声が、彼女の“脳裏”に響いた。
それは、眼前の相手から発せられた言葉かもしれないし、別の存在からのものなのかもしれない。ただ、脳裏に直接語りかけられるようにして、温も冷も宿さぬ声音が、波紋のように広がっては反響するばかり。
そんなレイに再度問いかけるようにして、奇妙な声が再び言葉を発する。
『お前は誰だ?』
一語一句変わらぬその問いかけ。レイはなぜそんなことを聞かれているのか。一切理解ができぬまま名前を告げる。
「私は……レイ……ヴァーティン……」
しかし――
そう口に出した途端、ナニカ得体の知れないものが溶け落ちるように、胸の奥がひやりと強張っていく。
だが、その溶け落ちたものがなんなのか、それは一切わからない。それに、そう錯覚しただけで、本当は何も溶け落ちていないのかもしれない。
ただ、真っ暗闇の中にいるがゆえに、脳が勝手にあらぬ妄想を組み立ててしまったのかも……。
そんなことを考えていると、再び脳裏に声が響く。
『本当にそうなのか?』
「えっ……?」
レイはその問いかけに、思わず目を見張り硬直する。そして、ぽつりと自問する。
(私……本当に、レイ・ヴァーティン……なの?)
けれどその答えは、わからない。名前を問われたからレイ・ヴァーティンと答えただけなのに、本当にそうなのか? と問われても、絶対に私はレイ・ヴァーティンだとは答えることができない。
それに、もっと別の名前があったような気も……。けれど、あったような気がするという感覚だけが残り、それ以上のことは何も思い出せない。ただ、誰かから別の呼び名で呼ばれていたような気がする。そんな、違和感だけが残りそれ以上のことは何もわからなくなってしまう。
そんな彼女の態度を認めたのか。それとも、問いかけただけで答えなど端から求めていなかったのか。
レイへと問いかける不思議な声は、再び彼女へ告げた。
『お前が“本物”なのか“偽物”なのか、その答えなど今はどうでもいい。だが、お前がレイ・ヴァーティンだと言うのならば、過去の“真実”を思い出せ』
瞬間、闇を打ち消すような眩しい光が広がったかと思えば、抵抗する間もなくレイ自身を飲み込んでいく。
それは温もりのある光にもかかわらず、同時に痛みを伴うかのような鋭さがあり、目を閉じてもいても突き刺すようにして瞼を貫いてくる。
(この光は……何……?)
そう訝しげるも、彼女の意識は真っ白に染まっていき――




