14話:『あんなやつ、大っ嫌いだ』・3
しかし――
「クローウィン! 私、あの子にクローウィンって付けたい!」
レイは、Gを、Cと読み間違えながらもそう言って、にこりと破顔した。
(……間違ってるよ、レイ)
シリウスはそう心の中で呟きながらも、すぐさま訂正しようとしたものの――レイがあまりに嬉しそうに「クローウィン、クローウィン」と言い続けるものだから、シリウスはそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。
その誤りを正して、彼女の笑顔が消えるのを見たくなかったから。
それに、“幸福”という意味が消えても、何ら変わらない。むしろ、そのおかげか、クローウィンの世話をするうちに、より一層、2人の仲は深くなっていった。
だが――そんな幸福な日々は長く続かなかった。
いつの頃からか、レイの悪名が、シリウスの耳にも届くようになり、家人が交わす声の端、出入りの商人が口にした名前の中に、彼女の名前が混ざるようになった頃くらいから、レイはシリウスの元へと訪れなくなってしまった。
何があったのかわからない。しかし、それは唐突なことだった。
(……レイ、どうして来てくれなくなったの? 王宮に来る人たちが言ってる噂は嘘なんでしょ? 僕は信じるよ、レイのこと)
シリウスはそんな彼女の不在に寂しさを感じながらも、きっと変な噂が消えるまでは、バルドフ・ヴァーティンが悪意の視線からレイを守るため、外出を控えさせているのだろうと考え直すと、ひとつの決意をした。
《レイ戻るその日まで、二人で救ったこの命を、必ず守り抜こう》
そんな決意を。
だが、1ヶ月、2ヶ月――月日は流れてもレイの悪評は止まることを知らず。ようやく収まったのは、それから1年半もあとのこと。
その頃には、シリウスとクローウィンは、人間と鳥という境界線を取り払い、本当の兄弟のような絆で結ばれていた。何処に行くにもクローウィンを連れ、日々愛情を注ぎ接するシリウスは、自然と笑顔が増えるようになり、周囲の視線も冷たいものから温かいものへと変わりつつあった。
そんな折――運命がそんなシリウスへと牙を剥く。
バルドフ・ヴァーティンが、回復したリゲル国王陛下に呼び出されたある日。久しぶりに、レイが王宮を訪れた。
その姿を見てシリウスは、胸を僅かに高鳴らせる。けれど、すぐに違和感を覚えた。
言葉数が少なく、シリウスと目を合わせる時間も極端に短い。それに加え、瞳の奥には、顔合わせの時よりも、深く鋭い影が落ちていた。
(……なにか、あったのかな?)
そう思うものの、レイは1年半ほど、謂れのない悪意に晒されていた身。恐らく、以前の自身のように、再び人を信用出来なくなってしまったのかもしれない。そう考えることにした。
だって、レイがそんなことをするはずがないから。心の優しいレイが、誰かを貶めるはずないから……。
だから、シリウスは行動した。再びレイに会えたその時。あの日、2人で救った命はこんなにも立派になったんだよ。それを彼女に見せてあげたくて……。シリウスは、いつものようにクローウィンを放鳥する。
いつもならば、大空を自由に滑空した後、シリウスの肩か腕に戻ってくるはずのクローウィン。けれどその影が、いつまで経っても見当たらない。
(……どこかで休憩しているのか?)
そう思いつつも胸の奥に、説明のつかない冷たさが広がっていく。その理由は、わからない。だがなぜか、なんとも言えない胸騒ぎを覚えてしまい――
(……まさか)
オオタカや、大型の猛禽類にモビングでもしてしまい、反撃にあってしまったのでは……。空には複数の猛禽類らしき鳥がいたこともあり、彼は無意識のうちに足を動かし森を駆け始めた。
そして、木立の間で彼は、知りたくない真実を認めてしまう。
「はぁ……はぁ……」
そう荒く肩で息をしながらも、瞳を大きく見開き、頭を真っ白に染め上げるシリウス。
(……どういう、こと……?)
何も理解できなかった。だから、何度も問いかけた。しかし、その言葉は口からは零れず。ただ、胸の奥深く沈んでいくばかり。
本当は、声を発したかった。けれど、できなかった。目の前が真っ暗に闇に覆われてしまったような感覚。何も理解したくないと叫ぶ心。目の前の光景が、現実だと拒む頭。
そんなシリウスの眼前。
そこにいたのは、息も絶え絶えのクローウィンを腕に抱き、無感情な瞳でシリウスを見つめる、レイ・ヴァーティンが。
認めたくなかった。いや、認めざるを得なかった。
いや違う。本当は、何が起きたのか。どうすれば助かるのか、聞きたいことは山ほどあった。
だが、シリウスの口から出たのは、たったひとつの言の葉。
「……お前が、やったのか?」
突き放すように放たれたその言葉。それが自身の声だと、すぐには理解できなかった。
恐らく、その問い方が悪かったのかもしれない。いや、本当は、責めたいわけじゃない、信じてるんだ。そう言いたかったはずなのに……頭が真っ白に染まり、自身でもわからないことを口走ってしまっていた。
だから、すぐに『違う』そう訂正しようとした。
けれど――
レイの方が、それより先に答えていた。
『ええそうよ。まだあんな汚らわしいカラスを大切にしていたのね』
瞬間、シリウスは息を止めた。代わりに、葉が鳴った。
(……嘘、だろ?)
ザワザワと騒ぐ心内。
だが、シリウスは動くことができなかった。駆け寄ることも、クローウィンを取り戻すことも、その『嘘だろ』を口に出すことすら――なにもできなかった。
しかし、嘘か本当かなど、確かめる必要などなかった。だって、レイの瞳がそれを許さなかったから。
(……信じていたのに)
裏切られた気持ちだった。心が優しいレイが、そんなことするはずがないって信じたかった。なのに彼女は、『ええそうよ』そう言って、自身の罪を認めてしまった。
時が止まった。目の前が真っ暗になり、シリウスが信じていたレイが、音を立てて砕け散ってしまった。
(ああ……やっぱり……僕は誰も信じない方が良かったんだ……)
そう、絶望した。でも、不思議と涙は溢れてこなかった。枯れたように、ただ呆然としてしまった。
あの日、白いカラスに『死なないで』と必死に縋り、神様が赦しを与えてくれたと、涙を流して抱きついてきた、あの頃のレイは死んでしまった。
だから、シリウスはあの優しかった頃のレイを封印し、“レイ・ヴァーティン”に別の意味を持たせるようになった。
◇◆◇
「あんなやつ……嫌いだ。あいつのせいで全部、ぐちゃぐちゃで……」
呟きながらシリウスは、拳を握り締める。けれど、心の奥では別の感情が囁いていた。
(本当に、嫌い……なのか?)
なぜ、心がそう問いかけるのかわからない。だけど、その疑問を肯定することなど今の彼には不可能。
「嫌いだ! あんなやつ大っ嫌いだ……っ!」
シリウスは頭を振って、胸の奥から浮かび上がった疑問を打ち消そうとした。
けれど、記憶の中に滞在する彼女の笑顔が、どうしても消えてくれない。
「どうしてまだ、僕の心を乱してくるんだよ……。絶対、お前なんかと会ってやるものか。これ以上、僕を苦しめないでくれ」
シリウスは、抱えきれない不快な感情に振り回されながらも、不安定な決意を結ぶのだった―




