第9話 月喰い獣のレアドロップ
第9話 月喰い獣のレアドロップ
初夏を迎えた町で、雪山から冷たい風が吹いた。冒険者ギルドの窓辺には青い矢車菊が飾られていたが、花瓶の水は指を入れると痛いほど冷えている。マレナは灰色の革鎧の留め具を確かめながら、食堂で根菜のスープを飲んでいた。スープには肉が二切れ入っていたが、一切れは最後まで残してから食べることにした。
掲示板には、雪山へ現れた月喰い獣の討伐依頼が貼られていた。月喰い獣は一年に一度だけ山を下り、その銀色の毛は、薄くても凍えることのない月織りの布になる。前年までに五組の冒険者が挑み、全員が討伐を諦めて撤退していた。吐き出す冷気だけでなく、満月を背負ったときに使う即死攻撃が恐れられていた。
「銀炎獣より、さらに強い相手です。報酬は金貨二十枚。月織りの糸を持ち帰れば、町の子どもたちへ冬用の外套を作るそうです」
受付のロッタが依頼書を広げた。机には飲みかけの山羊乳と、砂糖をこぼしたまま閉じた帳面がある。マレナは報酬ではなく、月織りの布という文字を見ていた。ルカがなくした銀色のコートが、頭の中へ浮かんだ。
「その顔で行くのは反対だ。息子のコートと同じ素材だからといって、討伐を急ぐな。欲が出れば、罠を見落とす」
ガレスは大盾の縁を布で磨きながら言った。ティナは干し杏を食べ、エリオは雪山で眼鏡が曇らない方法を魔法書で調べている。マレナは依頼書から手を離し、スープに残していた肉を口へ入れた。
「欲しいからこそ、勝手なことはしません。手に入れた素材は、ギルドの規則どおりに分けます。それでも信用できないなら、今回も出発前と帰還後に荷物を調べてください」
「信用できないとは言っていない。お前は欲しい物を前にすると、自分の食事まで忘れる。それを心配している」
「では、山へ登る前に昼食を食べます。ティナも干し杏を全部食べず、半分は行動食として残してください」
四人は翌朝、雪山へ向かった。麓では紫色の都忘れが咲き、雪解け水の流れる音が聞こえていた。山道を登るにつれて花は減り、岩の間へ古い雪が残るようになる。マレナは厚い毛糸の上着に革鎧を重ね、マジックバッグへ縄、回復薬、魔力薬、折り畳み式の支柱を入れていた。
昼になると、四人は風を避けられる岩陰で休んだ。食事は固い黒パン、塩漬け肉、冷めた豆の煮物だった。ティナはパンへ蜂蜜を塗りすぎ、手袋の指をべたつかせている。エリオが布を差し出すと、洗って返すからと言って自分の袋へしまった。
「戦う前に確認します。私の疾風魔法は、皆さんが次の行動へ移るまでの間隔を短くします。ただし、エリオの呪文そのものが短くなるわけではありません」
「分かっている。私が詠唱している間、月喰い獣を止めてくれ。大魔法を一度完成させれば、弱点の胸元を凍らせられる」
「敵には遅延魔法を重ね、蜘蛛糸の罠と奇襲で動きを止めます。効かなければ無理をせず、全員で帰ります」
山頂近くの窪地に、月喰い獣はいた。白銀の毛に覆われた体は馬より大きく、額には黒い三日月形の角がある。息を吐くたびに空気が凍り、足元へ白い霜が広がった。獣の背後には、昼間だというのに淡い満月が浮かんでいた。
マレナは全員へ疾風魔法をかけ、続けて月喰い獣の行動を遅らせた。ガレスが大盾で突進を受けると、次の攻撃へ素早く移り、盾の縁を角へ打ちつける。ティナも通常より短い間隔で治癒を行い、凍ったガレスの腕をすぐに温めた。マレナは短剣を抜き、獣の横腹へ二度切り込んだ。
月喰い獣がガレスを跳ね飛ばし、エリオへ顔を向けた。エリオはすでに大魔法の詠唱を始めている。マレナは獣の足元へ蜘蛛糸の罠を設置した。白い糸が四本の脚へ絡んだが、月喰い獣は力任せに二本を引きちぎった。
「罠が長く持ちません。エリオ、あとどのくらいですか?」
「まだ三節ある。今動かれたら、詠唱を中断するしかない!」
「続けてください。次は私が止めます」
マレナは月喰い獣の正面へ飛び込み、短剣の柄を額へ打ちつけた。不意を突く奇襲だったが、獣は一歩よろめいただけで倒れない。黒い角が横へ振られ、マレナの革鎧をかすめた。衝撃で雪の上へ転がったが、すぐに立ち上がった。
ティナが治癒魔法を使おうとすると、マレナは手で止めた。傷は浅く、今はガレスへ魔力を残す必要がある。マジックバッグから魔力薬を取り出し、ティナへ投げる。次に月喰い獣へ遅延魔法を重ね、攻撃の間隔をさらに長くした。
「大魔法、完成するぞ! 全員、胸元から離れろ!」
青白い氷の槍が、月喰い獣の胸へ突き刺さった。獣の動きが止まり、銀色の毛に厚い霜がつく。ガレスが大盾で角を押さえ、マレナは背後へ回った。銀色の毛の奥で、細い糸の束が淡く光っていた。
マレナは盗賊技能を使い、月喰い獣の体へ指を差し入れた。毛皮を傷つけず、魔力の流れに沿って指を動かす。指先に柔らかな物が触れ、それを一息に引き出した。掌には、月の光を含んだ糸の束が載っていた。
「月織りの糸を盗みました。これなら、町の子ども用の外套を何着か作れます」
「まだ討伐は終わっていないぞ。喜ぶのは後にしろ。獣の背後の月が濃くなっている!」
淡かった満月が、黒い縁を持ち始めた。月喰い獣は動きを止め、角を空へ向けている。周囲の雪には、細い円がいくつも浮かんだ。マレナは罠解除の訓練で見た、魔力を一か所へ集める導線と同じ形だと気づいた。
「全員、円の外へ出て! これは攻撃ではなく、巨大な即死罠です。月から落ちる魔力が、円の中にいる者の命を奪います!」
「どこへ逃げればいい? 円が増えているぞ!」
「私の足元だけ安全です。全員、こちらへ来てください。ガレスはティナを連れて、エリオは杖を捨てても走って!」
マレナは魔力の導線が重ならない場所を見つけ、帰還用の印を投げた。仲間の行動間隔を短縮し、全員が次の動作へ移るまでの時間を縮める。ガレスはティナを抱え、エリオは杖を引きずりながら走った。四人が安全な場所へ入った直後、雪原へ黒い光が落ちた。
円の内側にあった岩と枯れ木が、音もなく崩れた。まともに受ければ、盾も治癒魔法も役に立たなかっただろう。マレナは魔力の導線を短剣で切り、次の即死罠が作られるのを防いだ。月喰い獣が体勢を崩し、黒い角を下げた。
「今です。もう一度、大魔法をお願いします。詠唱が終わるまで、私たちで止めます」
ガレスが正面から角を受け、ティナがすぐに傷を治した。マレナは獣へ遅延魔法をかけ、蜘蛛糸の罠を二重に置いた。糸を切られた瞬間には奇襲を打ち込み、再び行動不能にする。エリオの長い詠唱が、今度は一度も中断されずに完成した。
巨大な氷柱が月喰い獣を包んだ。ガレスが盾で胸元を打ち、マレナの短剣が氷の亀裂へ入る。月喰い獣は低い声を上げ、ゆっくり雪の上へ倒れた。背後に浮かんでいた満月も薄くなり、やがて昼の空へ消えた。
討伐された獣のそばに、銀色の宝箱が現れた。マレナはすぐに触れず、周囲の罠を調べた。毒針も爆発魔法もないと確認し、ガレスに見守られながら三つの鍵を開ける。蓋の内側から、乾燥させたラベンダーの匂いがした。
宝箱に入っていたのは、銀色に輝く子ども用のコートだった。月織りのカシミヤで作られ、襟元には雪の結晶が刺繍されている。ルカがなくしたコートとよく似ていたが、袖口の模様が少し違った。マレナは手を伸ばしかけ、その指を自分の膝へ戻した。
「持ち帰って売りましょう。代金は四等分です。月織りの糸も、討伐報酬と同じように分けてください」
「そのコートを息子に着せたいとは言わないのか。お前が盗んだ糸は売れば十分な額になる。俺たちの取り分は、それで足りる」
「欲しいからこそ、勝手に持ち帰りたくありません。ギルドで鑑定して、全員の取り分を決めます。それまではガレスが持っていてください」
ガレスはコートを布へ包み、自分のマジックバッグへ入れた。帰り道、四人は雪解け水を集め、岩陰で遅い昼食を取った。黒パンは凍りかけ、塩漬け肉も歯でちぎれないほど固くなっている。ティナは蜂蜜の瓶を火で温め、全員のパンへ少しずつ垂らした。
町へ戻ると、月織りの糸は金貨十六枚と鑑定された。討伐報酬を加えれば、四人が十分な額を受け取れる。子ども用のコートは希少品だったが、糸ほど高価ではなかった。ガレスは報酬の分配書へ、コートをマレナの取り分とする案を書いた。
「待ってください。私だけ、金貨以外の品を受け取ることになります。後で価値が上がれば、分配が不公平になります」
「鑑定額は金貨二枚だ。お前の取り分から、その金額を引く。残りの報酬は全員同じになる。これなら文句はないだろう」
「コートを欲しいと言った覚えはありません。皆さんが売りたいなら、売ってください」
「欲しくないのか?」
マレナはコートから顔をそらさなかった。盗んだ月織りのコートをルカへ渡し、冒険の報酬だと嘘をついた日のことを思い出していた。今度は本当に冒険で手に入れた。それでも、欲しいと言えば怪盗の頃と同じに見られる気がして、口に出せなかった。
「欲しいです。ルカに着せたい。でも、私が欲しいと言ったことで、皆さんに譲らせたくありません」
「だから数字で分けるのよ。金貨二枚をあなたの報酬から引けば、誰も損をしないわ。私たちは許してあげるのではなく、正しく分配しているの」
ティナが羽根ペンを取り、分配書へ署名した。エリオも鑑定額と計算を確認してから名前を書く。最後にガレスが署名し、マレナへ羽根ペンを渡した。四人の名前と金額が一枚の紙へ並んだ。
「この紙が、コートを受け取った証明になる。今度は息子の名前を縫っても、誰も盗品だとは言わない。なくしたら、衛兵へ届けを出せる」
マレナは羽根ペンを握り、自分の名前を書いた。文字は少し右へ傾いたが、線からはみ出さなかった。コートと分配書を一緒にマジックバッグへ入れる。誰にも見つからないよう底へ隠す必要はなかった。
帰宅すると、ルカは食卓で豆の筋を取っていた。夕食用の鍋には薄いスープが温まり、窓辺では青い矢車菊が一輪咲いている。マレナはコートをすぐには見せず、先に手を洗った。爪の間へ入った黒い土が落ちるまで、石鹸で何度もこすった。
「お母さん、月喰い獣を倒したの? 全員で帰ってきた?」
「全員で帰ってきたわ。それから、ルカに見せたい物があります。でも、渡す前に話さなければならないことがあるの」
マレナはマジックバッグから、分配書と銀色のコートを取り出した。月織りの布が台所の灯を受け、淡く光った。ルカは手を伸ばさず、なくしたコートと分配書を交互に見た。マレナは息子の向かいへ座り、逃げずにその目を見た。




