第2話 盗んだ月織りのコート
第2話 盗んだ月織りのコート
マレナは銀色のコートを胸へ抱えたまま、高級服飾店の二階に立っていた。月織りのカシミヤは指が沈むほど柔らかく、襟元からは防虫用の樟脳と乾燥させたラベンダーの匂いがした。展示台の横には、小さな真鍮の札が置かれている。そこに刻まれた金額は、薬草採取の仕事を二年続けても届かないものだった。
「これを最後にするわ。冬を越せる上着があれば、ルカは熱を出さずに済む。一着くらいなくなっても、この店の主人は困らないでしょう」
返事をする者はいなかった。階下では夜番の男が椅子を軋ませ、ときどき鼻をすする音を立てている。帳場の近くに置かれた火鉢には赤い炭が残り、飲みかけの葡萄酒から甘酸っぱい匂いが上がっていた。マレナはコートを丸めず、皺にならないよう裏地を内側にして畳んだ。
持ってきた革袋には入らなかった。マジックバッグの容量を増やす訓練を怠ってきたため、短剣と鍵開け道具だけで半分が埋まっている。仕方なくコートを黒い外套の下へ隠すと、胸から腹にかけて不自然に膨らんだ。鏡へ映った姿は、怪盗というより毛布を盗んだ猫のようだった。
「笑わないでよ。こっちは真剣なのだから。帰ったら、もっと大きなマジックバッグを買うわ」
鏡の中の自分へ言い訳をしてから、マレナは窓枠へ足をかけた。侵入したときには簡単に開いた窓が、湿気で木枠へ張りついている。音を立てないよう少しずつ押したが、コートの裾が金具へ引っかかった。銀色の糸が一本だけ引き出され、月明かりを受けて細く光った。
マレナは息を止め、糸を指へ巻きつけて切った。階下の夜番は目を覚まさず、大きないびきをかき始める。彼女は屋根へ出ると、雨樋を伝って裏路地へ下りた。石畳には霜が降り、黒い靴の下で白く砕けた。
貸家へ戻ると、ルカは寝台の端へ丸くなって眠っていた。暖炉の火は消え、布団から出た片手が冷たくなっている。椅子の背には、自分で縫った薄茶色の上着が掛けられていた。右肘の縫い目は大きさがばらばらだったが、糸の端だけは解けないよう何度も結ばれていた。
マレナはルカの手を布団へ戻し、盗んだコートを台所へ運んだ。朝になれば、どこで手に入れたのかと尋ねられる。夜中に人の店へ忍び込み、持ち帰ったとは言えなかった。彼女は水差しから冷たい水を飲み、答えを考えた。
翌朝、鍋では大麦の粥が煮えていた。薪を節約するため火が弱く、底のほうだけが焦げている。マレナは白いシャツと灰色のスカートへ着替え、銀色のコートを食卓の椅子へ広げた。窓辺の小菊は一輪増え、黄色い花びらに朝露がついていた。
「ルカ、起きて。見せたいものがあるの。寝癖は後で直せばいいから、早くいらっしゃい」
「今日は保育所がお休みなの? まだ外が暗いよ。お粥、焦げている匂いがする」
「少しくらい焦げたほうが香ばしいのよ。それより、こちらを見てちょうだい。お母さんからの贈り物よ」
ルカは眠そうに目をこすりながら、椅子の前へ来た。銀色のコートを見た途端、手を伸ばしかけて止める。自分の汚れた指を寝間着で拭き、もう一度そっと布へ触れた。柔らかな毛が指の動きに合わせて色を変えると、ルカは何度も目を瞬いた。
「これ、僕のなの? 誰かの服を預かってきたんじゃないの? 触っても怒られない?」
「あなたのよ。昨日の冒険で特別な報酬をもらったの。角兎よりずっと強いモンスターを倒したから、ギルドの人がくれたのよ」
「お母さんが、僕のためにもらってきてくれたの?」
マレナはうなずき、コートを息子の肩へ掛けた。袖は指先が半分隠れるほど長かったが、折れば数年は着られる。襟元の雪の結晶が朝日に照らされ、銀色の糸が青白く光った。ルカは壁に掛けた小さな鏡の前へ走り、右を向いたり、後ろを見ようと首を回したりした。
「お母さん、僕、貴族の子みたいだよ。これを着たら、雪の中でも寒くないかな。ポケットも二つあるよ」
「走ると転ぶわよ。裾を踏まないようにしなさい。袖は今日中に折って縫ってあげるから」
「古い上着も捨てないでね。僕が初めて自分で縫ったから、家の中で着るよ」
ルカは朝食の間もコートを脱ごうとしなかった。粥をこぼしそうになるたび、体を後ろへ引いて匙だけを口へ運ぶ。マレナが汚れるから椅子へ掛けるよう言うと、ルカは三度も振り返りながら脱いだ。大切な物を預けるように、襟をそろえて椅子の背へ掛けた。
その日から、ルカの生活に新しい習慣が増えた。外から帰ると、玄関でコートの裾を払い、小さなブラシで表面の埃を落とす。濡れた日は暖炉へ近づけすぎないよう椅子の位置を何度も変えた。寝る前には左右の袖をそろえ、雪の結晶の刺繍を指で撫でてから布団へ入った。
「毎日そんなに触ったら、かえって傷むわよ。コートは逃げないから、早く寝なさい。明日は保育所へ行くのでしょう」
「だって、お母さんが冒険をして買ってくれたんだもの。一生大切にする。僕が大きくなって着られなくなったら、僕の子どもにあげてもいい?」
「その頃には、もっと立派なコートが買えるわ。これは着られなくなるまで着ればいいのよ」
マレナは鍋を洗うふりをして、ルカへ背を向けた。桶の水は冷たく、指先が赤くなった。鍋の底についた焦げは、布でこすってもなかなか落ちない。背後から衣擦れの音が消し、ルカが布団へ入った後も、マレナは同じ場所を何度もこすった。
三日後、マレナは薬草採取の帰りに高級服飾店の前を通った。店先の花壇では白い山茶花が咲き、掃除された石畳には枯れ葉一枚落ちていない。入口には、新しい月織りの外套が飾られていた。子ども用のコートがなくなっても、店には変わった様子がなかった。
「ほらね。あの主人は困っていない。次の商品をすぐに並べられるくらい、お金があるのよ」
マレナは小声で言い、歩き出そうとした。そのとき、店の裏口から言い争う声が聞こえた。赤い髪の少女が、大きな布包みを抱えて立っている。住み込みの使用人らしく、紺色の仕事着の上へ古い外套を羽織っていた。
「お願いです、旦那様。あの夜、私は一階の商品を数えた後、言われたとおりに扉を確認しました。二階の鍵には触れていません」
「では、コートが自分で歩いて出ていったとでも言うのか。お前が夜番と組んで盗んだのでなければ、ほかに誰がいる」
「分かりません。でも、私ではありません。今月のお給金もまだいただいていません。せめて、それを払ってください」
「盗品の代金にも足りん。今すぐ出ていけ。二度とこの町の店で働けると思うな」
店主は少女の足元へ、小さな革靴を投げた。片方の靴底には穴が開き、布を詰めなければ歩けない状態だった。少女は給金を求めたが、店主は裏口を閉め、内側から鍵をかけた。乾いた音がして、少女の肩が小さく動いた。
通りを歩く人々は足を止めなかった。少女は布包みを抱え直し、穴の開いた革靴へ足を入れた。外套の下には仕事着しかなく、着替えも持っていないらしい。山茶花の根元へ落ちていた銅貨を一枚拾ったが、店の金かもしれないと考えたのか、窓枠へ置き直した。
マレナは薬草籠の持ち手を強く握った。店主が強欲であることは事実だった。だが、コートを盗まれて最初に代償を払ったのは店主ではない。自分と同じように古い服を着て働いていた、名前も知らない少女だった。
「貧しい者からは盗んでいない。私は金持ちからしか盗まない」
何度も使ってきた言葉を口にしたが、今度は何の役にも立たなかった。マレナが金持ちの棚から一着取れば、金持ちはもっと弱い者から代金を取り戻す。それを知らなかったのではない。誰が困ったのか、今まで見に来なかっただけだった。
少女が通りの先へ歩き始めた。穴の開いた靴が水たまりへ入り、片足を引きずるようになる。マレナは声をかけようとしたが、自分がコートを盗んだと言うことも、ルカから取り上げて返すこともできなかった。薬草籠には今日摘んだ葉が入っているだけで、渡せる金もなかった。
その夜、ルカは月織りのコートを椅子へ掛け、雪の結晶の刺繍を指でなぞった。台所では豆のスープが冷め、表面に薄い膜が張っている。窓辺の小菊は頭を垂れ、土は白く乾いていた。マレナは水をやることも忘れ、銀色のコートを見つめていた。
「お母さん、どうしたの? 今日は冒険で失敗したの?」
「いいえ。失敗したのは、今日ではないの。少し前に、間違ったものを持ち帰っただけよ」
「なくしたの? 僕も一緒に捜そうか?」
マレナは答えられなかった。ルカは母親を励ますように笑い、コートの袖へ頬を寄せた。柔らかな布から、息子が毎日使っている石鹸の匂いがした。その奥にはまだ、服飾店で嗅いだラベンダーと樟脳の香りが残っていた。




