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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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9/20

第九章 存在しない束番号

 夜明け前まで、あと三時間。


 保管所の廊下を走る足音が聞こえた。


 軽い足音だった。

 職員の革靴よりも、もっと頼りなくて、急いでいるのに何度もつまずきそうになる音。


 僕は顔を上げた。


 記録室の扉が勢いよく開く。


「リュカさん!」


 飛び込んできたのは、ニナだった。


 頬は赤く、息は切れている。

 両手には分厚い搬入記録簿を抱えていた。彼女の体格には少し大きすぎる帳簿で、落とさないように必死で抱きしめている。


「見つけました」


 ニナはそう言った。


 その声には怯えよりも、興奮があった。

 以前紙の前に立ち尽くしていた彼女とは、少し違う。


 自分で何かを見つけた。

 誰かに言わなければと思って走ってきた。


 その小さな前進が、僕には分かった。


「落ち着いてください。何を見つけました?」


「搬入記録です。今朝の分。あの罪状記録が混ざっていた未整理箱の」


 バルト主任が振り向く。


「ニナ、お前は待機を命じたはずだ」


「すみません。でも、見つけたんです」


「何を」


 ニナは帳簿を机に置いた。

 手が震えている。けれど、ページを開く動きは確かだった。


「今朝の搬入分は、一二七から一三四までです」


 彼女は指で行を追う。


「搬入札も八束分。第三棚の未整理箱に入ったのも、この八束だけのはずです」


「それは確認済みだ」


 主任の声は厳しい。

 けれど、遮りはしなかった。


 ニナは息を吸った。


「でも、押印控えには一三五があります」


 部屋の空気が変わった。


 以前見つけた、存在しない束番号。

 それをニナ自身が見つけて、ここへ持ってきた。


 まだ彼女は知らない。

 その一三五の処理者欄に、自分の名前があることを。


 セリアが静かに近づいた。


「見せてください」


「はい」


 ニナは帳簿を差し出す。


 セリアはページを確認する。

 僕も横から覗いた。


 搬入一覧。


 一二七。

 一二八。

 一二九。

 一三〇。

 一三一。

 一三二。

 一三三。

 一三四。


 そこで終わっている。


 だが押印控えの補助欄には、確かに一三五がある。


「一三五に対応する搬入札は?」


 セリアが問う。


「ありません。札束の控え箱も見ました。でも、一三五の札だけがないんじゃなくて、一三五という札が発行された記録自体がありません」


「つまり、番号だけがある」


「はい」


 ニナの声には、まだ発見者の緊張があった。


「おかしいですよね。存在しない束が、未整理箱に仮置きされたことになっているんです」


 バルト主任が帳簿を引き寄せた。


「未整理箱への仮置き記録は?」


 ニナの表情が少し明るくなる。


「それも見ました。ここです」


 彼女は別のページを開いた。


 束番号一三五。

 処理時刻、午前七時五十六分。

 処理区分、未整理箱へ仮置き。


 そして、処理者欄。


 ニナ・ラスク。


 ニナの指が止まった。


「……え?」


 小さな声だった。


 彼女は自分の名前を見つめた。

 理解するまでに数秒かかった。


「これ、私の名前です」


 誰もすぐには答えなかった。


 沈黙が、部屋の中に落ちる。


 ニナの顔から、さっきまでの赤みが引いていく。


「でも、私、してません」


 声が震えた。


「一三五なんて、処理してません。だって、そんな束、なかったんです。私は……私は、第三棚の未整理箱から、あの紙を見つけただけで」


 以前の彼女の声が、頭の中で重なった。


 でも、私が見つけました。


 あの時も、彼女は震えていた。

 でも、言った。


 今も、言おうとしている。


「私は見つけただけです」


 その言葉が、細く部屋に響いた。


 セリアはすぐに言った。


「ニナ・ラスク。あなたを犯人と断定しているわけではありません」


「でも、私の名前が」


「だから確かめます。あなたの言葉も、記録も、両方を」


 セリアの声は冷静だった。

 冷たくはない。だが、甘くもない。


 それがニナを安心させきれないことも、僕には分かった。


 記録に名前がある。

 それは、この世界では重い。


 たとえ本人が「していない」と言っても、紙の上の名前は簡単には消えない。


「エルム」


 セリアが僕を見る。


「処理者欄を見てください」


 僕は頷き、帳簿へ顔を近づけた。


 ニナ・ラスク。


 文字は整っている。

 見習い職員らしい、教本に従った筆跡。


 けれど、何かが違う。


 僕はニナに尋ねた。


「ニナさん。普段、名前を書く時、最後の“ク”の払いは上げますか、止めますか」


「え?」


「ラスクの“ク”です」


「えっと……止めます。上げると主任に雑だって言われるので」


 バルト主任が気まずそうに咳をした。


「指導だ」


「はい。なので、止めます」


 僕は処理者欄を見た。


 この“ク”は、わずかに上がっている。


 書いた人間は、ニナの字を真似ている。

 でも、癖までは完全に真似られていない。


「筆跡は似ています。でも、本人の癖とは少し違います」


 ニナの顔がこちらへ向く。


 ほんの少し、希望が戻る。


「本当ですか」


「はい」


 言ってから、僕は続けるべき言葉を探した。


 本当はここで言える。


 誰かがニナの名前を使っている可能性が高い。

 ニナ本人が処理したとは考えにくい。

 以前彼女が語った発見時の細部は、仕掛けた側の説明として不自然だ。


 言える。


 言うべきだ。


 僕は以前の記憶を思い返す。


 紙の向きが逆だった。

 端が湿っていた。

 冷たかった。

 甘い匂いがした。

 待合室のリナの袋を思い出した。


 仕掛けた側なら、あんなふうに自分の動揺ごと話すだろうか。

 もっと整えた説明を用意するはずだ。


 ニナは、見つけただけだ。


 少なくとも、その可能性が高い。


 けれど、それを明言すれば、次の問題が口を開ける。


 では、誰がニナの名前を書いたのか。

 存在しない束番号は誰が作ったのか。

 押印記録は誰が操作したのか。

 鍵管理はどう破られたのか。

 バルト主任の管理責任は。

 保管所全体の責任は。


 話が広がる。


 広がった責任は、誰かを潰す。


 僕は帳簿の余白を見た。


 束番号一三五の横に、小さな補助記号がある。

 搬入経路を示す略号だ。


 その線の曲がり方に、見覚えがあった。


「これは……」


 マルクの薬房で見た、トマの書きかけメモ。

 あの紙の端にあった、小さな薬草分類の記号。

 同じではない。だが、似ている。


 セリアが気づく。


「何か?」


「補助記号が、少し変です」


「変?」


「保管所の正式な略号ではありません。薬房の在庫記号に似ています。トマのメモにあった印と、線の曲がり方が近い」


 バルト主任が眉を寄せる。


「薬師見習いの記号が、搬入記録に?」


「断定はできません。ただ、似ています」


 まただ。


 断定はできません。


 僕はまた、逃げるための言葉を選んでいる。


 セリアの視線が少し強くなる。


「一三五の処理時刻は?」


 ニナが慌ててページを見る。


「午前七時五十六分です」


 マルクの話では、トマは夜明け前には水汲みに出るはずだった。

 でも今朝は来ていない。


 午前七時五十六分。

 トマが失踪していることに、マルクが気づく少し前。


 トマの書きかけメモ。

 リナの髪紐。

 存在しない束番号。

 薬房に似た補助記号。


 全部が一本につながるわけではない。

 でも、近づいている。


「トマさんが、保管所に来たんですか」


 ニナが小さく言った。


「それはまだ分かりません」


 セリアが答える。


「ただ、この記録は薬房側の何かと接点を持っている可能性があります」


 ニナは自分の名前がある欄を見つめた。


「でも、ここには私の名前が」


「確かめます」


「私は、本当に」


「分かっています。あなたの話を聞きます」


 セリアはそう言った。


 けれど、ニナの視線は僕に向いた。


 以前、僕は言った。


 最後まで聞きます。


 その言葉を、彼女は覚えている。


「リュカさん」


 ニナの声は震えていた。


「私、見つけただけです。あの紙を、未整理箱から。本当に」


 僕は頷いた。


「はい」


「信じてくれますか」


 信じる。


 また、その言葉だ。


 信じると言えば、責任が生まれる。

 信じた相手が間違っていた時、自分の判断も問われる。


 僕はニナの筆跡を見た。

 違う。

 彼女の以前の証言を思い出した。

 仕掛けた側には見えない。


 言えるはずだ。


 ニナさんが処理したとは考えにくい。

 誰かが名前を使った可能性が高い。


 言えるはずなのに。


「記録上は、確認が必要です」


 僕はそう言った。


 ニナの顔が、少し固まった。


 すぐに後悔した。


 今の言葉は間違っていない。

 だが、足りない。


 正しくて、足りない言葉は、人を傷つけることがある。


 セリアが僕を見た。


 その目には、はっきりと警戒があった。


「エルム」


「はい」


「あなたは何を見ましたか」


 逃げ道を塞ぐ声だった。


 僕は帳簿を見る。

 処理者欄。筆跡。束番号。補助記号。時刻。


 そして、ニナの白くなった顔。


 セリアは静かに問う。


「あなたはこの記録を、誰が処理したと見ますか」


 僕は答えられなかった。

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