第九章 存在しない束番号
夜明け前まで、あと三時間。
保管所の廊下を走る足音が聞こえた。
軽い足音だった。
職員の革靴よりも、もっと頼りなくて、急いでいるのに何度もつまずきそうになる音。
僕は顔を上げた。
記録室の扉が勢いよく開く。
「リュカさん!」
飛び込んできたのは、ニナだった。
頬は赤く、息は切れている。
両手には分厚い搬入記録簿を抱えていた。彼女の体格には少し大きすぎる帳簿で、落とさないように必死で抱きしめている。
「見つけました」
ニナはそう言った。
その声には怯えよりも、興奮があった。
以前紙の前に立ち尽くしていた彼女とは、少し違う。
自分で何かを見つけた。
誰かに言わなければと思って走ってきた。
その小さな前進が、僕には分かった。
「落ち着いてください。何を見つけました?」
「搬入記録です。今朝の分。あの罪状記録が混ざっていた未整理箱の」
バルト主任が振り向く。
「ニナ、お前は待機を命じたはずだ」
「すみません。でも、見つけたんです」
「何を」
ニナは帳簿を机に置いた。
手が震えている。けれど、ページを開く動きは確かだった。
「今朝の搬入分は、一二七から一三四までです」
彼女は指で行を追う。
「搬入札も八束分。第三棚の未整理箱に入ったのも、この八束だけのはずです」
「それは確認済みだ」
主任の声は厳しい。
けれど、遮りはしなかった。
ニナは息を吸った。
「でも、押印控えには一三五があります」
部屋の空気が変わった。
以前見つけた、存在しない束番号。
それをニナ自身が見つけて、ここへ持ってきた。
まだ彼女は知らない。
その一三五の処理者欄に、自分の名前があることを。
セリアが静かに近づいた。
「見せてください」
「はい」
ニナは帳簿を差し出す。
セリアはページを確認する。
僕も横から覗いた。
搬入一覧。
一二七。
一二八。
一二九。
一三〇。
一三一。
一三二。
一三三。
一三四。
そこで終わっている。
だが押印控えの補助欄には、確かに一三五がある。
「一三五に対応する搬入札は?」
セリアが問う。
「ありません。札束の控え箱も見ました。でも、一三五の札だけがないんじゃなくて、一三五という札が発行された記録自体がありません」
「つまり、番号だけがある」
「はい」
ニナの声には、まだ発見者の緊張があった。
「おかしいですよね。存在しない束が、未整理箱に仮置きされたことになっているんです」
バルト主任が帳簿を引き寄せた。
「未整理箱への仮置き記録は?」
ニナの表情が少し明るくなる。
「それも見ました。ここです」
彼女は別のページを開いた。
束番号一三五。
処理時刻、午前七時五十六分。
処理区分、未整理箱へ仮置き。
そして、処理者欄。
ニナ・ラスク。
ニナの指が止まった。
「……え?」
小さな声だった。
彼女は自分の名前を見つめた。
理解するまでに数秒かかった。
「これ、私の名前です」
誰もすぐには答えなかった。
沈黙が、部屋の中に落ちる。
ニナの顔から、さっきまでの赤みが引いていく。
「でも、私、してません」
声が震えた。
「一三五なんて、処理してません。だって、そんな束、なかったんです。私は……私は、第三棚の未整理箱から、あの紙を見つけただけで」
以前の彼女の声が、頭の中で重なった。
でも、私が見つけました。
あの時も、彼女は震えていた。
でも、言った。
今も、言おうとしている。
「私は見つけただけです」
その言葉が、細く部屋に響いた。
セリアはすぐに言った。
「ニナ・ラスク。あなたを犯人と断定しているわけではありません」
「でも、私の名前が」
「だから確かめます。あなたの言葉も、記録も、両方を」
セリアの声は冷静だった。
冷たくはない。だが、甘くもない。
それがニナを安心させきれないことも、僕には分かった。
記録に名前がある。
それは、この世界では重い。
たとえ本人が「していない」と言っても、紙の上の名前は簡単には消えない。
「エルム」
セリアが僕を見る。
「処理者欄を見てください」
僕は頷き、帳簿へ顔を近づけた。
ニナ・ラスク。
文字は整っている。
見習い職員らしい、教本に従った筆跡。
けれど、何かが違う。
僕はニナに尋ねた。
「ニナさん。普段、名前を書く時、最後の“ク”の払いは上げますか、止めますか」
「え?」
「ラスクの“ク”です」
「えっと……止めます。上げると主任に雑だって言われるので」
バルト主任が気まずそうに咳をした。
「指導だ」
「はい。なので、止めます」
僕は処理者欄を見た。
この“ク”は、わずかに上がっている。
書いた人間は、ニナの字を真似ている。
でも、癖までは完全に真似られていない。
「筆跡は似ています。でも、本人の癖とは少し違います」
ニナの顔がこちらへ向く。
ほんの少し、希望が戻る。
「本当ですか」
「はい」
言ってから、僕は続けるべき言葉を探した。
本当はここで言える。
誰かがニナの名前を使っている可能性が高い。
ニナ本人が処理したとは考えにくい。
以前彼女が語った発見時の細部は、仕掛けた側の説明として不自然だ。
言える。
言うべきだ。
僕は以前の記憶を思い返す。
紙の向きが逆だった。
端が湿っていた。
冷たかった。
甘い匂いがした。
待合室のリナの袋を思い出した。
仕掛けた側なら、あんなふうに自分の動揺ごと話すだろうか。
もっと整えた説明を用意するはずだ。
ニナは、見つけただけだ。
少なくとも、その可能性が高い。
けれど、それを明言すれば、次の問題が口を開ける。
では、誰がニナの名前を書いたのか。
存在しない束番号は誰が作ったのか。
押印記録は誰が操作したのか。
鍵管理はどう破られたのか。
バルト主任の管理責任は。
保管所全体の責任は。
話が広がる。
広がった責任は、誰かを潰す。
僕は帳簿の余白を見た。
束番号一三五の横に、小さな補助記号がある。
搬入経路を示す略号だ。
その線の曲がり方に、見覚えがあった。
「これは……」
マルクの薬房で見た、トマの書きかけメモ。
あの紙の端にあった、小さな薬草分類の記号。
同じではない。だが、似ている。
セリアが気づく。
「何か?」
「補助記号が、少し変です」
「変?」
「保管所の正式な略号ではありません。薬房の在庫記号に似ています。トマのメモにあった印と、線の曲がり方が近い」
バルト主任が眉を寄せる。
「薬師見習いの記号が、搬入記録に?」
「断定はできません。ただ、似ています」
まただ。
断定はできません。
僕はまた、逃げるための言葉を選んでいる。
セリアの視線が少し強くなる。
「一三五の処理時刻は?」
ニナが慌ててページを見る。
「午前七時五十六分です」
マルクの話では、トマは夜明け前には水汲みに出るはずだった。
でも今朝は来ていない。
午前七時五十六分。
トマが失踪していることに、マルクが気づく少し前。
トマの書きかけメモ。
リナの髪紐。
存在しない束番号。
薬房に似た補助記号。
全部が一本につながるわけではない。
でも、近づいている。
「トマさんが、保管所に来たんですか」
ニナが小さく言った。
「それはまだ分かりません」
セリアが答える。
「ただ、この記録は薬房側の何かと接点を持っている可能性があります」
ニナは自分の名前がある欄を見つめた。
「でも、ここには私の名前が」
「確かめます」
「私は、本当に」
「分かっています。あなたの話を聞きます」
セリアはそう言った。
けれど、ニナの視線は僕に向いた。
以前、僕は言った。
最後まで聞きます。
その言葉を、彼女は覚えている。
「リュカさん」
ニナの声は震えていた。
「私、見つけただけです。あの紙を、未整理箱から。本当に」
僕は頷いた。
「はい」
「信じてくれますか」
信じる。
また、その言葉だ。
信じると言えば、責任が生まれる。
信じた相手が間違っていた時、自分の判断も問われる。
僕はニナの筆跡を見た。
違う。
彼女の以前の証言を思い出した。
仕掛けた側には見えない。
言えるはずだ。
ニナさんが処理したとは考えにくい。
誰かが名前を使った可能性が高い。
言えるはずなのに。
「記録上は、確認が必要です」
僕はそう言った。
ニナの顔が、少し固まった。
すぐに後悔した。
今の言葉は間違っていない。
だが、足りない。
正しくて、足りない言葉は、人を傷つけることがある。
セリアが僕を見た。
その目には、はっきりと警戒があった。
「エルム」
「はい」
「あなたは何を見ましたか」
逃げ道を塞ぐ声だった。
僕は帳簿を見る。
処理者欄。筆跡。束番号。補助記号。時刻。
そして、ニナの白くなった顔。
セリアは静かに問う。
「あなたはこの記録を、誰が処理したと見ますか」
僕は答えられなかった。




