第八章 甘い匂いの違い
リナの呼吸が、細くなっていた。
夜明け前まで、あと四時間。
その数字を誰かが口にしたわけではない。
けれど保護室に入った瞬間、僕はそう数えていた。
寝台の上で、リナ・ベルは母親の手を握っていた。
目は開いている。けれど、まぶたが重そうに震えている。眠気と戦っている子供の目だった。
「リナ。聞こえますか」
セリアが寝台の横に膝をつく。
声は低く、落ち着いていた。
ただ、いつもより言葉が少し硬い。
「……聞こえる」
リナの声は、糸みたいに細かった。
母親が泣きそうな顔で医師を見る。
「さっきより苦しそうなんです。蜂蜜湯は飲んでいません。袋にも触っていません。どうして」
医師は答えられなかった。
机の上には封じられた蜂蜜湯。
匂い袋も封箱の中。
保護室の扉には職員が立ち、出入りの記録もつけている。
僕たちは、危険なものを封じたはずだった。
はず、だった。
マルク・レインがリナの様子を確認する。
彼の肩には以前受けた石の痕がまだ残っている。包帯の端が白衣の下から少し見えていた。
それでも彼は、自分の怪我には目もくれない。
「リナ。胸は痛い?」
「痛くない。でも……狭い」
「喉は?」
「変。あまい」
「甘い?」
医師が眉を寄せる。
「蜂蜜湯の匂いでしょうか」
「蜂蜜湯は封じています」
セリアが即座に言う。
「匂い袋も、封は破られていません」
「では、なぜ症状が進む」
バルト主任が低く呟いた。
部屋の隅に立つ彼の顔は険しい。
記録の問題だけでなく、目の前の子供が弱っていくことにも苛立っているように見えた。
大人たちの言葉が重なる。
毒は検出されていない。
蜂蜜湯は飲んでいない。
匂い袋は封じた。
保護室への出入りも制限している。
それなのに、リナは苦しんでいる。
「……同じ甘い匂いだけど」
リナが言った。
小さすぎて、最初は誰も反応できなかった。
僕だけが、少し遅れて顔を上げる。
「リナさん。今、何て?」
リナは僕を見る。
眠そうで、苦しそうで、それでも言葉を探していた。
「同じ甘い匂いだけど、さっきと違う」
医師が困惑した顔をする。
「甘い匂いが違う?」
「子供の感覚です。混乱しているのかもしれません」
職員の一人が言いかけた。
僕は反射的に首を振った。
「混乱していても、聞く価値はあります」
言ってから、自分でも少し驚いた。
声が、思ったより強かった。
リナは僕を見ていた。
以前「悪いことをしたんですか」と聞いた時と同じ目だ。
答えを待っている目。
大人が自分の言葉を捨てるかどうか、見ている目。
僕は寝台から少し離れた椅子に腰を下ろした。
近づきすぎない。見下ろさない。急かさない。
「どこが違うか、教えてください。上手く言えなくても大丈夫です」
「……分かんない」
「分からない、でも大丈夫です。甘い匂いが、重い感じ? 軽い感じ?」
リナは少し考えた。
「さっきのは、重い」
「蜂蜜湯の匂い?」
「うん。喉に残る。ねむくなる甘さ」
マルクの表情が変わった。
僕は続ける。
「今の匂いは?」
「軽い。でも、鼻の奥がつんってする」
「眠くなる?」
「眠い。でも、それより……息が狭くなる甘さ」
息が狭くなる甘さ。
大人なら、そんな言い方はしない。
呼吸抑制。刺激臭。気道の違和感。そういう言葉に置き換えるだろう。
けれど、リナは「息が狭くなる」と言った。
その言葉のまま残すべきだ。
「どこから匂うか分かりますか」
僕が尋ねると、セリアの声が飛んだ。
「エルム」
短い声だった。
叱責ではない。
でも、止める声。
僕は口を閉じた。
セリアはリナの顔を見る。
それから僕へ視線を移した。
「聞くことと、使い潰すことは違います」
胸に刺さった。
僕は手がかりが欲しかった。
リナの言葉を軽んじてはいなかった。
でも、軽んじないことと、疲れた子供から言葉を取り続けることは同じではない。
「……すみません」
僕はリナへ向き直る。
「今の質問は急ぎすぎました。答えなくていいです」
リナは小さく瞬きをした。
「怒られた?」
「はい」
「セリアさん、こわい?」
「比較的」
「エルム」
セリアの声がさらに低くなる。
リナがほんの少し笑った。
それだけで、部屋の空気が一瞬だけ緩む。
マルクがリナの脈を確認しながら言った。
「今の証言で十分です」
「何か分かりましたか」
セリアが問う。
「第二成分は一種類ではないかもしれません」
マルクは短く説明した。
「甘い匂い、と言っても成分は複数あります。眠りを強めるもの、呼吸を鈍らせるもの、喉に残るもの、鼻を刺すもの。リナの言う“重い甘さ”と“軽い甘さ”が別なら、匂い袋は一つの成分だけでなく、段階的に複数の成分を運ばされている可能性があります」
「つまり、蜂蜜湯だけ封じても足りない」
「はい」
マルクは顔を歪めた。
「リナの体に、まだ別の接触源が残っているかもしれない」
母親が息を呑む。
「体に?」
「衣服、髪、寝具、肌に触れるもの。可能性を潰します。ただし、リナを無理に動かしてはいけません」
マルクの声には焦りがあった。
けれど、焦っているのは自分の疑いを晴らしたいからではない。
この子を助けたいからだ。
セリアはすぐに指示を出した。
「寝具と衣服を確認。女性職員を呼んでください。リナの負担を最小限に。母親の同席を認めます。記録係は一人だけ。不要な者は外へ」
「はい」
「マルク・レイン。確認に必要な項目を口頭で。触れる場合は必ず私に告げてから」
「分かっています」
「信じていないわけではありません」
「分かっています」
「ですが、確認はします」
「それも、分かっています」
二人のやり取りは短い。
冷たくはない。
でも甘くもない。
セリアはリナの母親に向き直った。
「これから身につけている物を一つずつ確かめます。リナに負担が出る場合は止めます。あなたはそばにいてください」
「娘を、裸にするんですか」
「必要な確認だけです。男性は部屋の外へ出します」
僕は即座に一歩下がった。
「出ます」
「あなたは扉の外で待機。記録は女性職員が取ります」
「はい」
命令される前に出たかった。
こういう時に居座る男にはなりたくない。というか、なったらセリアに物理的に出される気がする。
廊下で待つ時間は、やけに長かった。
扉の向こうから、リナの小さな声が時々聞こえる。
母親の励ます声。
女性職員の丁寧な説明。
セリアの短い指示。
マルクの、薬草名を確認する低い声。
僕は壁にもたれ、手帳を開いた。
重い甘さ。
喉に残る。
眠くなる。
軽い甘さ。
鼻の奥がつんとする。
息が狭くなる。
大人の言葉に直したくなる。
でも、直さない。
ピムの「下手な芝居みたいだった」と同じだ。
子供の言葉は、不正確に見えて、時々いちばん正確な形をしている。
扉が開いた。
セリアが出てくる。
「入ってください。リナは落ち着いています」
「何か見つかりましたか」
「髪紐です」
僕は保護室へ戻った。
リナは毛布を肩までかけられ、母親の膝に頭を預けていた。疲れているが、さっきより呼吸は少し落ち着いている。
机の上には、小さな髪紐が置かれていた。
薄い黄色の紐。
子供用の、飾り気の少ないものだ。端に小さな布花がついている。
マルクがそれを見て、表情を曇らせていた。
「これは?」
僕が聞く。
リナが小さく答えた。
「先生のところで、結んでもらった」
マルクが目を伏せる。
「三日前です。咳で汗をかいて、髪が首に張りついていたので……トマが結び直したはずです」
トマ。
失踪した見習いの名前が、また出た。
セリアは髪紐を封じる前に、マルクへ確認させた。
「匂いは?」
マルクは慎重に、近づきすぎずに確かめる。
「蜂蜜湯とは違います」
僕も、許可を得て少しだけ匂いを確認した。
甘い。
でも、確かに違う。
蜂蜜湯の甘さは重く、喉の奥に残った。
これは軽い。鼻の奥を細く刺すような、嫌な甘さ。
「リナさんが言った通りです」
僕は言った。
「別の甘い匂いです」
セリアが職員に封箱を持ってこさせる。
「髪紐はリナがずっと身につけていたものですね」
母親が頷く。
「はい。昨日も、一昨日も。寝る時も、取るのを嫌がって」
「保護室に入ってから付けられたものではない」
「違います」
つまり、蜂蜜湯とは別だ。
保護室に侵入したものだけが危険だったわけではない。
リナは、保護される前から毒の片割れを身につけていた可能性がある。
マルクは髪紐を見つめていた。
「トマが……」
その声は、疑いよりも痛みに近かった。
「トマがこれに気づいていたなら、あのメモは」
――先生へ。あの袋は、やはり
書きかけの言葉が、頭の中でつながりかける。
あの袋は、やはり。
髪紐も、やはり。
リナを殺すための準備は、匂い袋だけではなかった。
セリアは封じられた髪紐を見下ろした。
「保護室に入ったのは、蜂蜜湯だけではありませんでした」
「いえ」
僕は首を振った。
「もっと悪いです」
セリアがこちらを見る。
僕は髪紐を見た。
「これは、保護室に入る前からリナさんのそばにありました」
リナはまだ生きている。
けれど、毒殺の準備は、彼女が助けを求める前から始まっていた。
封じられた髪紐から、蜂蜜湯とは別の甘い匂いがしていた。




