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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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7/20

第七章 押されていない受理印

 夜明け前まで、あと五時間。


 保管所へ戻る道で、僕は何度も同じ言葉を思い出していた。


 夜明け前に毒が回る。

 少女を毒殺した。

 記録はもう出ている。


 群衆の怒号は、今も耳の奥に残っている。

 怒りの声は、聞いたあともしばらく消えない。紙に書かれた文字より、ずっとしつこい。


 でも、問題は怒りそのものではなかった。


 その怒りに混ざっていた言葉だ。


 保管所の記録室に戻ると、バルト主任は机の前に立っていた。

 腕を組み、眉間に深い皺を刻み、誰かを怒鳴る準備が整っている顔だった。


「戻ったか」


「はい」


「薬房は?」


「私刑寸前でした」


 セリアが答える。


 主任の顔がわずかに歪んだ。


「……噂が早すぎる」


「早いだけではありません」


 セリアは僕を見る。


「エルム。説明を」


 来た。


 分かっていたのに、胃が縮む。

 報告は嫌いだ。特に、報告した先で誰かの責任が発生するものは。


 けれど今回は、言わなければならない。


 僕は罪状記録を机に広げた。


 ――薬師マルク・レインは、夜明け前に少女リナ・ベルを毒殺した。


「群衆の中に、この記録文に近い言葉を繰り返している人間がいました」


 バルト主任が目を細める。


「近い言葉?」


「“夜明け前に毒が回る”“少女を毒殺した”“記録はもう出ている”。完全に同じではありません。でも、自然な噂にしては記録文に寄りすぎています」


「どういう意味だ」


「普通、街の噂なら崩れます。“薬師が子供を殺そうとした”“眠り薬を盛ったらしい”のように。でも今回は、罪状記録の骨が残っている」


 僕は紙の一文を指ささず、少し上を示した。


「夜明け前。少女。毒殺。記録。この四つが揃っている」


 バルト主任は唸った。


「記録を見た誰かが漏らしたと?」


「可能性があります」


 言い切るのが怖くて、僕はそう言った。


 セリアの視線が横から刺さる。

 可能性。

 便利な言葉だ。責任を少し薄める。


 でも、彼女はそこで責めなかった。


「漏洩経路は後で追います。先に受理印です」


 セリアは罪状記録の右下を示した。


 赤い受理印。

 少し傾いた円。左上が濃く、右下が薄い。


 以前見た時から、気になっていた。

 この印は、バルト主任の押し癖に似ている。


「主任」


 セリアが問う。


「この印に見覚えは?」


「俺の押し方に似ている」


 バルト主任は認めた。


「だが、押していない」


「押印記録では、あなたが処理したことになっています」


「知っている。だから腹が立っている」


 主任は机の引き出しから分厚い帳簿を取り出した。

 表紙には押印管理簿と書かれている。


 保管所では、受理印を押すたびに時刻、担当者、文書番号を記録する。

 面倒な仕組みだ。

 でも、罪状記録に効力を持たせる印なら、それくらい面倒でなければ困る。


 主任は乱暴にページをめくった。


「問題の記録が受理された時刻は、午前八時二刻。担当者は俺。文書番号も合っている」


「その時刻、あなたはどこに?」


「第二保管室だ」


 セリアが別の帳簿を開く。

 鍵管理記録。


「同時刻、第二保管室で鍵確認。立会人二名。署名あり」


「そうだ」


「受理印箱の鍵は?」


「俺の腰だ」


「記録上も?」


「記録上もだ」


 室内が静かになった。


 僕は二つの帳簿を見比べた。


 押印記録では、主任が罪状記録に印を押している。

 鍵管理記録では、主任は別室にいる。

 受理印箱の鍵は主任の腰にある。


 つまり。


 記録上は主任が押した。

 物理的には押せない。

 鍵は主任の手元にあった。


 どれか一つだけなら、書き間違いで済むかもしれない。

 でも三つ揃うと、紙の上で現実が割れる。


 バルト主任は拳を握った。


「ここは記録を守る場所だ」


 低い声だった。


「犯罪者を守る場所じゃない。役人を守る場所でもない。証言を、契約を、死んだ者の言葉を、ここで預かっている」


 主任は僕を見る。


「ここが壊れたら、誰の証言も守れなくなる。金のあるやつも、ないやつも。字が書けるやつも、書けないやつもだ」


 怒鳴ってはいなかった。


 その方が、重かった。


「俺が疑われるのは構わん」


「構うでしょう」


 僕は思わず言った。


 主任が睨む。


「構わんと言った」


「構う顔をしています」


「エルム」


「すみません」


 余計なことを言った。

 ただ、主任の顔は、自分が疑われる怒りだけではなかった。


 怖がっている。


 保管所そのものが疑われることを。

 記録という土台が崩れることを。


 それは、たぶん僕にも分かる。


 リナの証言。

 ニナの証言。

 ピムの証言。


 記録が守れなくなれば、弱い声から消えていく。


 セリアは帳簿を閉じなかった。


「主任が犯人だとすると、矛盾が多すぎます」


 バルト主任が顔を上げる。


「俺を庇うのか」


「いいえ。事実を見ています」


 セリアの声は冷静だった。


「あなたが押したなら、同時刻に第二保管室へいた記録が邪魔です。第二保管室の記録を偽造したなら、立会人二名も巻き込む必要がある。逆に押印記録だけを偽造したなら、なぜ印そのものがあなたの押し癖に似ているのかが残る」


「印を真似た?」


「可能性はあります」


 セリアは僕を見る。


「エルム。あなたはどう見ますか」


 まただ。


 僕は受理印を見た。

 左上が濃く、右下が薄い。

 主任の癖に似ている。だが、完璧ではない。


「似ています。でも、少し違います」


「どこが」


「主任の印は、左上が濃くなる時、円の外側も少し潰れます。これは濃いだけで、潰れ方が弱い。力のかけ方を真似たけれど、手首の角度までは同じではない」


 バルト主任は息を呑んだ。


「俺が押していない証拠になるか」


 証拠。


 その言葉が出た瞬間、僕の喉が重くなった。


 証拠になる、と言えば、主任は少し救われる。

 だが同時に、別の問題が大きくなる。


 誰かが受理印を真似た。

 鍵が主任の腰にあったのに、印を押した。

 または、印と記録のどちらかが現実から切り離されている。


 それを明確に言えば、保管所の管理全体が疑われる。


 保管所全体。


 その言葉は大きすぎる。

 大きい責任は、人を簡単に潰す。


 僕は主任の顔を見た。

 怖がっている顔。

 怒鳴ることで、何とか立っている人の顔。


 そして、セリアの顔を見た。

 待っている。

 僕の言葉を。


「エルム」


 彼女が静かに促す。


 僕は息を吸った。


「主任が押したとは断定できません」


 バルト主任の肩が少し落ちた。


 でも、そこで止めるべきではなかった。


 本当は言うべきだった。

 主任が押したとは考えにくい。

 押印記録か鍵管理記録、あるいは受理印そのものに、別の不正がある。

 保管所内部の管理が破られている可能性が高い。


 そこまで言うべきだった。


 でも、言えなかった。


「ただし、記録上は主任の管理下で受理されています」


 言葉は、きれいに逃げ道を作った。


 主任を犯人とは言わない。

 保管所の破綻とも言わない。

 何も断定していないのに、報告としては成立しているように見える。


 セリアの目が少し細くなった。


「それは、何を意味しますか」


「……現時点では、受理印管理の範囲内で起きた異常、ということです」


「管理の範囲内」


 セリアは僕の言葉を繰り返した。


 責める声ではなかった。

 確認する声だった。


 だから余計に、苦しい。


「あなたは今、どこまでを見ていますか」


 僕は答えられなかった。


 見えている。

 でも言っていない。


 セリアはしばらく僕を見ていた。

 それから、帳簿へ視線を戻した。


 その場では、それ以上追及しなかった。


 助かった、と思った。

 同時に、何かを取り落とした気がした。


 バルト主任は椅子に座り込んだ。


「……俺の管理下で起きた。それは事実だ」


「主任」


「分かっている。責任逃れはしない」


 彼は帳簿を引き寄せた。


「押印記録の控えを全部出す。搬入記録もだ。今朝の未整理箱に入った束を、一つずつ洗う」


 セリアが頷く。


「お願いします」


「言われなくてもやる。ここを壊させるわけにはいかん」


 職員たちが慌ただしく動き出した。

 記録棚から搬入簿、補助簿、押印控えが運ばれてくる。


 紙の山。


 事件はまた紙の中へ戻ってきた。

 でも、もうあの時とは違う。


 毒だけではない。

 噂だけでもない。

 記録そのものが、現実を歪めている。


 僕は押印控えを一枚ずつ見た。


 時刻。担当者。文書番号。束番号。

 乾いた文字の列。


 その中に、一つだけ変な番号があった。


「……主任」


「何だ」


「この束番号、今朝の搬入一覧にありません」


 バルト主任が紙を奪うように見る。


「そんなはずは」


「搬入一覧では、今朝の束は一二七から一三四までです。でも押印控えには、一三五がある」


 セリアが隣に来る。


「存在しない束番号?」


「はい」


 僕は別の補助簿を開いた。


 束番号一三五。

 処理時刻、午前七時五十六分。

 処理区分、未整理箱へ仮置き。

 担当職員。


 そこで、指が止まった。


 その名前を見た瞬間、胃の奥が冷えた。


 ニナ・ラスク。


 以前、震えながら証言した見習い職員。

 紙の向きが逆だったと教えてくれた子。

 僕が、最後まで聞くと言った子。


 セリアも名前を読んだ。


 声には出さなかった。


 バルト主任の顔が強張る。


「……ニナ?」


 存在しない束を、最初に処理した職員欄に、ニナの名前があった。

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