第六章 子供を殺す薬師
夜明け前まで、あと六時間。
数字が減るたび、事件は紙の上から現実へ近づいている気がした。
リナはまだ生きている。
マルク・レインはまだ誰も殺していない。
けれど、保護室に届けられた蜂蜜湯には、毒の片割れが入っていた。
安全な場所など、もうなかった。
「薬房へ戻ります」
マルクが言ったのは、その直後だった。
保管所の小会議室で、セリアが彼を見る。
「理由は?」
「リナに使っていた咳止めの配合を確認したい。記憶だけでは足りません。薬房の記録と実物を照合する必要があります」
「逃亡の疑いがあると言われても?」
「私は逃げません」
マルクの声は静かだった。
「リナが苦しんでいるなら、私の薬房にあるものを確認しなければならない」
「あなたは記録上の犯人です」
「はい」
「外は安全ではありません」
「それでも、薬師として必要です」
セリアは少しの間、黙った。
信じることと、確認を怠ることは違う。
以前彼女が言った言葉だ。
たぶん今も、彼女は同じ線の上に立っている。
「私が同行します。エルム、あなたも」
「はい」
返事をしてから、自分の声が少し硬いことに気づいた。
僕は薬草の知識があるわけではない。
剣も使えない。
群衆に囲まれたら、たぶん一番早く胃が負ける。
それでも、逃げる理由にはならない。
少なくとも今は。
保管所を出ると、王都の空気が変わっていた。
通りの端で、こちらを見る人がいる。
露店の主人が声を潜める。
子供を連れた母親が、僕たちの後ろを歩くマルクを見て、子供の肩を抱き寄せる。
噂は、紙より早い。
「子供を毒で眠らせた薬師だって」
「まだ捕まってないのか?」
「保管所がかばってるらしいぞ」
「夜明け前に毒が回るって聞いた」
僕は足を止めかけた。
夜明け前。
その言葉が、嫌な形で耳に引っかかった。
「エルム」
セリアが短く呼ぶ。
「聞こえましたか」
「はい」
「今は進みます」
彼女の判断は正しい。
今ここで噂の出所を追えば、マルクの薬房到着が遅れる。
でも、胸の奥に引っかかった言葉は消えなかった。
夜明け前に毒が回る。
誰が、それを言い出した?
レイン薬房へ近づくにつれ、人の声は大きくなった。
薬房の前には、すでに人だかりができていた。
患者家族。近所の住人。野次馬。
怒りの顔もあれば、不安の顔もある。
全員が悪人ではない。
赤ん坊を抱いた母親が泣いていた。
腕に包帯を巻いた少年が、薬房の扉を見つめていた。
杖をついた老人が「先生がそんなことをするはずない」と繰り返している。
だが、その声は怒号に押し潰されていた。
「出てこい、子供殺し!」
「眠り薬で子供を殺すんだろ!」
「少女を毒殺したって記録が出てるんだ!」
「夜明け前に毒が回るって聞いたぞ!」
記録が出ている。
僕は息を呑んだ。
罪状記録の文言は、公開されていない。
事件がまだ起きていない以上、公開できるはずもない。
なのに、群衆は知っている。
いや、正確には知っている者が混ざっている。
セリアは前へ出た。
「下がりなさい」
声は大きくなかった。
けれど、群衆の前列が一瞬たじろいだ。
それでも怒りは止まらない。
「監察官が薬師をかばうのか!」
「こっちは子供がいるんだ!」
「次はうちの子かもしれないだろ!」
その言葉は本物だった。
子供を守りたい親の恐怖。
それを偽物とは言えない。
だからこそ、たちが悪い。
恐怖は、正しい顔をして人を殴る。
マルクが一歩前に出た。
「皆さん、リナはまだ生きています。私は彼女を救うために――」
「黙れ!」
石が飛んだ。
僕は反応できなかった。
石はマルクの肩に当たり、鈍い音を立てて落ちた。
マルクがよろめく。
群衆が一気に前へ押し寄せた。
足がすくんだ。
怒鳴り声。
押し合う体。
誰かの泣き声。
石畳に落ちた薬瓶の割れる音。
僕の喉は、声を出すことを忘れていた。
セリアが動いた。
剣は抜かなかった。
代わりに、外套を翻してマルクの前に立つ。
「これ以上近づけば、暴行として制止します」
「そいつは子供を殺す薬師だぞ!」
「まだ誰も死んでいません」
「記録には出てる!」
「記録を理由に、今ここで人を殴る権利はありません」
セリアの声は硬かった。
だが、群衆の怒りは正論だけでは止まらない。
「俺の娘もここの薬を飲んだ!」
「うちの子も!」
「薬師なんて、何を混ぜてるか分からない!」
マルクは肩を押さえながら、石を投げた方を見た。
「その子は、今どんな症状ですか」
群衆が一瞬、戸惑った。
「マルクさん?」
僕も思わず声を出した。
マルクは自分の肩より、前列の男の後ろにいる少女を見ていた。
顔色が悪い。咳をしている。
「咳が湿っています。熱は?」
「う、うるさい! 今さら医者ぶるな!」
「熱はありますか」
マルクの声は変わらなかった。
「高い熱なら、胸に負担が出ます。家に戻して温かくしてください。薬房の右棚、青い札の咳止めは使わないでください。今は確認が済むまで」
「偽善者が!」
誰かが叫んだ。
マルクの言葉は、群衆には届かない。
むしろ、自分をよく見せるための芝居に聞こえている。
それでも彼は、患者を見ていた。
セリアが声を張った。
「子供を守りたい怒りを、別の子供を危険にする暴力へ変えないでください」
群衆の動きが一瞬止まる。
「この薬房を壊せば、今夜必要な薬の確認ができなくなります。リナ・ベルだけではありません。ここに並んでいた患者の子供たちも危険に晒される」
「でも、そいつが!」
「疑いは調べます。私刑は許しません」
強い言葉だった。
だが、それだけでは足りなかった。
群衆の後ろから、また声が飛ぶ。
「夜明け前には手遅れだ!」
「少女を毒殺したって、もう記録は出てる!」
「保管所は隠すな!」
同じ声。
僕はようやく気づいた。
怒号の中で、同じ表現だけが何度も繰り返されている。
夜明け前。
少女を毒殺した。
記録はもう出ている。
群衆全体が言っているわけではない。
何人かが同じ言葉を投げ、それを周囲が拾っている。
噂は自然に広がったのではない。
誰かが、形を与えている。
「セリアさん」
声が小さかった。
群衆の怒号に飲まれる。
僕は一歩前へ出た。
怖い。
群衆の視線がこちらに向くのが怖い。
断言して間違えるのが怖い。
間違えた言葉がまた誰かを傷つけるのが怖い。
でも、見えている。
「フォール監察官!」
今度は声が出た。
セリアが振り向く。
「何ですか」
「群衆の中に、記録の文言を知っている者がいます」
言った。
言ってしまった。
セリアの目が鋭くなる。
「根拠は」
「“夜明け前”“少女を毒殺した”“記録は出ている”。この三つは、公開されていない罪状記録の表現に近い。自然な噂なら、“薬で子供を殺そうとした”くらいに崩れるはずです。でも一部だけ、記録文に寄りすぎている」
セリアは一瞬で理解した。
彼女は群衆の後方へ視線を走らせる。
「同じ言葉を繰り返している人物は?」
「灰色の帽子の男。香油商の店側にいます。あと、青い襟巻きの女。二人とも、発言のたびに周囲を見ています」
「確保します」
セリアが職員に合図する。
だが、灰色の帽子の男はそれに気づいた。
男は人混みの中で身を翻す。
青い襟巻きの女も反対側へ逃げた。
群衆が混乱する。
「何だ?」
「逃げたぞ!」
「やっぱり薬師の仲間か!」
違う。
そう言いたいのに、声がまた詰まりそうになる。
セリアは剣の柄に手を置いた。抜かない。
それだけで、前列の数人が下がる。
「全員、下がりなさい。逃げた者を追う者は、職員の指示に従うこと。勝手に動けば、あなた方自身が危険になります」
「でも!」
「子供を守りたいなら、今は薬房を壊さないことです」
セリアは群衆を見渡した。
「マルク・レインを無罪と断じたわけではありません。ですが、有罪と断じる権利も、あなた方にはまだありません」
老人が震える声で言った。
「先生は……本当に、調べられているんですか」
「調べています」
「隠さないんですか」
「隠しません」
セリアはそう答えた。
重い約束だ。
僕なら、たぶん言えない。
少しずつ、群衆の熱が下がっていった。
完全に収まったわけではない。
怒りは残っている。不安も残っている。
けれど、暴力の一歩手前からは引いた。
マルクは肩を押さえながら、石を投げた男の方を見ていた。
「あなたの娘さんは、熱を測ってください。息が浅くなるようなら、保管所へ。私が行けなければ、フォール監察官に伝えて」
「……黙れ」
男は小さく言った。
だが、さっきほどの怒りはなかった。
マルクは苦笑した。
「黙りたいのですが、薬師なので」
その冗談は、誰にも笑われなかった。
でも、僕は少しだけ救われた気がした。
薬房の扉が開けられた。
セリアは職員に入口の警備を命じ、患者家族を距離を取って待機させた。薬房を完全に閉ざすのではなく、必要な薬の確認だけを行う形にする。
「エルム」
「はい」
「さきほどの報告、よく言いました」
「……声は少し震えていたと思います」
「内容が震えていなければ十分です」
それは褒め言葉だろうか。
たぶん、セリア式ではかなり褒めている。
僕は薬房の前に散らばった石を見た。
マルクの肩に当たった石。
割れた薬瓶。
怯えた患者。
怒った親。
群衆は怪物ではない。
でも、誰かが言葉を流し込めば、怪物のように動く。
その言葉の中に、記録が混ざっていた。
薬房での確認は、最低限に留められた。
マルクは痛む肩を気にしながらも、リナの咳止めに関係する薬草を数点だけ選び、セリアに渡した。
その手つきは震えていたが、選ぶ順番は迷わなかった。
「これと、これ。それから青札の乾燥根は使わないでください。反応する可能性があります」
「自分の怪我は?」
セリアが問う。
「後で見ます」
「今見なさい」
「リナの方が」
「あなたが倒れれば、リナのための確認も止まります」
マルクは言葉を失った。
セリアは職員に簡易包帯を持ってこさせた。
「治療は命令です」
「監察官は薬師にも命令を?」
「必要なら」
マルクは少しだけ笑った。
「分かりました」
薬房を出る頃には、群衆は散り始めていた。
それでも、通りの端にはまだ何人かが残っている。
その中に、灰色の帽子の男も、青い襟巻きの女もいなかった。
取り逃がした。
だが、見えたことはある。
僕はセリアに近づいた。
「フォール監察官」
「はい」
言葉にする前に、喉がまた重くなった。
これを言えば、事件は薬房の外だけでは済まなくなる。
保管所の中に戻る。
記録に触れた人間全員が疑われる。
バルト主任。
ニナ。
保管所の職員たち。
誰かを疑うことになる。
誰かの責任を問うことになる。
それが怖い。
でも、以前の記録紙が頭に浮かんだ。
証言欄の空欄。
筆圧だけが残った行末。
書くべき場所に、何も書かない。
けれど、そこに力だけは残る。
僕は息を吐いた。
「罪状記録の文言が、街に漏れています」
セリアは少しも驚かなかった。
ただ、目の奥が冷たく鋭くなった。
「漏らせる者は限られます」
「はい」
「記録を見た者。記録を写した者。記録を受理した者。あるいは、最初からその文言を知っていた者」
どれも、保管所の中へ続いている。
セリアは薬房の扉を振り返った。
「事件は、毒だけではありませんね」
僕は頷いた。
まだ起きていない毒殺。
毒ではない毒。
そして、街に漏れた罪状記録。
紙の上の殺人は、誰かの口を通って現実を動かし始めていた。




