表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/21

第六章 子供を殺す薬師

 夜明け前まで、あと六時間。


 数字が減るたび、事件は紙の上から現実へ近づいている気がした。


 リナはまだ生きている。

 マルク・レインはまだ誰も殺していない。

 けれど、保護室に届けられた蜂蜜湯には、毒の片割れが入っていた。


 安全な場所など、もうなかった。


「薬房へ戻ります」


 マルクが言ったのは、その直後だった。


 保管所の小会議室で、セリアが彼を見る。


「理由は?」


「リナに使っていた咳止めの配合を確認したい。記憶だけでは足りません。薬房の記録と実物を照合する必要があります」


「逃亡の疑いがあると言われても?」


「私は逃げません」


 マルクの声は静かだった。


「リナが苦しんでいるなら、私の薬房にあるものを確認しなければならない」


「あなたは記録上の犯人です」


「はい」


「外は安全ではありません」


「それでも、薬師として必要です」


 セリアは少しの間、黙った。


 信じることと、確認を怠ることは違う。

 以前彼女が言った言葉だ。


 たぶん今も、彼女は同じ線の上に立っている。


「私が同行します。エルム、あなたも」


「はい」


 返事をしてから、自分の声が少し硬いことに気づいた。


 僕は薬草の知識があるわけではない。

 剣も使えない。

 群衆に囲まれたら、たぶん一番早く胃が負ける。


 それでも、逃げる理由にはならない。

 少なくとも今は。


 保管所を出ると、王都の空気が変わっていた。


 通りの端で、こちらを見る人がいる。

 露店の主人が声を潜める。

 子供を連れた母親が、僕たちの後ろを歩くマルクを見て、子供の肩を抱き寄せる。


 噂は、紙より早い。


「子供を毒で眠らせた薬師だって」


「まだ捕まってないのか?」


「保管所がかばってるらしいぞ」


「夜明け前に毒が回るって聞いた」


 僕は足を止めかけた。


 夜明け前。


 その言葉が、嫌な形で耳に引っかかった。


「エルム」


 セリアが短く呼ぶ。


「聞こえましたか」


「はい」


「今は進みます」


 彼女の判断は正しい。

 今ここで噂の出所を追えば、マルクの薬房到着が遅れる。


 でも、胸の奥に引っかかった言葉は消えなかった。


 夜明け前に毒が回る。


 誰が、それを言い出した?


 レイン薬房へ近づくにつれ、人の声は大きくなった。


 薬房の前には、すでに人だかりができていた。

 患者家族。近所の住人。野次馬。

 怒りの顔もあれば、不安の顔もある。


 全員が悪人ではない。


 赤ん坊を抱いた母親が泣いていた。

 腕に包帯を巻いた少年が、薬房の扉を見つめていた。

 杖をついた老人が「先生がそんなことをするはずない」と繰り返している。


 だが、その声は怒号に押し潰されていた。


「出てこい、子供殺し!」


「眠り薬で子供を殺すんだろ!」


「少女を毒殺したって記録が出てるんだ!」


「夜明け前に毒が回るって聞いたぞ!」


 記録が出ている。


 僕は息を呑んだ。


 罪状記録の文言は、公開されていない。

 事件がまだ起きていない以上、公開できるはずもない。


 なのに、群衆は知っている。


 いや、正確には知っている者が混ざっている。


 セリアは前へ出た。


「下がりなさい」


 声は大きくなかった。

 けれど、群衆の前列が一瞬たじろいだ。


 それでも怒りは止まらない。


「監察官が薬師をかばうのか!」


「こっちは子供がいるんだ!」


「次はうちの子かもしれないだろ!」


 その言葉は本物だった。


 子供を守りたい親の恐怖。

 それを偽物とは言えない。


 だからこそ、たちが悪い。


 恐怖は、正しい顔をして人を殴る。


 マルクが一歩前に出た。


「皆さん、リナはまだ生きています。私は彼女を救うために――」


「黙れ!」


 石が飛んだ。


 僕は反応できなかった。


 石はマルクの肩に当たり、鈍い音を立てて落ちた。

 マルクがよろめく。


 群衆が一気に前へ押し寄せた。


 足がすくんだ。


 怒鳴り声。

 押し合う体。

 誰かの泣き声。

 石畳に落ちた薬瓶の割れる音。


 僕の喉は、声を出すことを忘れていた。


 セリアが動いた。


 剣は抜かなかった。

 代わりに、外套を翻してマルクの前に立つ。


「これ以上近づけば、暴行として制止します」


「そいつは子供を殺す薬師だぞ!」


「まだ誰も死んでいません」


「記録には出てる!」


「記録を理由に、今ここで人を殴る権利はありません」


 セリアの声は硬かった。


 だが、群衆の怒りは正論だけでは止まらない。


「俺の娘もここの薬を飲んだ!」


「うちの子も!」


「薬師なんて、何を混ぜてるか分からない!」


 マルクは肩を押さえながら、石を投げた方を見た。


「その子は、今どんな症状ですか」


 群衆が一瞬、戸惑った。


「マルクさん?」


 僕も思わず声を出した。


 マルクは自分の肩より、前列の男の後ろにいる少女を見ていた。

 顔色が悪い。咳をしている。


「咳が湿っています。熱は?」


「う、うるさい! 今さら医者ぶるな!」


「熱はありますか」


 マルクの声は変わらなかった。


「高い熱なら、胸に負担が出ます。家に戻して温かくしてください。薬房の右棚、青い札の咳止めは使わないでください。今は確認が済むまで」


「偽善者が!」


 誰かが叫んだ。


 マルクの言葉は、群衆には届かない。

 むしろ、自分をよく見せるための芝居に聞こえている。


 それでも彼は、患者を見ていた。


 セリアが声を張った。


「子供を守りたい怒りを、別の子供を危険にする暴力へ変えないでください」


 群衆の動きが一瞬止まる。


「この薬房を壊せば、今夜必要な薬の確認ができなくなります。リナ・ベルだけではありません。ここに並んでいた患者の子供たちも危険に晒される」


「でも、そいつが!」


「疑いは調べます。私刑は許しません」


 強い言葉だった。


 だが、それだけでは足りなかった。


 群衆の後ろから、また声が飛ぶ。


「夜明け前には手遅れだ!」


「少女を毒殺したって、もう記録は出てる!」


「保管所は隠すな!」


 同じ声。


 僕はようやく気づいた。


 怒号の中で、同じ表現だけが何度も繰り返されている。


 夜明け前。

 少女を毒殺した。

 記録はもう出ている。


 群衆全体が言っているわけではない。

 何人かが同じ言葉を投げ、それを周囲が拾っている。


 噂は自然に広がったのではない。

 誰かが、形を与えている。


「セリアさん」


 声が小さかった。


 群衆の怒号に飲まれる。


 僕は一歩前へ出た。


 怖い。


 群衆の視線がこちらに向くのが怖い。

 断言して間違えるのが怖い。

 間違えた言葉がまた誰かを傷つけるのが怖い。


 でも、見えている。


「フォール監察官!」


 今度は声が出た。


 セリアが振り向く。


「何ですか」


「群衆の中に、記録の文言を知っている者がいます」


 言った。


 言ってしまった。


 セリアの目が鋭くなる。


「根拠は」


「“夜明け前”“少女を毒殺した”“記録は出ている”。この三つは、公開されていない罪状記録の表現に近い。自然な噂なら、“薬で子供を殺そうとした”くらいに崩れるはずです。でも一部だけ、記録文に寄りすぎている」


 セリアは一瞬で理解した。


 彼女は群衆の後方へ視線を走らせる。


「同じ言葉を繰り返している人物は?」


「灰色の帽子の男。香油商の店側にいます。あと、青い襟巻きの女。二人とも、発言のたびに周囲を見ています」


「確保します」


 セリアが職員に合図する。


 だが、灰色の帽子の男はそれに気づいた。


 男は人混みの中で身を翻す。

 青い襟巻きの女も反対側へ逃げた。


 群衆が混乱する。


「何だ?」


「逃げたぞ!」


「やっぱり薬師の仲間か!」


 違う。

 そう言いたいのに、声がまた詰まりそうになる。


 セリアは剣の柄に手を置いた。抜かない。

 それだけで、前列の数人が下がる。


「全員、下がりなさい。逃げた者を追う者は、職員の指示に従うこと。勝手に動けば、あなた方自身が危険になります」


「でも!」


「子供を守りたいなら、今は薬房を壊さないことです」


 セリアは群衆を見渡した。


「マルク・レインを無罪と断じたわけではありません。ですが、有罪と断じる権利も、あなた方にはまだありません」


 老人が震える声で言った。


「先生は……本当に、調べられているんですか」


「調べています」


「隠さないんですか」


「隠しません」


 セリアはそう答えた。


 重い約束だ。

 僕なら、たぶん言えない。


 少しずつ、群衆の熱が下がっていった。


 完全に収まったわけではない。

 怒りは残っている。不安も残っている。


 けれど、暴力の一歩手前からは引いた。


 マルクは肩を押さえながら、石を投げた男の方を見ていた。


「あなたの娘さんは、熱を測ってください。息が浅くなるようなら、保管所へ。私が行けなければ、フォール監察官に伝えて」


「……黙れ」


 男は小さく言った。


 だが、さっきほどの怒りはなかった。


 マルクは苦笑した。


「黙りたいのですが、薬師なので」


 その冗談は、誰にも笑われなかった。

 でも、僕は少しだけ救われた気がした。


 薬房の扉が開けられた。


 セリアは職員に入口の警備を命じ、患者家族を距離を取って待機させた。薬房を完全に閉ざすのではなく、必要な薬の確認だけを行う形にする。


「エルム」


「はい」


「さきほどの報告、よく言いました」


「……声は少し震えていたと思います」


「内容が震えていなければ十分です」


 それは褒め言葉だろうか。

 たぶん、セリア式ではかなり褒めている。


 僕は薬房の前に散らばった石を見た。

 マルクの肩に当たった石。

 割れた薬瓶。

 怯えた患者。

 怒った親。


 群衆は怪物ではない。

 でも、誰かが言葉を流し込めば、怪物のように動く。


 その言葉の中に、記録が混ざっていた。


 薬房での確認は、最低限に留められた。


 マルクは痛む肩を気にしながらも、リナの咳止めに関係する薬草を数点だけ選び、セリアに渡した。

 その手つきは震えていたが、選ぶ順番は迷わなかった。


「これと、これ。それから青札の乾燥根は使わないでください。反応する可能性があります」


「自分の怪我は?」


 セリアが問う。


「後で見ます」


「今見なさい」


「リナの方が」


「あなたが倒れれば、リナのための確認も止まります」


 マルクは言葉を失った。


 セリアは職員に簡易包帯を持ってこさせた。


「治療は命令です」


「監察官は薬師にも命令を?」


「必要なら」


 マルクは少しだけ笑った。


「分かりました」


 薬房を出る頃には、群衆は散り始めていた。

 それでも、通りの端にはまだ何人かが残っている。


 その中に、灰色の帽子の男も、青い襟巻きの女もいなかった。


 取り逃がした。


 だが、見えたことはある。


 僕はセリアに近づいた。


「フォール監察官」


「はい」


 言葉にする前に、喉がまた重くなった。


 これを言えば、事件は薬房の外だけでは済まなくなる。

 保管所の中に戻る。

 記録に触れた人間全員が疑われる。


 バルト主任。

 ニナ。

 保管所の職員たち。


 誰かを疑うことになる。

 誰かの責任を問うことになる。


 それが怖い。


 でも、以前の記録紙が頭に浮かんだ。

 証言欄の空欄。

 筆圧だけが残った行末。


 書くべき場所に、何も書かない。

 けれど、そこに力だけは残る。


 僕は息を吐いた。


「罪状記録の文言が、街に漏れています」


 セリアは少しも驚かなかった。


 ただ、目の奥が冷たく鋭くなった。


「漏らせる者は限られます」


「はい」


「記録を見た者。記録を写した者。記録を受理した者。あるいは、最初からその文言を知っていた者」


 どれも、保管所の中へ続いている。


 セリアは薬房の扉を振り返った。


「事件は、毒だけではありませんね」


 僕は頷いた。


 まだ起きていない毒殺。

 毒ではない毒。

 そして、街に漏れた罪状記録。


 紙の上の殺人は、誰かの口を通って現実を動かし始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ