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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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第五章 毒ではない毒

 夜明け前まで、あと七時間。


 その数字は、もう時刻というより刃物だった。

 頭の中で考えるたび、少しずつ余裕を削っていく。


 保管所の小会議室には、事件の欠片が並べられていた。


 封箱に入った匂い袋。

 薬房の調合台から押収した三つ折りの布。

 裏通りの壁から削り取った、湿った石粉。

 トマの部屋に残されていた書きかけのメモ。

 リナの容体記録。

 そして、最初に見つかった罪状記録。


 ――薬師マルク・レインは、夜明け前に少女リナ・ベルを毒殺した。


 僕はその一文を見るたび、胃の奥が重くなった。


 毒殺。


 文字としては短い。

 けれど、その短さが妙に気持ち悪い。


 セリアは机の向こうに立ち、証拠品を一つずつ確認していた。


「マルク・レインを呼びます」


 室内にいた職員が顔を上げた。


「容疑者を、ですか」


「薬師を、です」


 セリアの返答は短かった。


「記録上は容疑者です。ですが、リナ・ベルを救うためには薬師の知識が必要です。信じることと、確認を怠ることは違います」


 その言い方は、誰かを甘やかしているわけではなかった。

 ただ、必要なものを必要な場所に置いているだけだ。


 少しして、マルク・レインが連れてこられた。


 顔色は悪い。

 薬房を封鎖され、自分が未来の毒殺犯として記録されているのだから、当然だろう。


 けれど彼が最初に聞いたのは、自分の処遇ではなかった。


「リナは?」


「眠気と息苦しさがあります。命に直結する悪化は、今のところありません」


「今のところ、ですか」


 マルクは唇を噛んだ。


「匂い袋を見せてください」


 セリアは一拍置いてから頷いた。


「触れずに確認を。必要ならこちらで開封します」


「分かっています」


 封箱が開かれる。


 匂い袋は、布の中で静かに横たわっていた。

 中身は減っていない。封も破られていない。


 けれど、甘い匂いは明らかに薄い。


 マルクは顔を近づけすぎないようにして、慎重に匂いを確かめた。

 それから、眉を寄せた。


「これは毒ではありません」


 室内の空気が一瞬だけ揺れた。


 職員の一人が思わず言う。


「ですが、リナさんは具合を」


「毒ではない、と言いました。危険ではない、とは言っていません」


 マルクの声は温厚だったが、そこだけは薬師の硬さがあった。


「中身は、眠りを助ける乾燥花です。本来なら子供にも使えます。リナにも以前、似たものを渡しました」


「似たもの?」


 セリアが問う。


「はい。ですが、これは少し違う」


 マルクは匂い袋ではなく、壁から採取した石粉の小皿を見た。


「この甘い匂いの成分は、花そのものではありません。花に染み込ませる香油に近い。無害ですが……吸いやすいんです」


「吸いやすい?」


「湿気、粉、薬草の蒸気。そういうものを抱え込みやすい。枕元に置く程度なら問題ありません。ただ、別の成分と触れ続ければ、袋自体が別のものになります」


 説明は短かった。

 それでも、十分だった。


 僕は封箱の中の匂い袋を見た。


 毒ではない。

 けれど、毒になり得るものを運べる。


「毒そのものではなく、毒を乗せる布……いえ、器?」


 僕が呟くと、マルクが頷いた。


「そう考える方が近いです」


 セリアはすぐに整理した。


「匂い袋は単独では毒ではない。しかし別の成分と接触すると危険になる」


「はい」


「壁の石粉に甘い匂いがあるのは?」


「袋の香油成分が、壁に移された可能性があります。あるいは逆に、壁の成分を袋へ移すための準備かもしれません」


 何かが、外へ移っている。


 以前の終わりにセリアが言った言葉が、形を持ちはじめる。


 僕は罪状記録を見た。


 毒殺。


 やはり、そこが引っかかる。


「エルム?」


 セリアが僕を見る。


「何か見えましたか」


「見えた、というより……言葉が変です」


「記録の?」


「はい」


 僕は罪状記録の一文を指でなぞらないよう、少し上を示した。


「“毒殺した”とあります。でも今の話だと、毒は匂い袋の中に入っていたわけではありません。袋は毒ではない。毒を運ぶ下地だった」


「続けて」


「なら、この記録は結果だけを書いている。毒がどこから来るのか、どう成立するのかを書いていない」


「正式な罪状記録なら、死因の成立過程も補足されるべきですね」


「はい。なのに、この記録は最初から“毒殺”と断定している。まるで、これから何が起きるかではなく、最後にどう記録されるかだけを先に書いたみたいです」


 言ってから、背筋が冷えた。


 まだ殺人は完成していない。

 でも記録だけは完成している。


 マルクが低く言った。


「リナがあの袋を持ち続ければ、後から接触する別の物質で毒が成立する……そういうことですか」


「可能性はあります」


 僕は一度、逃げる言葉を選びかけた。


 僕が判断することではありません。


 けれど、それでは足りない。


「いえ。少なくとも、今見えているものはそうです。匂い袋は毒ではない。毒を運ぶための下地だった」


 室内が静まり返った。


 小真相。

 そう呼べるものが、目の前にあった。


 事件は解けていない。

 犯人も分からない。

 けれど、リナがなぜ具合を悪くしたのか、その一部は見えた。


 セリアはすぐに動いた。


「リナ・ベルの所持品、寝具、飲食物を再確認。匂い袋と接触した可能性のあるものは全て封じてください。薬房の咳止め、壁の石粉、香油商の香油瓶も照合します」


「はい」


「マルク・レイン。あなたには協力を続けてもらいます。ただし、単独行動は認めません」


「構いません。リナを救えるなら」


 マルクは迷わず言った。


 そこに保身は見えなかった。

 だが、隠し事が消えたわけでもない。


 僕はトマのメモを見た。


 ――先生へ。あの袋は、やはり


 やはり、何なのか。


 トマはこの仕組みに気づいていたのか。

 それとも、別の何かを知っていたのか。


 その時、扉が叩かれた。


 ニナだった。顔色が悪い。


「フォール監察官。リナさんの部屋で……蜂蜜湯を」


 セリアが即座に振り向く。


「何がありました」


「新しい杯が、届けられていました。お母様は頼んでいないと」


 僕の喉が詰まった。


 蜂蜜湯。


 以前、リナは待合室で蜂蜜湯を持っていた。

 まだ飲んでいなかった。


 怖かったから。

 あるいは、体が拒んでいたから。


「誰が届けたのですか」


「分かりません。厨房からだと聞いていますが、厨房では出していないと」


 セリアは迷わなかった。


「確かめます」


 僕たちはリナの保護室へ向かった。


 保護室の前には職員が二人。

 中にはリナと母親、医師がいた。


 リナは起きていた。

 眠そうだが、目は開いている。母親の手を握っている。


 机の上に、湯気の薄い杯が置かれていた。


「飲みましたか」


 セリアが母親に問う。


「いいえ。リナが、匂いが嫌だと言って」


 リナは小さく頷いた。


「甘いのに、変だった」


 僕は杯に近づいた。


 蜂蜜の甘さ。

 それに混じる、かすかな薬草の匂い。


 マルクの表情が変わった。


「触らないでください」


 彼は医師に封具を求め、湯を少量だけ皿に移した。

 そこへ、壁から採取した石粉をごくわずかに近づける。


 湯の表面が、薄く濁った。


 セリアの目が細くなる。


「これは?」


「咳止めに使う薬草の一種です。単独なら害はありません。ですが、あの香油成分を吸った布と長く触れれば、眠気と呼吸の鈍りを強める可能性がある」


「第二成分」


 僕は呟いた。


 匂い袋は毒ではない。

 蜂蜜湯も、それ単体では毒ではない。


 けれど、二つが合わさると、毒になる。


 毒ではない毒。


 マルクの手が震えた。


「リナが飲んでいたら」


「量にもよります」


 彼はそう言ったが、声は掠れていた。


 セリアは職員を見る。


「この杯を運んだ者を確認。保護室への出入り記録を全て出してください。厨房、廊下、見張り、全員です」


「内部の人間が?」


 職員の声が震えた。


「可能性として排除しません」


 セリアは冷静だった。


 でも、その冷静さの奥に怒りがあった。


 リナは、まだ母親の手を握っていた。

 眠らずに、こちらを見ている。


「セリアさん」


「はい」


「私、飲まなかったよ」


「賢明です」


「けんめい?」


 リナが少しだけ眉を寄せる。


 僕は思わず言った。


「いい判断、という意味です」


「じゃあ、いい判断した」


「はい。とても」


 リナは小さく笑った。


 その笑顔が、逆に怖かった。


 この子は、助かったのではない。

 たまたま、まだ殺されていないだけだ。


 セリアは杯を見下ろした。


「匂い袋は毒ではありませんでした」


 彼女の声は低い。


「蜂蜜湯も、単独では毒ではありません」


 僕は罪状記録の一文を思い出した。


 薬師マルク・レインは、夜明け前に少女リナ・ベルを毒殺した。


 記録は、毒がどこから来るかを書いていない。

 ただ、結果だけを待っている。


 セリアは封じられた杯を見つめたまま言った。


「保護したはずの部屋に、毒の片割れが入っていました」


 夜明け前まで、あと七時間。


 ここも、安全ではなかった。



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