表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/20

第四章 子供だけが見ていたもの

 夜明け前まで、あと九時間。


 その数字を頭の中で数えた瞬間、僕はやめた。

 時間を数えても、時間は増えない。胃痛だけが増える。これは経験則だ。


 リナの眠気と息苦しさは、いったん落ち着いた。

 けれど、それは安心ではなく、猶予だった。


 封を破っていない匂い袋から、匂いだけが薄れていた。

 セリアの言葉が、まだ耳に残っている。


 何かが、外へ移っている。


 外とはどこか。

 誰へ。

 何のために。


 考えれば考えるほど、答えは薬房の裏通りに戻っていった。


 手袋の男。

 左足をかばう歩き方。

 薬房の裏口から出てきた男。

 そして、リナの名前を知っていた男。


 僕とセリアは、再びレイン薬房の裏通りに立っていた。


 昼間は細い抜け道に見えた路地も、夕方が近づくと別の顔になる。

 建物の影が伸び、石壁の隙間に湿気が溜まり、表通りの声が少し遠くなる。


 セリアは路地の奥を見た。


「ここで子供たちが遊んでいた、という話でしたね」


「はい。以前逃げた子たちです」


「章?」


「いえ、今のは僕の内面の整理です」


「紛らわしい整理は口に出さないように」


「努力します」


 セリアは僕を見た。


「逃げた子供を探すなら、あなたの方が向いています」


「僕が?」


「私は怖がられます」


「自覚はあるんですね」


「あります」


 即答だった。

 そこは否定してほしかった。人として。


 薬房の裏には、壊れた木箱や空き樽が積まれている場所があった。

 子供が隠れるにはちょうどいい。


 僕は声を張らずに呼びかけた。


「昨日ここで遊んでいた子、いる?」


 返事はない。


 代わりに、樽の影で何かが動いた。


 僕は近づかなかった。

 追えば逃げる。

 逃げた相手を追い詰めれば、次から話さなくなる。


「怒らない。捕まえない。話だけ聞きたい」


「うそつけ」


 樽の向こうから声がした。


 少年の声だ。

 年は十歳前後。リナと同じくらいか、少し上。


「大人はみんなそう言う。で、あとから母ちゃん呼ぶんだ」


「呼んだ方がいい?」


「呼ぶな!」


「分かった。呼ばない」


「ほんとかよ」


「少なくとも今は」


「それ、あとで呼ぶやつじゃん」


 なかなか鋭い。


 セリアが僕の後ろで黙っている。

 任せる、という沈黙だった。


「名前は?」


「なんで言わなきゃいけないんだよ」


「じゃあ、呼び名だけでも」


「……ピム」


「僕はリュカ。後ろの怖そうな人はセリア」


「怖そうじゃなくて怖いだろ」


「本人も自覚してる」


「エルム」


 セリアの声が一段低くなった。


 樽の影で、少年が小さく笑った気配がした。


 よし。

 たぶん、ほんの少しだけ扉が開いた。


「ピム。昨日の夜、ここで背の高い男を見た?」


「見てない」


 早い。


 嘘だ。

 ただし、香油商ラウルの嘘とは違う。

 これは怖がっている嘘というより、試している嘘だ。


「分かった。じゃあ、見てないことでいい」


「え?」


「見てないなら、顔は知らないね」


「知らない」


「服の色も?」


「知らない」


「歩き方も?」


「……知らない」


 少し遅れた。


 僕は樽から二歩離れ、地面に腰を下ろした。

 セリアが少し目を細めたが、止めなかった。


 子供と話す時、大人が立っているだけで圧力になる。

 これは優しさではなく、単なる経験だ。


「顔を覚えていなくてもいい。変だったところだけでいい」


「変だったところ?」


「うん。顔より変だったところの方が覚えやすい。たとえば、声が小さいとか、靴が片方だけ汚れていたとか、壁に変なことをしたとか」


 樽の影が静かになった。


 最後の一つに反応した。


 セリアも気づいたらしく、何も言わずに一歩下がった。

 この人は、攻める時と待つ時の切り替えが早い。


「……大人に言っても、どうせ信じないだろ」


 ピムが言った。


「そうかもしれない」


「おい」


「でも、僕は聞く」


「信じるって言えよ」


「見ていないことを、信じるとは言えない」


「なんだよ、それ」


「でも、君が見たことを、勝手に捨てたりはしない」


 樽の向こうから、少年が顔を出した。


 髪はぼさぼさで、頬に泥がついている。

 目つきは生意気で、警戒心が強い。

 ただ、その目の奥には、言いたくて仕方がないものがあった。


「ピム」


 セリアが静かに言った。


 少年の肩が跳ねた。


「あなたを叱るために来たのではありません。ただし、嘘を続けるなら、あなた自身が危険になります」


「危険?」


「昨日見た男が、あなたに見られたと気づいている可能性があります」


 ピムの顔から血の気が引いた。


 セリアはそこで声を少し柔らかくした。


「だから、話した後は保護します。あなたの母親にも、私から説明します。怒られないとは約束できませんが、あなた一人に責任を負わせません」


「母ちゃんには言うのかよ」


「子供を保護するのに、保護者へ黙っていることはできません」


「うわ、最悪」


「ですが、食事は手配します」


「……何の?」


「温かいものを」


 ピムは一瞬だけ迷った。


「肉入り?」


「可能なら」


「可能ならって、大人の逃げ方だろ」


 その言葉が、妙に胸に刺さった。


 僕は思わずセリアを見た。

 セリアは僕を見返した。


 何も言わない。

 けれど、目が言っていた。


 今のはあなたにも刺さりましたね、と。


 やめてほしい。

 監察官の視線は、時々、刃物より細かい。


「見たよ」


 ピムが言った。


「男を?」


「うん。でも、香油屋のおっさんが言ってたのと違う」


 僕は息を止めた。


「何が違う?」


「あいつ、ずっと左足をかばってたわけじゃない」


 セリアの表情が変わらないまま、鋭くなる。


「詳しく」


「最初だけ。薬房の裏口から出てきた時は、左足が変だった。でも、香油屋の棚にぶつかりそうになった後、路地の奥へ行く時は……右足を引きずってた」


「右足?」


「うん。なんか、変だった。下手な芝居みたいで」


 下手な芝居。


 子供の言葉は時々、記録官が十行かけて書くことを一言で言う。


 僕はそれを「左右の歩行異常」と記録しそうになった。

 その瞬間、自分の中で何かが止まった。


 違う。


 この子は「下手な芝居」と言った。

 それは大人向けの言葉に翻訳していいものではない。


 翻訳は、時に証言を殺す。


「そのまま記録します」


 僕は持っていた小帳を開いた。


「“下手な芝居みたいだった”。この言葉でいい?」


 ピムは少し驚いた顔をした。


「いいの?」


「君がそう見たなら」


「字、間違えるなよ」


「努力します」


「努力じゃなくて、ちゃんとやれ」


「はい」


 セリアが横で小さく息を吐いた。

 笑ったのかもしれない。今回はたぶん、少しだけ。


「それで、壁に変なことをした?」


 僕が聞くと、ピムは路地の奥を指した。


「あそこ」


 薬房の裏口から少し離れた石壁。

 表通りへ抜ける途中の、ちょうど曲がり角の手前。


「あいつ、手袋してた。でもそこで一回、片方だけ外した」


「どちらの手?」


「右。たぶん」


「たぶん?」


「暗かったんだよ。俺、目はいいけど夜目の猫じゃないし」


「それはそうだ」


「で、手を壁にぺたってやった。指か、手の甲か……こう」


 ピムは自分の右手を壁に押し当てる仕草をした。


 大人の目線なら、胸の下あたり。

 子供の目線なら、ちょうど顔の横。


「何か書いた?」


「書いてない。押しただけ」


「音は?」


「なかった」


「匂いは?」


 ピムは顔をしかめた。


「あった。甘いやつ。気持ち悪い甘さ。香油屋の匂いとは違う」


 僕とセリアは顔を見合わせた。


 匂い袋。

 薬房。

 封箱。

 そして、壁。


 何かが、移っている。


 セリアが職員に短く指示を出す。


「壁を確かめます。ピム、あなたは少し離れて。触らないで」


「触らねえよ。気持ち悪いし」


「賢明です」


「けんめい?」


「いい判断、という意味です」


「最初からそう言えよ」


「……そうですね」


 セリアが一瞬、言葉に詰まった。


 珍しい。

 今のは、少し可愛げがあった。本人に言うと刺されそうなので、記録しない。


 僕は壁に近づいた。


 一見、何もない。


 古い石壁。

 表面は粉を吹き、ところどころ欠けている。

 大人なら、汚れた壁として見過ごす。


 でも、しゃがむと違った。


 子供の目線に近づくと、壁の一部だけ質感が変わっている。

 粉が湿って固まり、薄い膜のようになっていた。


 僕は顔を近づけすぎないようにして、息を浅く吸った。


 甘い匂い。


 リナの匂い袋と同じ系統。

 ただし、こちらの方が薄く、石の湿り気に混ざっている。


「ここです」


 僕は指を触れずに示した。


「石粉が湿って固まっています。周囲は乾いているのに、ここだけ」


 セリアが確認する。


「高さは?」


「子供の目線なら気づく。大人だと、壁の汚れに見える位置です」


「男は何かを壁に移した?」


「可能性があります」


「何を?」


 僕は答えようとして、言葉を止めた。


 分からない。

 だが、言い方を間違えると、推測が事実になる。


 逃げたい。

 いつものように「僕が判断することではありません」と言えば、少しだけ楽になる。


 でも、ピムがこちらを見ていた。


 大人が自分の言葉をどう扱うか、確かめる目だった。


「分かりません」


 僕は言った。


「ただ、ピムの証言と壁の痕跡は合っています。男はここで手袋を外し、何かを壁に押し当てた。少なくとも、壁に甘い匂いの成分が残っています」


「十分です」


 セリアは職員に封鎖を命じた。


「この壁に誰も触らせないでください。周辺の石粉も採取。ピム、あなたも保管所へ来てもらいます」


「やっぱ捕まえるんじゃん!」


「違います。保護です」


「同じだろ!」


「違います。捕まえる場合は、私はもっと怖い顔をします」


 ピムは僕を見た。


「今も怖いよな?」


「今は、比較的ふつうです」


「うそだろ」


「慣れます」


「慣れたくねえ」


 セリアは眉を少しだけ動かした。

 たぶん、傷ついてはいない。たぶん。


「あなたの母親には私から説明します。食事も手配します」


「肉入り?」


「可能なら」


「また逃げた」


 ピムがにやりと笑った。


 セリアは少し考えた後、言い直した。


「肉入りにします」


「最初からそう言えよ」


「あなたは要求が多いですね」


「証言者だからな」


「巻き込まれた子供です」


 セリアの声は静かだった。


「あなたを証言のためだけに扱うつもりはありません」


 ピムは黙った。


 生意気な顔から、ほんの少しだけ力が抜ける。


「……じゃあ、母ちゃんに怒られたら?」


「私が先に説明します」


「母ちゃん、強いぞ」


「でしょうね」


「勝てる?」


「勝ち負けの話ではありません」


「負けそう」


「エルム」


「僕は何も言っていません」


「顔が言いました」


 僕は黙った。

 顔は本当に余計なことをする。


 壁の封鎖が進む中、ピムはふと何かを思い出したように眉を寄せた。


「そういえばさ」


「何?」


「香油屋のおっさん、あの男がリナって言ったって言ってたんだろ?」


「うん」


「俺も聞いた。でも、ちょっと違う」


 セリアの目が鋭くなる。


「違う?」


「そいつ、薬師のおっさんの名前は知らなかった」


 路地の空気が、静かに冷えた。


「どうしてそう思う?」


 僕が聞く。


「だって、裏口から出る時、薬房の札を見てたんだ。看板じゃなくて、裏口の小さい札。そこに“レイン”って書いてあるだろ」


 薬房の裏口には、小さな木札が掛かっている。

 レイン薬房。関係者用の出入り口だと示すための札。


「あいつ、それを見てから、小さく言ったんだ」


 ピムは男の声を真似るように、少し低く言った。


「“レイン、か”って」


 僕は息を止めた。


 男は、マルクの名前を知らなかった。

 でも、リナの名前は知っていた。


 順番が逆だ。


 もしマルクを陥れるのが目的なら、薬師の名前を先に知っているはずだ。

 けれど男は、薬房に来てからマルクの名を確認した。


 つまり。


「最初から狙いはリナだった」


 セリアが言った。


 僕は小帳に、ピムの言葉をそのまま書いた。


 ――レイン、か。

 ――リナ・ベルは、よく眠れるようになる。


 記録上の犯人は、マルク・レイン。

 けれど手袋の男は、マルクではなくリナを先に知っていた。


 なら、なぜ薬師を犯人に選んだのか。


 夜明け前まで、あと九時間。


 紙の上の毒殺は、まだ現実を待っている。

 そしてその中心にいるのは、薬師ではなく、まだ眠ることを怖がっている少女だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ