第三章 匂い袋を渡した男
薬房の奥にある見習い部屋は、寝床というより物置に近かった。
細い寝台。
壁に打ちつけられた棚。
足元に置かれた木箱。
机の上には、使いかけのインク壺と、乾いた薬草の粉が散っている。
ここで人が暮らしていた、と言われれば信じる。
ここで人が休めていた、と言われれば少し疑う。
「トマ・グラン。十六歳。マルク・レインの見習い。今朝から所在不明」
セリアが短く確認する。
マルクは扉の前に立ったまま、頷いた。
「はい。普段なら、夜明け前には水汲みに出ます。薬房の掃除も、彼の仕事です」
「無断で休むことは?」
「ありません。あの子は……臆病ですが、怠け者ではない」
臆病ですが。
その言い方に、少しだけ引っかかった。
「怯えていたんですか」
僕が尋ねると、マルクはすぐには答えなかった。
「昨日の夜、少し様子がおかしかった。何か言いたそうにしていましたが、私も患者の対応で手が離せず……朝になれば聞けると思っていました」
朝になれば。
そう思った人間の後悔は、だいたい同じ形をしている。
僕は机の上を見た。
書きかけのメモが一枚。
文字は途中で途切れている。
――先生へ。あの袋は、やはり
そこで終わっていた。
その下に、インクが小さく跳ねている。
筆を置いたのではなく、落とした跡だ。
「何かに驚いた?」
セリアが僕の視線を追って言った。
「たぶん。筆先が横に流れていません。書くのをやめたというより、手から落ちたように見えます」
「窓は?」
部屋には小さな窓が一つだけあった。
外は裏路地。以前見た、左右差のある足跡が残っていた場所に面している。
窓枠には、薄い泥が付いていた。
「外から覗けますね」
「背の高い人間なら」
セリアは窓を開け、外を確認した。
「トマはこのメモを書いている途中で、外の誰かに気づいた可能性がある」
「あるいは、外の誰かが先にトマを見つけた」
言ってから、僕はメモを見た。
あの袋は、やはり。
やはり、何なのか。
続きを書いてくれていればよかったのに、と一瞬思う。
すぐに自分がひどいことを考えたと気づく。
続きを書けなかった理由の方が、今は重要だ。
木箱の中には、洗い替えの服と、古い靴が入っていた。靴底の右側だけがすり減っている。裏口の足跡とは逆だ。
「トマではありませんね」
「裏口の足跡?」
「はい。裏口の足跡は左が深かった。これは右足を引きずる癖です」
「よく見ています」
「仕事なので」
「逃げるためにも?」
セリアがさらりと言った。
僕は木箱の蓋を落としかけた。
「……監察官は、人の心臓に悪いことを言う訓練を受けるんですか」
「受けません。必要なら自然に身につきます」
「恐ろしい職能ですね」
セリアは返事をしなかった。
けれど、さっきよりほんの少しだけ空気が軽くなった気がした。
見習い部屋を出ると、マルクが不安そうにこちらを見た。
「トマは、事件に関わっているのでしょうか」
「現時点では分かりません」
セリアが答える。
「ただし、彼も危険に巻き込まれている可能性があります。トマを犯人候補としてだけではなく、保護対象として捜します」
マルクの肩が、少しだけ落ちた。
安堵か。
それとも、さらに重い不安か。
「ありがとうございます」
彼はそう言った。
僕たちは薬房の外へ出た。
夜明け前まで、あと十二時間ほど。
まだ半日ある。
そう言えば長く聞こえる。
けれど、リナの体に何かが仕込まれている可能性を考えると、十二時間は薄い紙のように頼りなかった。
薬房周辺の聞き込みは、順調とは言えなかった。
配達人は、昨日の夕方に薬草の箱を届けたが、裏口には行っていないと言った。箱の受け取りはトマだったらしい。
近所の患者は、マルクの評判を口々に話した。「あの先生が子供を殺すわけない」「でも最近、見習いの子が青い顔をしていた」「夜に裏口で誰かと話しているのを見たような気がする」
気がする。
証言としては弱い。
けれど、弱い証言は捨てていい証言ではない。弱い理由を見つけるべき証言だ。
薬房の近くで遊んでいた子供たちは、僕たちを見るなり逃げた。
セリアが追いかけようとした職員を止める。
「追えば、次から何も話さなくなります」
「ですが」
「今は覚えさせるだけでいい。こちらは怒っていない、と」
そう言って、セリアは子供たちの逃げた方へ視線を向けた。
厳しい人だ。
でも、乱暴ではない。
最後に向かったのは、薬房の斜向かいにある香油商だった。
店先には色とりどりの小瓶が並び、甘い香り、苦い香り、鼻に残る香りが混ざっていた。正直、ここで長く話を聞いたら、僕の観察力より先に嗅覚が倒れる。
店主は四十代くらいの男で、髭を丁寧に整えていた。
名前はラウル。
服も店も清潔だが、こちらを見る目は歓迎からかなり遠い。
「監察官様が、香油屋に何の御用で?」
「昨日から今朝にかけて、薬房の裏口付近で不審な男を見ませんでしたか」
「不審な男?」
「背が高く、手袋をしていた可能性があります」
ラウルは眉を上げた。
「見ていませんね」
早い。
早すぎる答えは、準備していた答えに聞こえる。
セリアは淡々と続けた。
「左足をかばう歩き方をしていたかもしれません」
「覚えていません」
僕は店先の棚を見た。
香油瓶が整然と並んでいる。
色別、高さ別、札の向きも揃っている。
一つを除いて。
棚の端にある小瓶だけ、札が裏を向いていた。
その隣の瓶には、底に細かい傷がある。倒れかけた瓶を、慌てて戻した時の傷だ。
「店先の瓶、いつ倒れました?」
僕が尋ねると、ラウルの目が一瞬だけ動いた。
「倒れてなどいません」
「倒れかけた、でもいいです」
「何の話です」
「この棚の瓶は全部、札が通りに向いています。でも一つだけ裏返っている。隣の瓶の底には新しい傷がある。誰かが棚にぶつかったか、棚を支えようとした」
ラウルは黙った。
セリアが僕を見た。
「続けて」
胃が痛い。
人の嘘を目の前で指摘するのは、紙の余白を眺めるよりずっと胃に悪い。
「左足をかばう人は、歩幅がずれます。狭い店先で体勢を崩しやすい。薬房の裏口から出て、ここを通った時に、棚を倒しかけたんじゃありませんか」
「推測ですね」
ラウルの声が硬くなる。
「僕が断言することでは――」
言いかけて、止まった。
セリアは何も言わなかった。
ただ待っていた。
待たれるのは、責められるより逃げにくい。
僕はもう一度、棚を見た。
裏返った瓶。新しい傷。ラウルの最初の「見ていません」と、次の「覚えていません」。
「……いえ。今の言い換えは、嘘を隠すためのものです」
ラウルの顔色が変わった。
「見ていない人は、覚えていないとは言いません。最初は“見ていない”と言ったのに、歩き方の話をした瞬間、“覚えていない”に変えた。見たけれど、覚えていないことにしたかったんです」
言った後で、心臓が一拍遅れて跳ねた。
大丈夫だ。
たぶん。
いや、できれば誰か大丈夫だと言ってほしい。
「ラウル」
セリアが静かに言った。
「あなたを脅すために来たのではありません。ですが、少女の命に関わっています」
「私は何も」
「証言者として保護することもできます」
ラウルの目が揺れた。
「保護?」
「男が危険な相手なら、あなたも巻き込まれる可能性があります。あなたが話したことを不用意に広めるつもりはありません」
セリアは一歩も詰め寄らなかった。
それが逆に効いたのだと思う。
ラウルは店の奥をちらりと見た。
棚の影に、小さな女の子が隠れていた。娘だろうか。
セリアも気づいたが、そこには視線を長く置かなかった。
「……見ました」
ラウルは低く言った。
「昨日の夜です。薬房の裏口から、背の高い男が出てきた。顔はフードで見えませんでした。手袋をしていました。片足……左足を少し引きずるように歩いていた」
「左足を?」
「ええ。右に体を逃がすような歩き方でした。うちの棚にぶつかりかけて、瓶を一本倒しそうになった」
「なぜ黙っていたのですか」
セリアの声は責めていなかった。
だからラウルも、言い訳ではなく理由を話した。
「男が、こちらを見たんです。顔は見えないのに、見られていると分かった。手袋をした手で、棚の瓶を一本直して……こう言いました」
ラウルは唇を舐めた。
「“リナ・ベルは、よく眠れるようになる”と」
背筋に冷たいものが走った。
「リナの名を知っていた」
セリアが確認する。
「はい。私はその子のことを知りませんでした。でも、男は名前を言った」
「薬師マルクの名は?」
「言っていません。薬師のことも、薬房のことも。女の子の名前だけです」
つまり、男は最初からリナを狙っていた。
マルクを犯人にするためにリナを選んだのか。
リナを狙うためにマルクを使ったのか。
どちらにしても、紙の上の毒殺は偶然ではない。
その時、通りの向こうから保管所の職員が走ってきた。
「フォール監察官!」
息を切らしている。
顔色が悪い。
セリアは即座に振り向いた。
「リナに何か?」
「強い眠気を訴えています。先ほどから息苦しさも。医師は、毒はまだ検出されないと」
「まだ?」
「はい。ただ、匂い袋との関連があるかもしれないと……」
セリアの判断は早かった。
「聞き込みは中断。リナの保護を優先します。ラウル、あなたは店を閉めて家族と奥へ。職員を一人置きます」
「私は捕まるのですか」
「いいえ。証言者として守ります。勝手に外へ出ないでください。あなたのためでもあります」
ラウルは頷いた。
セリアは僕を見る。
「エルム。戻ります」
「はい」
僕たちは保管所へ急いだ。
王都の通りはさっきと同じように騒がしい。
けれど、僕の耳にはリナの声が残っていた。
私、悪いことをしたんですか。
していない。
そう即答した。
なら、助けなければならない。
保管所の別室に入ると、リナは寝台に横になっていた。
母親が手を握っている。ニナが壁際で真っ青な顔をしていた。
リナの目は開いている。
けれど焦点が合っていない。
「眠い……でも、寝たら、起きられない気がする」
小さな声だった。
セリアは寝台の横に膝をついた。
「眠らなくていい。目を閉じたくなったら、私の声を聞きなさい」
「監察官さん……」
「セリアで構いません」
「怖い名前じゃない?」
「少し怖い名前です。でも今は、役に立つ名前です」
リナが弱く笑った。
この人は、こういう時に冗談を選べるのか。
ほんの少しだけ意外だった。
医師が匂い袋の封箱を持ってきた。
「毒は検出されません。血色も、急性毒の症状とは違う。ただ、この甘い匂いを嗅いだ後から眠気が強くなったと」
「袋を開けたのですか」
セリアの声が硬くなる。
「開けていません。封はそのままです」
封箱は机の上に置かれた。
僕は近づいた。
布袋は中にある。
封も破られていない。
中身が減った様子もない。
でも。
「匂いが薄い」
僕は言った。
以前嗅いだ時の、喉に残る甘さ。
薬房で感じた、浮いた甘さ。
それが、明らかに弱くなっている。
「中身は?」
セリアが医師に問う。
「減っていません」
「封は?」
「破られていません」
「ではなぜ匂いだけが薄れる?」
誰も答えなかった。
僕は箱の縁を見た。
封蝋は無事。布袋も無事。中身も無事。
なのに、匂いだけが消えかけている。
それは、何かが失われたというより。
「移っている……?」
僕が呟くと、セリアがこちらを見た。
「どこへ」
その問いに、僕は答えられなかった。
リナが寝台の上で、小さく息を吸う。
苦しそうに。
セリアは封箱を見下ろした。
「毒が消えたのではありません」
彼女の声は低かった。
「何かが、外へ移っている」
夜明け前まで、あと十二時間。
記録された毒殺は、まだ終わっていない。
けれど、始まっていないとも、もう言えなかった。




