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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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第三章 匂い袋を渡した男

薬房の奥にある見習い部屋は、寝床というより物置に近かった。


 細い寝台。

 壁に打ちつけられた棚。

 足元に置かれた木箱。

 机の上には、使いかけのインク壺と、乾いた薬草の粉が散っている。


 ここで人が暮らしていた、と言われれば信じる。

 ここで人が休めていた、と言われれば少し疑う。


「トマ・グラン。十六歳。マルク・レインの見習い。今朝から所在不明」


 セリアが短く確認する。


 マルクは扉の前に立ったまま、頷いた。


「はい。普段なら、夜明け前には水汲みに出ます。薬房の掃除も、彼の仕事です」


「無断で休むことは?」


「ありません。あの子は……臆病ですが、怠け者ではない」


 臆病ですが。


 その言い方に、少しだけ引っかかった。


「怯えていたんですか」


 僕が尋ねると、マルクはすぐには答えなかった。


「昨日の夜、少し様子がおかしかった。何か言いたそうにしていましたが、私も患者の対応で手が離せず……朝になれば聞けると思っていました」


 朝になれば。


 そう思った人間の後悔は、だいたい同じ形をしている。


 僕は机の上を見た。


 書きかけのメモが一枚。

 文字は途中で途切れている。


 ――先生へ。あの袋は、やはり


 そこで終わっていた。


 その下に、インクが小さく跳ねている。

 筆を置いたのではなく、落とした跡だ。


「何かに驚いた?」


 セリアが僕の視線を追って言った。


「たぶん。筆先が横に流れていません。書くのをやめたというより、手から落ちたように見えます」


「窓は?」


 部屋には小さな窓が一つだけあった。

 外は裏路地。以前見た、左右差のある足跡が残っていた場所に面している。


 窓枠には、薄い泥が付いていた。


「外から覗けますね」


「背の高い人間なら」


 セリアは窓を開け、外を確認した。


「トマはこのメモを書いている途中で、外の誰かに気づいた可能性がある」


「あるいは、外の誰かが先にトマを見つけた」


 言ってから、僕はメモを見た。


 あの袋は、やはり。


 やはり、何なのか。


 続きを書いてくれていればよかったのに、と一瞬思う。

 すぐに自分がひどいことを考えたと気づく。


 続きを書けなかった理由の方が、今は重要だ。


 木箱の中には、洗い替えの服と、古い靴が入っていた。靴底の右側だけがすり減っている。裏口の足跡とは逆だ。


「トマではありませんね」


「裏口の足跡?」


「はい。裏口の足跡は左が深かった。これは右足を引きずる癖です」


「よく見ています」


「仕事なので」


「逃げるためにも?」


 セリアがさらりと言った。


 僕は木箱の蓋を落としかけた。


「……監察官は、人の心臓に悪いことを言う訓練を受けるんですか」


「受けません。必要なら自然に身につきます」


「恐ろしい職能ですね」


 セリアは返事をしなかった。

 けれど、さっきよりほんの少しだけ空気が軽くなった気がした。


 見習い部屋を出ると、マルクが不安そうにこちらを見た。


「トマは、事件に関わっているのでしょうか」


「現時点では分かりません」


 セリアが答える。


「ただし、彼も危険に巻き込まれている可能性があります。トマを犯人候補としてだけではなく、保護対象として捜します」


 マルクの肩が、少しだけ落ちた。


 安堵か。

 それとも、さらに重い不安か。


「ありがとうございます」


 彼はそう言った。


 僕たちは薬房の外へ出た。


 夜明け前まで、あと十二時間ほど。


 まだ半日ある。

 そう言えば長く聞こえる。


 けれど、リナの体に何かが仕込まれている可能性を考えると、十二時間は薄い紙のように頼りなかった。


 薬房周辺の聞き込みは、順調とは言えなかった。


 配達人は、昨日の夕方に薬草の箱を届けたが、裏口には行っていないと言った。箱の受け取りはトマだったらしい。

 近所の患者は、マルクの評判を口々に話した。「あの先生が子供を殺すわけない」「でも最近、見習いの子が青い顔をしていた」「夜に裏口で誰かと話しているのを見たような気がする」


 気がする。


 証言としては弱い。

 けれど、弱い証言は捨てていい証言ではない。弱い理由を見つけるべき証言だ。


 薬房の近くで遊んでいた子供たちは、僕たちを見るなり逃げた。

 セリアが追いかけようとした職員を止める。


「追えば、次から何も話さなくなります」


「ですが」


「今は覚えさせるだけでいい。こちらは怒っていない、と」


 そう言って、セリアは子供たちの逃げた方へ視線を向けた。


 厳しい人だ。

 でも、乱暴ではない。


 最後に向かったのは、薬房の斜向かいにある香油商だった。


 店先には色とりどりの小瓶が並び、甘い香り、苦い香り、鼻に残る香りが混ざっていた。正直、ここで長く話を聞いたら、僕の観察力より先に嗅覚が倒れる。


 店主は四十代くらいの男で、髭を丁寧に整えていた。

 名前はラウル。

 服も店も清潔だが、こちらを見る目は歓迎からかなり遠い。


「監察官様が、香油屋に何の御用で?」


「昨日から今朝にかけて、薬房の裏口付近で不審な男を見ませんでしたか」


「不審な男?」


「背が高く、手袋をしていた可能性があります」


 ラウルは眉を上げた。


「見ていませんね」


 早い。


 早すぎる答えは、準備していた答えに聞こえる。


 セリアは淡々と続けた。


「左足をかばう歩き方をしていたかもしれません」


「覚えていません」


 僕は店先の棚を見た。


 香油瓶が整然と並んでいる。

 色別、高さ別、札の向きも揃っている。


 一つを除いて。


 棚の端にある小瓶だけ、札が裏を向いていた。

 その隣の瓶には、底に細かい傷がある。倒れかけた瓶を、慌てて戻した時の傷だ。


「店先の瓶、いつ倒れました?」


 僕が尋ねると、ラウルの目が一瞬だけ動いた。


「倒れてなどいません」


「倒れかけた、でもいいです」


「何の話です」


「この棚の瓶は全部、札が通りに向いています。でも一つだけ裏返っている。隣の瓶の底には新しい傷がある。誰かが棚にぶつかったか、棚を支えようとした」


 ラウルは黙った。


 セリアが僕を見た。


「続けて」


 胃が痛い。

 人の嘘を目の前で指摘するのは、紙の余白を眺めるよりずっと胃に悪い。


「左足をかばう人は、歩幅がずれます。狭い店先で体勢を崩しやすい。薬房の裏口から出て、ここを通った時に、棚を倒しかけたんじゃありませんか」


「推測ですね」


 ラウルの声が硬くなる。


「僕が断言することでは――」


 言いかけて、止まった。


 セリアは何も言わなかった。

 ただ待っていた。


 待たれるのは、責められるより逃げにくい。


 僕はもう一度、棚を見た。

 裏返った瓶。新しい傷。ラウルの最初の「見ていません」と、次の「覚えていません」。


「……いえ。今の言い換えは、嘘を隠すためのものです」


 ラウルの顔色が変わった。


「見ていない人は、覚えていないとは言いません。最初は“見ていない”と言ったのに、歩き方の話をした瞬間、“覚えていない”に変えた。見たけれど、覚えていないことにしたかったんです」


 言った後で、心臓が一拍遅れて跳ねた。


 大丈夫だ。

 たぶん。

 いや、できれば誰か大丈夫だと言ってほしい。


「ラウル」


 セリアが静かに言った。


「あなたを脅すために来たのではありません。ですが、少女の命に関わっています」


「私は何も」


「証言者として保護することもできます」


 ラウルの目が揺れた。


「保護?」


「男が危険な相手なら、あなたも巻き込まれる可能性があります。あなたが話したことを不用意に広めるつもりはありません」


 セリアは一歩も詰め寄らなかった。


 それが逆に効いたのだと思う。


 ラウルは店の奥をちらりと見た。

 棚の影に、小さな女の子が隠れていた。娘だろうか。


 セリアも気づいたが、そこには視線を長く置かなかった。


「……見ました」


 ラウルは低く言った。


「昨日の夜です。薬房の裏口から、背の高い男が出てきた。顔はフードで見えませんでした。手袋をしていました。片足……左足を少し引きずるように歩いていた」


「左足を?」


「ええ。右に体を逃がすような歩き方でした。うちの棚にぶつかりかけて、瓶を一本倒しそうになった」


「なぜ黙っていたのですか」


 セリアの声は責めていなかった。

 だからラウルも、言い訳ではなく理由を話した。


「男が、こちらを見たんです。顔は見えないのに、見られていると分かった。手袋をした手で、棚の瓶を一本直して……こう言いました」


 ラウルは唇を舐めた。


「“リナ・ベルは、よく眠れるようになる”と」


 背筋に冷たいものが走った。


「リナの名を知っていた」


 セリアが確認する。


「はい。私はその子のことを知りませんでした。でも、男は名前を言った」


「薬師マルクの名は?」


「言っていません。薬師のことも、薬房のことも。女の子の名前だけです」


 つまり、男は最初からリナを狙っていた。


 マルクを犯人にするためにリナを選んだのか。

 リナを狙うためにマルクを使ったのか。


 どちらにしても、紙の上の毒殺は偶然ではない。


 その時、通りの向こうから保管所の職員が走ってきた。


「フォール監察官!」


 息を切らしている。

 顔色が悪い。


 セリアは即座に振り向いた。


「リナに何か?」


「強い眠気を訴えています。先ほどから息苦しさも。医師は、毒はまだ検出されないと」


「まだ?」


「はい。ただ、匂い袋との関連があるかもしれないと……」


 セリアの判断は早かった。


「聞き込みは中断。リナの保護を優先します。ラウル、あなたは店を閉めて家族と奥へ。職員を一人置きます」


「私は捕まるのですか」


「いいえ。証言者として守ります。勝手に外へ出ないでください。あなたのためでもあります」


 ラウルは頷いた。


 セリアは僕を見る。


「エルム。戻ります」


「はい」


 僕たちは保管所へ急いだ。


 王都の通りはさっきと同じように騒がしい。

 けれど、僕の耳にはリナの声が残っていた。


 私、悪いことをしたんですか。


 していない。

 そう即答した。


 なら、助けなければならない。


 保管所の別室に入ると、リナは寝台に横になっていた。

 母親が手を握っている。ニナが壁際で真っ青な顔をしていた。


 リナの目は開いている。

 けれど焦点が合っていない。


「眠い……でも、寝たら、起きられない気がする」


 小さな声だった。


 セリアは寝台の横に膝をついた。


「眠らなくていい。目を閉じたくなったら、私の声を聞きなさい」


「監察官さん……」


「セリアで構いません」


「怖い名前じゃない?」


「少し怖い名前です。でも今は、役に立つ名前です」


 リナが弱く笑った。


 この人は、こういう時に冗談を選べるのか。

 ほんの少しだけ意外だった。


 医師が匂い袋の封箱を持ってきた。


「毒は検出されません。血色も、急性毒の症状とは違う。ただ、この甘い匂いを嗅いだ後から眠気が強くなったと」


「袋を開けたのですか」


 セリアの声が硬くなる。


「開けていません。封はそのままです」


 封箱は机の上に置かれた。


 僕は近づいた。


 布袋は中にある。

 封も破られていない。

 中身が減った様子もない。


 でも。


「匂いが薄い」


 僕は言った。


 以前嗅いだ時の、喉に残る甘さ。

 薬房で感じた、浮いた甘さ。


 それが、明らかに弱くなっている。


「中身は?」


 セリアが医師に問う。


「減っていません」


「封は?」


「破られていません」


「ではなぜ匂いだけが薄れる?」


 誰も答えなかった。


 僕は箱の縁を見た。

 封蝋は無事。布袋も無事。中身も無事。


 なのに、匂いだけが消えかけている。


 それは、何かが失われたというより。


「移っている……?」


 僕が呟くと、セリアがこちらを見た。


「どこへ」


 その問いに、僕は答えられなかった。


 リナが寝台の上で、小さく息を吸う。

 苦しそうに。


 セリアは封箱を見下ろした。


「毒が消えたのではありません」


 彼女の声は低かった。


「何かが、外へ移っている」


 夜明け前まで、あと十二時間。


 記録された毒殺は、まだ終わっていない。

 けれど、始まっていないとも、もう言えなかった。


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