第二章 苦い薬を甘くする薬師
王都の午後は、紙の上の事件など知らない顔で騒がしかった。
馬車の車輪が石畳を叩き、露店の呼び込みが通りを埋め、どこかの店先から焼き菓子の匂いが流れてくる。
その平和そうな匂いの中を、僕はセリア・フォール監察官の半歩後ろで歩いていた。
夜明け前まで、あと十五時間ほど。
たったそれだけの時間で、まだ起きていない毒殺を止めなければならない。
そう考えると、焼き菓子の匂いまで不謹慎に思えてくる。
「エルム」
「はい」
「顔が逃げています」
「顔は逃げません」
「では、目が逃げています」
「目は……比較的、逃げます」
セリアは前を向いたまま、ほんのわずかに息を吐いた。
笑った、わけではないと思う。たぶん。そういうことにしておきたい。
「薬師マルク・レインをどう見ますか」
「記録上は、リナ・ベル毒殺の犯人です」
「現実では?」
「まだ誰も殺していません」
「では、私たちがすべきことは?」
「……彼を犯人として扱わず、しかし危険を見落とさないこと」
「妥当です」
また妥当をもらった。
監察官の妥当は、褒め言葉というより、刃物の刃こぼれを確認された気分になる。
マルク・レインの薬房は、王都の中心から少し外れた下町にあった。
貴族街の白い壁とは違い、こちらの建物は石も木も年季が入っている。道は狭く、洗濯物が頭上を渡り、薬草と煮込み料理と湿った土の匂いが混ざっていた。
薬房の看板は小さかった。
――レイン薬房。
文字は古びていたが、扉の取っ手だけはよく磨かれている。使う人間が多い証拠だ。
扉の前には、五人ほどの患者が並んでいた。
咳き込む老人、腕に包帯を巻いた少年、赤ん坊を抱いた母親。服は皆、よく洗われてはいるが、継ぎが多い。
中から男の声が聞こえた。
「薬は朝と夜。食べられない時は水だけでもいい。無理に肉を食べさせないでください。胃が驚きます」
「でも先生、お代が」
「では、次に来る時に空き瓶を三つ持ってきてください。それで足ります」
「そんな、瓶だけでは」
「足ります。私の棚が散らかって困っているので」
嘘だ。
棚が散らかって困る薬師が、空き瓶三つで診療代を済ませるはずがない。
けれど、その嘘は人を傷つけない種類のものだった。
赤ん坊を抱いた母親が、何度も頭を下げて出てきた。
その後ろから現れた男が、マルク・レインなのだろう。
年は三十代半ば。痩せていて、目の下に濃い隈がある。白衣は古いが清潔で、袖口だけ薬草の色に薄く染まっていた。温厚そうな顔立ちだが、疲労が輪郭に張りついている。
彼は僕たちを見るなり、患者ではないと悟ったらしい。
表情を少しだけ引き締めた。
「王都監察官のセリア・フォールです」
セリアが身分証を示す。
「こちらは記録官見習いのリュカ・エルム。いくつか確認したいことがあります」
薬房の中の患者たちがざわめいた。
マルクはそのざわめきを背で受け止めるように、一歩だけ前に出た。
「私に関することですか」
「リナ・ベルについてです」
その名を聞いた瞬間、マルクの目の色が変わった。
疑われた人間の目ではない。
患者の名を聞いた医者の目だった。
「リナに何かあったんですか」
「現在、保管所で保護しています。命に関わる症状は確認されていません」
「現在は、ですか」
マルクはその一語を聞き逃さなかった。
セリアは頷いた。
「あなたは、彼女に匂い袋を渡しましたか」
薬房の空気が、少しだけ止まった。
ほんの一瞬。
瞬き一つぶん。
けれど、リュカ・エルムという人間は、残念ながらそういう一瞬に気づくようにできている。もっと人生に役立つ才能が欲しかった。
「……匂い袋」
マルクは言葉を繰り返した。
「眠れない子供に使うものなら、渡したことがあります」
「リナに?」
「ええ。彼女は夜に咳が出ると眠れなくなる。強い薬を使うほどではありませんでしたから」
答えは自然だった。
自然すぎた。
僕は薬房の中へ視線を移した。
壁一面に薬草棚。乾燥させた葉、根、花、樹皮が小瓶や紙袋に分けられている。棚には手書きの札が貼られ、種類ごとに並んでいた。
鎮痛。解熱。胃薬。眠り。傷薬。
几帳面な並びだ。
ただ、一か所だけ変だった。
眠りに使う薬草の棚の隣に、咳止めの乾燥根が二袋だけ混ざっている。
間違えて置いたにしては、札が内側を向いていた。客から見えないように。
「患者の方々には、外で少しお待ちいただけますか」
セリアが言った。
口調は厳しくない。
けれど、逆らう余地もない。
「この薬房を閉めるのですか?」
包帯の少年が不安そうに言った。
「いいえ。診療を止めるためではありません。あなたたちを巻き込まないためです」
セリアは少年の包帯を見た。
「その腕は、今日中に処置が必要ですか」
少年は首を振った。
「昨日、先生に替えてもらったから」
「では、明日の朝まで悪化した場合は保管所へ。私の名を出しなさい。薬房が一時的に使えない場合、代わりの診療所を手配します」
少年は目を丸くした。
セリアは患者を追い払わなかった。
犯人の薬房にいた者として扱いもしなかった。
ただ、怖がらせないように外へ出した。
それだけで、彼女が何を優先しているかは分かった。
患者たちが出ていくと、薬房は急に狭く感じられた。
マルクは扉の方を見た。
「私は疑われているんですね」
「記録上は」
僕が答えてしまった。
セリアの視線が横から刺さる。
しまった。今のは僕が言うべきではなかったかもしれない。
マルクは苦笑した。
「記録上は、ですか。薬師にはなかなか重い言葉ですね」
「失礼しました」
「いいえ。事実なのでしょう」
彼は自分の手を見た。
薬草の色が染みた指。細かい傷がいくつもある。
「私は、リナを傷つけるようなことはしていません。あの子は苦い薬が嫌いで、いつも飲む前にこちらを睨むんです。睨む元気があるなら大丈夫だと、私はいつも思っていました」
「リナはあなたを信頼しています」
セリアが言った。
「だからこそ、確かめます。あなた以外に、彼女へ匂い袋を渡せる者はいましたか」
「……私が調合したものを」
マルクはそこで止まった。
一拍。
「見習いに任せたことがあります」
言い換えた。
僕はその言い換えを、頭の中で記録した。
私が調合した。
見習いに任せた。
責任の位置が変わっている。
「見習いの名前は?」
「トマです。ですが、今朝から来ていません」
「どこに?」
「分かりません。無断欠勤は初めてです」
セリアは短く頷き、僕を見る。
「エルム。今の発言をどう見ますか」
来た。
胃の奥が、きゅっと縮む。
「僕が判断することでは――」
言いかけた瞬間、セリアの目が少しだけ細くなった。
怒っているわけではない。
ただ、待っている。
以前聞いた声が頭の中に戻ってくる。
見えていることまで“判断ではない”と言って退けるなら、それは慎重さではなく放棄です。
僕は息を吸った。
「……いえ。今の言い換えは、不自然です」
薬房の空気が張った。
マルクは僕を見る。
責める目ではなかった。けれど、警戒はしている。
「どう不自然ですか」
セリアが促す。
「最初、マルクさんは“私が調合した”と言いかけました。でも途中で“見習いに任せた”に変えた。匂い袋の責任が自分にあるのか、見習いにあるのかを、今この場で選び直したように見えます」
「私は、責任逃れをしたと?」
マルクの声は静かだった。
「そこまでは言っていません」
反射で逃げかけて、僕は言葉を足した。
「ただ、隠していることはあると思います」
言った。
言ってしまった。
僕の心臓は、仕事熱心に嫌な音を立てていた。
けれどセリアは、横で小さく頷いた。
「続けて」
「薬草棚も変です」
僕は棚を指さした。
「眠りに使う乾燥花の棚に、咳止めの乾燥根が混ざっています。札が内側を向いている。普段から整理されている薬房で、あの置き方だけ雑です」
マルクの表情がわずかに強張った。
それは、怒りではない。
見つかった、という顔に近い。
「患者が触った可能性は?」
セリアが聞く。
「あります。でも、あの棚は奥です。患者が触るにはカウンターの内側へ入る必要があります」
「マルク・レイン」
セリアは薬師へ向き直る。
「薬房の一部を封鎖します。患者の診療は必要に応じて代替手配をします。あなたの身柄は拘束しませんが、薬房内の薬草、器具、帳簿にはこちらの確認が入るまで触れないでください」
「私は、リナの様子を見に行けますか」
マルクが即座に言った。
自分の薬房が封鎖されることより先に、それだった。
セリアの表情が少しだけ緩んだように見えた。
「今はできません。彼女の安全を優先します。ただし、必要な薬や情報があればあなたに確かめます」
「なら、せめて咳止めを」
「こちらで確認後に使用します」
「彼女は夜に咳が悪くなるんです」
「覚えておきます」
セリアは短く言った。
その言葉は冷たく聞こえるかもしれない。
でも、彼女の「覚えておきます」は、たぶん本当に覚えておくという意味だ。
薬房の奥を調べるため、僕たちはカウンターの内側へ入った。
狭い。
薬草棚、調合台、水差し、乳鉢、古い帳簿。生活のほとんどを仕事に食われた人間の部屋だった。奥の小部屋には寝台が一つだけあり、掛布は畳まれていない。
疲れているのに、患者の前ではそれを見せない人。
善人に見える。
だからこそ、隠し事が怖い。
「甘い匂いがします」
僕は言った。
セリアが足を止める。
「匂い袋と同じ?」
「似ています。薄いですが」
リナが持っていた袋の匂い。
花のようで、薬のようで、喉の奥に残る甘さ。
薬房全体に薬草の匂いはある。けれど、その甘さだけが妙に浮いていた。
僕は調合台の端に置かれた布切れを見た。
白い布。端に薄い黄ばみ。匂い袋を包んでいた布に似ている。
「これは?」
僕が尋ねると、マルクは一瞬だけ視線を逸らした。
「調合用の布です。どこの薬房にもあります」
「ええ。布はあります。でも、この布だけ畳み方が違います」
「畳み方?」
「ほかの布は四つ折りです。これは三つ折り。急いで戻したように見えます」
マルクは黙った。
セリアが布を封じるよう職員に指示する。
彼女は薬師に詰め寄らない。けれど、一つも見逃さない。
僕は裏口へ向かった。
薬房の裏口は細い路地に面している。
扉の下には乾いた泥がこびりついていた。
外へ出ると、湿った土の匂いがした。
雨は降っていない。だが路地の一部だけ、水を撒いたようにぬかるんでいる。
「足跡があります」
僕はしゃがんだ。
靴跡は二種類。
一つはおそらくマルクのもの。室内にも同じ跡があった。
もう一つは、細長い靴底。王都の職人が履くものに似ている。
ただ、左右で深さが違う。
「左が深い」
セリアが言った。
「はい。左足に体重をかけている。あるいは、右足をかばっている」
「以前のリナの証言と合いますね」
「手袋の男ですか」
「可能性があります」
僕は足跡の端を見た。
泥が乾ききっていない。
足跡の中に、薬草の細かい欠片が混じっている。
裏口から入った。
あるいは、裏口から出た。
どちらにせよ、薬房の誰かが気づかないとは考えにくい。
「マルクさん」
僕は振り返った。
「昨日から今日にかけて、裏口を使った人は?」
「私と、トマだけです」
「手袋をした男は?」
「……知りません」
今の沈黙は、知らない人の沈黙ではなかった。
言うべきことを選んでいる人の沈黙だ。
セリアも同じものを見たのだろう。
声が少し低くなった。
「マルク・レイン。あなたを拘束しない理由は二つあります。一つ、リナ・ベルはまだ生きている。二つ、あなたには彼女を救うための知識がある」
「……はい」
「ですが、隠し事を続けるなら、その二つの理由は弱くなります」
脅しではなかった。
事実の提示だった。
マルクは両手を握りしめた。
温厚な顔に、苦しさが滲む。
「私は、リナを害したくありません」
「それは信じたい」
セリアは言った。
「ですが、信じたいだけでは守れません」
沈黙。
王都の喧騒が、路地の向こうから遠く聞こえた。
僕は薬草棚の不自然な並びを思い出した。
甘い匂い。三つ折りの布。裏口の足跡。左右差。言い換え。
どれも小さい。
一つだけなら、見間違いで済む。
けれど小さい違和感が同じ方向を向く時、それはたいてい偶然ではない。
「薬草棚の咳止めの根」
僕は言った。
マルクの視線がこちらに戻る。
「あれは、リナ用ですか」
マルクは答えなかった。
「リナは夜に咳が悪くなる。だから、眠りの匂い袋だけでは足りなかった。咳止めと何かを組み合わせる必要があった。違いますか」
「……あなたは」
マルクは掠れた声で言った。
「よく見ていますね」
「見るのは仕事です」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
見るのが仕事。
見ていないと言うのも、僕の癖。
どちらが本当なのか、自分でも時々分からなくなる。
セリアは一歩前へ出た。
「リナ・ベルに渡された匂い袋について、あなたは何を知っているのですか」
マルクは長い間、黙っていた。
薬房の中から、封鎖作業をする職員の足音が聞こえる。
表通りでは患者たちが不安そうに待っている。
保管所では、リナが夜を迎える前の時間を生きている。
夜明け前まで、あと十五時間。
マルクは目を閉じた。
そして、小声で言った。
「彼女には、あの袋が必要だったんです」
必要だった、とマルクは言った。
けれど、その言葉だけでは、何もほどけなかった。
何のために必要だったのか。
誰にとって必要だったのか。
その答えを、彼はまだ口にしていない。
代わりに彼は、薬草棚でも調合台でもなく、薬房の奥の狭い部屋へ僕たちを案内した。




