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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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2/19

第二章 苦い薬を甘くする薬師

 王都の午後は、紙の上の事件など知らない顔で騒がしかった。


 馬車の車輪が石畳を叩き、露店の呼び込みが通りを埋め、どこかの店先から焼き菓子の匂いが流れてくる。


 その平和そうな匂いの中を、僕はセリア・フォール監察官の半歩後ろで歩いていた。


 夜明け前まで、あと十五時間ほど。


 たったそれだけの時間で、まだ起きていない毒殺を止めなければならない。

 そう考えると、焼き菓子の匂いまで不謹慎に思えてくる。


「エルム」


「はい」


「顔が逃げています」


「顔は逃げません」


「では、目が逃げています」


「目は……比較的、逃げます」


 セリアは前を向いたまま、ほんのわずかに息を吐いた。

 笑った、わけではないと思う。たぶん。そういうことにしておきたい。


「薬師マルク・レインをどう見ますか」


「記録上は、リナ・ベル毒殺の犯人です」


「現実では?」


「まだ誰も殺していません」


「では、私たちがすべきことは?」


「……彼を犯人として扱わず、しかし危険を見落とさないこと」


「妥当です」


 また妥当をもらった。

 監察官の妥当は、褒め言葉というより、刃物の刃こぼれを確認された気分になる。


 マルク・レインの薬房は、王都の中心から少し外れた下町にあった。

 貴族街の白い壁とは違い、こちらの建物は石も木も年季が入っている。道は狭く、洗濯物が頭上を渡り、薬草と煮込み料理と湿った土の匂いが混ざっていた。


 薬房の看板は小さかった。


 ――レイン薬房。


 文字は古びていたが、扉の取っ手だけはよく磨かれている。使う人間が多い証拠だ。


 扉の前には、五人ほどの患者が並んでいた。

 咳き込む老人、腕に包帯を巻いた少年、赤ん坊を抱いた母親。服は皆、よく洗われてはいるが、継ぎが多い。


 中から男の声が聞こえた。


「薬は朝と夜。食べられない時は水だけでもいい。無理に肉を食べさせないでください。胃が驚きます」


「でも先生、お代が」


「では、次に来る時に空き瓶を三つ持ってきてください。それで足ります」


「そんな、瓶だけでは」


「足ります。私の棚が散らかって困っているので」


 嘘だ。


 棚が散らかって困る薬師が、空き瓶三つで診療代を済ませるはずがない。

 けれど、その嘘は人を傷つけない種類のものだった。


 赤ん坊を抱いた母親が、何度も頭を下げて出てきた。


 その後ろから現れた男が、マルク・レインなのだろう。


 年は三十代半ば。痩せていて、目の下に濃い隈がある。白衣は古いが清潔で、袖口だけ薬草の色に薄く染まっていた。温厚そうな顔立ちだが、疲労が輪郭に張りついている。


 彼は僕たちを見るなり、患者ではないと悟ったらしい。

 表情を少しだけ引き締めた。


「王都監察官のセリア・フォールです」


 セリアが身分証を示す。


「こちらは記録官見習いのリュカ・エルム。いくつか確認したいことがあります」


 薬房の中の患者たちがざわめいた。


 マルクはそのざわめきを背で受け止めるように、一歩だけ前に出た。


「私に関することですか」


「リナ・ベルについてです」


 その名を聞いた瞬間、マルクの目の色が変わった。


 疑われた人間の目ではない。

 患者の名を聞いた医者の目だった。


「リナに何かあったんですか」


「現在、保管所で保護しています。命に関わる症状は確認されていません」


「現在は、ですか」


 マルクはその一語を聞き逃さなかった。


 セリアは頷いた。


「あなたは、彼女に匂い袋を渡しましたか」


 薬房の空気が、少しだけ止まった。


 ほんの一瞬。

 瞬き一つぶん。


 けれど、リュカ・エルムという人間は、残念ながらそういう一瞬に気づくようにできている。もっと人生に役立つ才能が欲しかった。


「……匂い袋」


 マルクは言葉を繰り返した。


「眠れない子供に使うものなら、渡したことがあります」


「リナに?」


「ええ。彼女は夜に咳が出ると眠れなくなる。強い薬を使うほどではありませんでしたから」


 答えは自然だった。


 自然すぎた。


 僕は薬房の中へ視線を移した。


 壁一面に薬草棚。乾燥させた葉、根、花、樹皮が小瓶や紙袋に分けられている。棚には手書きの札が貼られ、種類ごとに並んでいた。


 鎮痛。解熱。胃薬。眠り。傷薬。


 几帳面な並びだ。


 ただ、一か所だけ変だった。


 眠りに使う薬草の棚の隣に、咳止めの乾燥根が二袋だけ混ざっている。

 間違えて置いたにしては、札が内側を向いていた。客から見えないように。


「患者の方々には、外で少しお待ちいただけますか」


 セリアが言った。


 口調は厳しくない。

 けれど、逆らう余地もない。


「この薬房を閉めるのですか?」


 包帯の少年が不安そうに言った。


「いいえ。診療を止めるためではありません。あなたたちを巻き込まないためです」


 セリアは少年の包帯を見た。


「その腕は、今日中に処置が必要ですか」


 少年は首を振った。


「昨日、先生に替えてもらったから」


「では、明日の朝まで悪化した場合は保管所へ。私の名を出しなさい。薬房が一時的に使えない場合、代わりの診療所を手配します」


 少年は目を丸くした。


 セリアは患者を追い払わなかった。

 犯人の薬房にいた者として扱いもしなかった。


 ただ、怖がらせないように外へ出した。


 それだけで、彼女が何を優先しているかは分かった。


 患者たちが出ていくと、薬房は急に狭く感じられた。


 マルクは扉の方を見た。


「私は疑われているんですね」


「記録上は」


 僕が答えてしまった。


 セリアの視線が横から刺さる。

 しまった。今のは僕が言うべきではなかったかもしれない。


 マルクは苦笑した。


「記録上は、ですか。薬師にはなかなか重い言葉ですね」


「失礼しました」


「いいえ。事実なのでしょう」


 彼は自分の手を見た。

 薬草の色が染みた指。細かい傷がいくつもある。


「私は、リナを傷つけるようなことはしていません。あの子は苦い薬が嫌いで、いつも飲む前にこちらを睨むんです。睨む元気があるなら大丈夫だと、私はいつも思っていました」


「リナはあなたを信頼しています」


 セリアが言った。


「だからこそ、確かめます。あなた以外に、彼女へ匂い袋を渡せる者はいましたか」


「……私が調合したものを」


 マルクはそこで止まった。


 一拍。


「見習いに任せたことがあります」


 言い換えた。


 僕はその言い換えを、頭の中で記録した。


 私が調合した。

 見習いに任せた。


 責任の位置が変わっている。


「見習いの名前は?」


「トマです。ですが、今朝から来ていません」


「どこに?」


「分かりません。無断欠勤は初めてです」


 セリアは短く頷き、僕を見る。


「エルム。今の発言をどう見ますか」


 来た。


 胃の奥が、きゅっと縮む。


「僕が判断することでは――」


 言いかけた瞬間、セリアの目が少しだけ細くなった。


 怒っているわけではない。

 ただ、待っている。


 以前聞いた声が頭の中に戻ってくる。


 見えていることまで“判断ではない”と言って退けるなら、それは慎重さではなく放棄です。


 僕は息を吸った。


「……いえ。今の言い換えは、不自然です」


 薬房の空気が張った。


 マルクは僕を見る。

 責める目ではなかった。けれど、警戒はしている。


「どう不自然ですか」


 セリアが促す。


「最初、マルクさんは“私が調合した”と言いかけました。でも途中で“見習いに任せた”に変えた。匂い袋の責任が自分にあるのか、見習いにあるのかを、今この場で選び直したように見えます」


「私は、責任逃れをしたと?」


 マルクの声は静かだった。


「そこまでは言っていません」


 反射で逃げかけて、僕は言葉を足した。


「ただ、隠していることはあると思います」


 言った。


 言ってしまった。


 僕の心臓は、仕事熱心に嫌な音を立てていた。

 けれどセリアは、横で小さく頷いた。


「続けて」


「薬草棚も変です」


 僕は棚を指さした。


「眠りに使う乾燥花の棚に、咳止めの乾燥根が混ざっています。札が内側を向いている。普段から整理されている薬房で、あの置き方だけ雑です」


 マルクの表情がわずかに強張った。


 それは、怒りではない。

 見つかった、という顔に近い。


「患者が触った可能性は?」


 セリアが聞く。


「あります。でも、あの棚は奥です。患者が触るにはカウンターの内側へ入る必要があります」


「マルク・レイン」


 セリアは薬師へ向き直る。


「薬房の一部を封鎖します。患者の診療は必要に応じて代替手配をします。あなたの身柄は拘束しませんが、薬房内の薬草、器具、帳簿にはこちらの確認が入るまで触れないでください」


「私は、リナの様子を見に行けますか」


 マルクが即座に言った。


 自分の薬房が封鎖されることより先に、それだった。


 セリアの表情が少しだけ緩んだように見えた。


「今はできません。彼女の安全を優先します。ただし、必要な薬や情報があればあなたに確かめます」


「なら、せめて咳止めを」


「こちらで確認後に使用します」


「彼女は夜に咳が悪くなるんです」


「覚えておきます」


 セリアは短く言った。


 その言葉は冷たく聞こえるかもしれない。

 でも、彼女の「覚えておきます」は、たぶん本当に覚えておくという意味だ。


 薬房の奥を調べるため、僕たちはカウンターの内側へ入った。


 狭い。

 薬草棚、調合台、水差し、乳鉢、古い帳簿。生活のほとんどを仕事に食われた人間の部屋だった。奥の小部屋には寝台が一つだけあり、掛布は畳まれていない。


 疲れているのに、患者の前ではそれを見せない人。


 善人に見える。


 だからこそ、隠し事が怖い。


「甘い匂いがします」


 僕は言った。


 セリアが足を止める。


「匂い袋と同じ?」


「似ています。薄いですが」


 リナが持っていた袋の匂い。

 花のようで、薬のようで、喉の奥に残る甘さ。


 薬房全体に薬草の匂いはある。けれど、その甘さだけが妙に浮いていた。


 僕は調合台の端に置かれた布切れを見た。

 白い布。端に薄い黄ばみ。匂い袋を包んでいた布に似ている。


「これは?」


 僕が尋ねると、マルクは一瞬だけ視線を逸らした。


「調合用の布です。どこの薬房にもあります」


「ええ。布はあります。でも、この布だけ畳み方が違います」


「畳み方?」


「ほかの布は四つ折りです。これは三つ折り。急いで戻したように見えます」


 マルクは黙った。


 セリアが布を封じるよう職員に指示する。

 彼女は薬師に詰め寄らない。けれど、一つも見逃さない。


 僕は裏口へ向かった。


 薬房の裏口は細い路地に面している。

 扉の下には乾いた泥がこびりついていた。


 外へ出ると、湿った土の匂いがした。

 雨は降っていない。だが路地の一部だけ、水を撒いたようにぬかるんでいる。


「足跡があります」


 僕はしゃがんだ。


 靴跡は二種類。


 一つはおそらくマルクのもの。室内にも同じ跡があった。

 もう一つは、細長い靴底。王都の職人が履くものに似ている。


 ただ、左右で深さが違う。


「左が深い」


 セリアが言った。


「はい。左足に体重をかけている。あるいは、右足をかばっている」


「以前のリナの証言と合いますね」


「手袋の男ですか」


「可能性があります」


 僕は足跡の端を見た。


 泥が乾ききっていない。

 足跡の中に、薬草の細かい欠片が混じっている。


 裏口から入った。

 あるいは、裏口から出た。


 どちらにせよ、薬房の誰かが気づかないとは考えにくい。


「マルクさん」


 僕は振り返った。


「昨日から今日にかけて、裏口を使った人は?」


「私と、トマだけです」


「手袋をした男は?」


「……知りません」


 今の沈黙は、知らない人の沈黙ではなかった。


 言うべきことを選んでいる人の沈黙だ。


 セリアも同じものを見たのだろう。

 声が少し低くなった。


「マルク・レイン。あなたを拘束しない理由は二つあります。一つ、リナ・ベルはまだ生きている。二つ、あなたには彼女を救うための知識がある」


「……はい」


「ですが、隠し事を続けるなら、その二つの理由は弱くなります」


 脅しではなかった。

 事実の提示だった。


 マルクは両手を握りしめた。


 温厚な顔に、苦しさが滲む。


「私は、リナを害したくありません」


「それは信じたい」


 セリアは言った。


「ですが、信じたいだけでは守れません」


 沈黙。


 王都の喧騒が、路地の向こうから遠く聞こえた。


 僕は薬草棚の不自然な並びを思い出した。

 甘い匂い。三つ折りの布。裏口の足跡。左右差。言い換え。


 どれも小さい。

 一つだけなら、見間違いで済む。


 けれど小さい違和感が同じ方向を向く時、それはたいてい偶然ではない。


「薬草棚の咳止めの根」


 僕は言った。


 マルクの視線がこちらに戻る。


「あれは、リナ用ですか」


 マルクは答えなかった。


「リナは夜に咳が悪くなる。だから、眠りの匂い袋だけでは足りなかった。咳止めと何かを組み合わせる必要があった。違いますか」


「……あなたは」


 マルクは掠れた声で言った。


「よく見ていますね」


「見るのは仕事です」


 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。


 見るのが仕事。

 見ていないと言うのも、僕の癖。


 どちらが本当なのか、自分でも時々分からなくなる。


 セリアは一歩前へ出た。


「リナ・ベルに渡された匂い袋について、あなたは何を知っているのですか」


 マルクは長い間、黙っていた。


 薬房の中から、封鎖作業をする職員の足音が聞こえる。

 表通りでは患者たちが不安そうに待っている。

 保管所では、リナが夜を迎える前の時間を生きている。


 夜明け前まで、あと十五時間。


 マルクは目を閉じた。


 そして、小声で言った。


「彼女には、あの袋が必要だったんです」


 必要だった、とマルクは言った。


 けれど、その言葉だけでは、何もほどけなかった。

 何のために必要だったのか。

 誰にとって必要だったのか。

 その答えを、彼はまだ口にしていない。

代わりに彼は、薬草棚でも調合台でもなく、薬房の奥の狭い部屋へ僕たちを案内した。

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