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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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第一章 まだ起きていない毒殺

その罪状記録には、まだ乾ききっていない黒いインクで、こう書かれていた。


 ――薬師マルク・レインは、夜明け前に少女リナ・ベルを毒殺した。


 僕はその一文を三度読んだ。


 一度目は、字面を追った。

 二度目は、日付を見た。

 三度目は、紙の端に残った指の跡を見た。


 そして、できれば四度目は読みたくないと思った。


「……おい、エルム。どういうことだ」


 隣で主任記録官のバルトが低く唸った。

 彼の声は、紙束に積もった埃を震わせるには十分だったが、僕の胃を落ち着かせるにはまるで足りなかった。


「僕が判断することではありません」


 反射的にそう答えてから、失敗した、と思った。


 バルト主任の眉間に皺が寄る。

 王都記録保管所の空気が一段重くなった。


「判断しろとは言っていない。読めと言っている」


「読めています」


「なら説明しろ」


「記録上は、薬師マルク・レインが少女リナ・ベルを毒殺した、ということになります」


「それは俺にも読める!」


 怒鳴り声が、天井近くの記録棚に吸い込まれた。


 王都記録保管所。

 王都で交わされた証言、裁定、罪状、契約、その写しが眠る場所だ。

 ここに受理された記録は、ただの覚え書きでは済まない。

 裁きの根拠になり、契約の証になり、時には誰かの罪を動かす。

 だから保管所の紙は、古くても軽く扱われない。間違った一枚が紛れ込めば、その間違いは人の人生を狂わせる。


「問題はそこじゃない。マルク・レインは今朝、薬房にいた。巡回兵が確認している」


「はい」


「少女リナ・ベルも生きている。母親が連れてきた。今、下の待合室にいる」


「はい」


「夜明け前に毒殺された少女が、昼前に待合室で蜂蜜湯を飲んでいる。どう考えればいい?」


「……蜂蜜湯がよく効いた、という可能性は」


「エルム」


「すみません」


 冗談は場を軽くするためにある。

 けれど、失敗すると責任の所在だけが重くなる。


 僕は口を閉じ、記録紙を机に置いた。


 罪状記録は、普通の紙ではない。少なくとも、普通の紙として扱われることはない。誰かの罪を確定させる文書は、筆跡、証言欄、受理印まで揃って初めて効力を持つ。


 この紙には、それが揃っていた。


 揃ってしまっていた。


「未来の罪が記録された、ということですか」


 部屋の隅で、か細い声がした。


 発言したのは、年若い見習い職員だった。名前はたしか、ニナ。大きすぎる制服の袖を握りしめて、顔色を悪くしている。


 バルト主任が振り向いた。


「余計なことを言うな。お前は搬入記録を書き写していただけだ」


「でも、私が見つけました」


「だから何だ」


 ニナは口を閉じた。

 言葉を飲み込む音が聞こえた気がした。


 僕は記録紙から目を離し、彼女を見る。


「ニナさん」


 呼ぶと、彼女は驚いたように肩を跳ねさせた。


「見つけた時、紙はどこにありました?」


「……第三棚の、未整理箱です」


「誰かに渡された?」


「いいえ。朝の搬入分を分けていたら、その、一枚だけ混ざっていて」


「混ざっていた?」


「はい。他の紙と向きが逆でした」


 バルト主任が苛立ったように息を吐く。


「向きなどどうでもいい」


「どうでもよくはありません」


 僕の声は、自分で思ったよりはっきりしていた。


 主任がこちらを見る。

 言ってしまった。

 こういう時、僕はいつも一呼吸遅れて後悔する。


 けれど、ニナの指はまだ袖を握ったままだった。

 あれは、自分の言葉を取り消す準備をしている手だ。


 取り消させてはいけない。


「すみません。続けてください。向きが逆だった。それから?」


 ニナは僕と主任を交互に見た。


「……紙の端が、少し湿っていました」


「インクで?」


「いえ。水みたいな。でも、濡れているのは端だけで、文字は滲んでいませんでした」


「触りましたか」


「触ってしまいました。すみません」


「謝らなくていいです。どの指で?」


「右手の親指と、人差し指です」


「その時、紙は冷たかった?」


 ニナは小さく頷いた。


「少し。ほかの紙より」


 僕は記録紙の右端を見た。


 確かに、紙の端に薄い波打ちがある。

 乾いた後の癖だ。けれど本文は滲んでいない。濡れた後に書かれたか、文字だけが水を避けたか。


 後者なら、あまり考えたくない。


「エルム、何が分かった」


「まだ、何も」


 言ってから、また失敗したと思った。


 バルト主任の目が細くなる。


「何も?」


「いえ。見えているものはあります。ただ、結論ではありません」


「言え」


 僕は記録紙の下半分を指さした。


「本文は整いすぎています。罪状文の書式としては正しい。でも、証言欄が変です」


「証言欄?」


「ここです。第一証言者の欄。名前がありません」


「空欄だな」


「はい。でも空欄なのに、行末だけ筆圧が強い」


 バルト主任が顔を近づけた。


 ニナも恐る恐る机に寄る。


「名前を書こうとして、やめた?」


「そう見えます。でも、普通なら書き損じは訂正線を引きます。これは訂正ではなく、最初から“書かなかった”ように見せている」


「どういう意味だ」


「証言者はいない、という形にしたかった。けれど、証言欄を完全には消せなかった」


「お前は紙の余白から犯人の気持ちまで読むのか」


「気持ちは読めません。僕は見ていませんから」


 その言葉が出た瞬間、なぜか喉の奥が少し詰まった。


 僕は咳払いで誤魔化した。


「ただ、逃げた人間の書き方は似ます。書くべき場所に、何も書かない。けれど、そこに力だけは残る」


 ニナが目を丸くしていた。


 バルト主任は黙った。

 怒鳴られない沈黙は、怒鳴られるより居心地が悪い。


「それと、毒殺の時刻です」


 僕は本文の一文を指でなぞらないよう、少し上を示した。


「“夜明け前”とあります。曖昧です。正式な罪状記録なら、時刻か鐘の刻みを書くはずです」


「書いた人間が急いでいた?」


「あるいは、正確な時刻を知らなかった」


「未来の事件だからか?」


 主任の声には、冗談にしてほしいという響きがあった。


 僕もそうしたかった。


 けれど記録紙は机の上で、冷たく沈黙している。


「少なくとも、これは実際の事件を見て書いた記録ではありません」


「なら偽造か」


「偽造なら、受理印が問題です」


 僕は紙の右下を見た。


 王都記録保管所の受理印。

 赤い円形の印は、わずかに傾いている。バルト主任が押す時の癖だ。印の左上が少し濃く、右下が薄い。


 本人が押した印だ。


 主任もそれに気づいたのだろう。顔色が悪くなった。


「……俺は押していない」


「はい」


「信じるのか」


「記録上は、主任が押したことになります」


「エルム」


「でも、今の主任の反応は、知らなかった人の反応です」


 僕はできるだけ平坦に言った。


 信じる、という言葉は危ない。

 信じた人間が間違っていた時、責任が生まれる。


 だから僕は、見えたことだけを言う。

 それで十分だと、いつも自分に言い聞かせている。


 バルト主任はしばらく僕を見ていた。

 それから、机に置かれた受理印の箱を乱暴に開いた。


「今朝の受理印は俺が持っていた。鍵も俺の腰にあった。保管所に入れる人間も限られている。ここで偽造されたなら、俺の責任だ」


「主任」


「勘違いするな。お前を責めているわけじゃない」


 主任は低く言った。


「ここは記録を守る場所だ。記録が間違うなら、裁きも契約も相続も、全部崩れる。俺は怒鳴っているんじゃない。怖いんだ」


 その言葉で、部屋の空気が少し変わった。


 怒鳴っている人間が怖がっていると分かると、怒鳴り声は少しだけ別の音に聞こえる。


 僕は頷いた。


「ニナさん。この紙を見つけた時、ほかに気づいたことは?」


「……笑わないですか」


「笑いません」


 バルト主任が何か言いかけたので、僕は先に言った。


「最後まで聞きます」


 ニナの指が、少しだけ袖から離れた。


「紙の中から、匂いがしました」


「匂い?」


「薬草みたいな。でも、薬房の匂いじゃありません。もっと甘くて、嫌な匂いです」


「毒の匂いか?」


 主任が身を乗り出す。


 ニナは怯えて首を振った。


「分かりません。私、毒なんて知らないので。でも……その匂いを嗅いだ時、待合室の女の子が同じ匂いの袋を持っていたのを思い出しました」


 部屋が静かになった。


 遠くで紙をめくる音がした。

 誰かが階段を上る足音も聞こえた。


 僕は記録紙を見た。


 薬師マルク・レインは、夜明け前に少女リナ・ベルを毒殺した。


 少女はまだ生きている。

 薬師はまだ捕まっていない。

 事件はまだ起きていない。


 けれど、毒の匂いだけは、もう少女の手元にある。


「主任」


「何だ」


「待合室の少女を保護してください。薬師マルクにも連絡を。逮捕ではなく、所在確認で」


「命令するな、見習い」


「命令ではありません。提案です」


「責任は?」


 その言葉に、舌が止まった。


 責任。

 嫌な言葉だ。

 紙の上では軽いのに、人の口から出るとやけに重い。


「僕が判断することでは――」


 言いかけて、ニナの顔が目に入った。


 彼女は、僕が最後まで聞くと言ったから話した。

 なら、ここで引けば、彼女の証言はまた床に落ちる。


 僕は息を吸った。


「……僕の提案として、記録してください」


 バルト主任が、意外そうに目を開いた。


「分かった。ニナ、下に使いを出せ。少女を別室へ。母親も一緒だ。怖がらせるな」


「は、はい」


「それとマルク・レインの薬房へ巡回兵を。拘束はするな。話を聞くまで犯人扱いするなと伝えろ」


 主任はそこで僕を見た。


「これでいいか、見習い」


「はい。できれば僕の名前は小さめに記録していただけると」


「大きく書いてやる」


「それは困ります」


 ほんの少しだけ、ニナが笑った。


 その笑いが消えないうちに、僕たちは下の待合室へ向かった。


 待合室は保管所の一階にある。

 石造りの壁に長椅子が三つ。契約書を抱えた商人、相続の証明を待つ老人、顔色の悪い兵士。王都の保管所には、人生の面倒な部分だけが集まってくる。


 その端に、小さな女の子が座っていた。


 薄茶色の髪を二つに結び、膝の上に布袋を抱えている。年は十か十一くらいだろう。足が床に届いていない。隣には母親らしい女性が座り、娘の肩を抱いていた。


 少女は蜂蜜湯の杯を両手で持っていた。

 けれど飲んではいない。


 僕たちが近づくと、母親が顔を上げた。


「何か、あったんですか」


 バルト主任が口を開きかけた。

 しかし、何をどう言うべきか迷ったようだった。


 あなたの娘さんは記録上では毒殺されています。

 そんな説明を初対面の母親に投げるのは、さすがに人としてよくない。記録官としてもよくない。たぶん。


 僕は主任の半歩後ろから声をかけた。


「リナさん、ですね」


 少女がこちらを見る。


 大きな目だった。

 怯えているけれど、こちらの言葉を聞こうとしている目。


「僕はリュカ。記録を調べる仕事をしています」


「……私、悪いことをしたんですか」


 母親の手が、少女の肩に強く触れた。


 僕は首を振った。


「していません」


 即答した。

 こういう時だけは、迷わない方がいい。


 リナは少しだけ瞬きをした。


「本当に?」


「はい。少なくとも、僕が見た記録には、あなたが悪いことをしたとは書かれていません」


「じゃあ、マルク先生が悪いことをしたんですか」


 マルク先生。


 呼び方だけで、少し分かることがある。


 犯人と呼ぶ人間。

 薬師と呼ぶ人間。

 先生と呼ぶ子供。


 この三つは同じ人物を指していても、同じ意味ではない。


「マルク先生は、どんな人ですか」


 僕が尋ねると、バルト主任が小さく咳をした。

 今それを聞くのか、という咳だ。


 聞く。

 この子が言えるうちに。


「苦い薬を、苦くないって嘘をつきます」


 リナは真面目な顔で言った。


 母親が慌てる。


「リナ」


「でも、あとで飴をくれます。薬を飲めたら偉いって。前にお金が足りなかった時も、いいって言ってくれました。お母さんには内緒だぞって言って」


 母親の目が赤くなった。


「先生は、そんなことを」


「私、ちゃんと覚えてる」


 リナは布袋を抱きしめた。


「今日も、先生のところへ行くつもりでした。これ、返すために」


「その袋、見せてもらってもいいですか」


 リナは一瞬、袋を抱く手に力を入れた。


 僕は手を出さなかった。


「無理に取ったりしません。あなたが持ったままでいいです。中に何が入っているか、教えてくれますか」


「乾いた花です」


「花?」


「先生が、これは薬じゃなくて匂い袋だって。眠れない時に枕元に置くといいって。でも、昨日から変な匂いがして」


 ニナが言っていた匂い。


 甘くて、嫌な匂い。


「いつ受け取りました?」


「三日前です。でも先生じゃなくて、先生の薬房にいた男の人から」


 バルト主任の表情が変わった。


「男?」


「うん。背が高くて、手袋をしていて、声が小さい人。先生は奥でお客さんと話してたから、その人が渡してくれました」


「名前は?」


 主任の声が強くなった。


 リナの肩が跳ねた。


 僕は主任を見る。

 主任はすぐに口を閉じた。無能ではない。怖がらせたと気づける人だ。


「覚えていなければ、それで大丈夫です」


 僕はリナに言った。


「でも、見たことを教えてくれて助かりました」


「助かった?」


「はい。とても」


「私、何かできた?」


「できました」


 リナは初めて、ほんの少し表情を緩めた。


 その瞬間、布袋の口がわずかに開いた。


 甘い匂いがした。


 花の匂いというには重く、薬の匂いというには柔らかい。

 喉の奥にまとわりつくような甘さ。


 僕は息を止めた。


 リナの唇の色が、少し薄い。

 蜂蜜湯を飲んでいないのは、ただ怖いからではないかもしれない。


「主任。袋を封じてください。素手では触らないで」


「分かっている」


 バルト主任は近くの職員に布と封箱を持ってこさせた。


 リナは不安そうに袋を見つめる。


「これ、返さなきゃ」


「今は返さなくていいです」


「でも、先生のものだから」


「マルク先生が大事な人なら、なおさらです」


 僕はできるだけ穏やかに言った。


「大事な人を、間違った形で記録させないために、少しだけ預からせてください」


 リナは母親を見た。


 母親が震えながら頷く。


 リナは袋を封箱の中へ置いた。

 その手は小さかった。


 こんな小さな手が、誰かの罪を決める証言を持っている。

 大人たちはそれを忘れる。

 紙に書かれた名前の方が、人の声より重く見えるから。


 僕はそれが嫌いだった。


 嫌い、という言葉を仕事に持ち込むのはよくない。

 けれど、嫌いなものくらい持っていないと、記録官なんてやっていられない。


 その時、保管所の入口がざわめいた。


 外套を着た女性が入ってきた。


 黒に近い青の外套。

 長い銀灰色の髪を後ろで束ね、腰には細身の剣。歩く音に迷いがなく、周囲の視線を自然に集める人だった。


 けれど彼女は、まず記録紙でもバルト主任でもなく、リナを見た。


「あなたがリナ・ベル?」


 声は冷静だった。

 冷たい、とは違う。余計な熱がないだけだ。


 リナが母親の袖を掴む。


 女性は一歩手前で止まった。

 近づきすぎれば怯えさせると分かっている距離だった。


「私はセリア・フォール。王都監察官です。あなたを責めに来たのではありません」


「監察官……」


「怖い名前ですよね。私もそう思います」


 リナが少しだけ目を丸くした。


 セリアは表情を大きく変えなかったが、声をほんの少し柔らかくした。


「あなたが今することは一つだけです。具合が悪くなったら、我慢せずに言うこと。大人の顔色を見なくていい。分かりましたか」


 リナは小さく頷いた。


「よろしい」


 セリアは母親にも視線を向けた。


「別室で保護します。付き添いは可能です。水と食事はこちらで用意しますが、口にする前に確認を取ります」


「娘は、助かるんですか」


「助けるために来ました」


 断言だった。


 できるかどうかではなく、する。

 そういう言い方だった。


 母親は唇を噛み、何度も頷いた。


 セリアはそこで初めて、バルト主任を見た。


「記録は?」


「二階です。受理印つき。俺は押していない」


「あなたが押していないなら、その証明も必要になります」


「分かっている。保管所内の搬入記録、鍵の使用記録、全て出す」


「助かります」


 短いやり取りだった。

 けれど、互いに相手を無能扱いしていないことは分かった。


 セリアの視線が僕に向く。


「あなたがリュカ・エルム?」


「はい。地方記録官見習いです。正式な判断権はありません」


「聞いていません」


「……はい」


 まずい。

 この人はたぶん、僕の嫌な癖を一呼吸で見抜く種類の人だ。


「リナの袋に気づいたのは?」


「ニナさんです。僕は話を聞いただけです」


「その話を最後まで聞いたのは?」


「……僕です」


「なら、その功績は受け取りなさい。責任とは別です」


 言葉が喉に引っかかった。


 責任とは別。

 そんなふうに分けられるのか。


 セリアは封箱を確認し、リナの母親に別室への移動を促した。

 それから僕たちは二階の記録室へ戻った。


 机の上の罪状記録は、さっきよりも重く見えた。


 リナの顔を見た後では、紙の上の「毒殺した」という文字が、ただの文字ではなくなる。


 セリアは記録紙を手袋越しに持ち上げた。


「本文は整いすぎていますね」


 僕は思わず顔を上げた。


「同じことを?」


「ええ。整いすぎた記録は、たいてい人間を隠しています」


 セリアは証言欄に目を落とした。


「第一証言者の空欄。行末の筆圧。受理印の傾き。あなたが見た?」


「はい」


「妥当です」


 褒められた、のだろうか。

 監察官に妥当と言われるのは、普通の人に偉いと言われるより胃に悪い。


「ただし」


 来た。


「あなたは結論の手前で逃げる癖がある」


 部屋の空気が、一瞬止まった。


 バルト主任が微妙な顔をした。

 ニナは目を伏せた。


 僕は笑おうとして、失敗した。


「僕は、見ていないことを見たとは言えません」


「ええ。それは正しい」


 セリアは記録紙を机に置いた。


「けれど、見えていることまで“判断できない”と言って退けるなら、それは慎重さではなく放棄です」


 頭ごなしではなかった。

 責めるというより、分類しているような言い方だった。


 だから余計に、逃げ場がない。


「……覚えておきます」


「覚えているだけでは足りません。使いなさい」


 厳しい。

 けれど、不思議と腹は立たなかった。


 セリアはバルト主任へ向き直る。


「少女リナ・ベルは別室で保護。匂い袋は封印。薬師マルク・レインには同行要請を出します。拘束ではありません」


「罪状記録は受理済みだぞ」


「だからこそです。記録上は犯人でも、現実にはまだ誰も死んでいない」


 まだ。


 その言葉が、部屋の隅に落ちた。


「マルク・レインの評判は?」


 セリアが尋ねる。


 バルト主任は職員から受け取った簡易台帳を開いた。


「薬師としては堅実。貧民街の診療もしている。薬代の未払いが多いが、訴えは出していない。過去の罪状記録はなし」


「恨みを買う可能性は?」


「安く診る薬師は、同業者からは嫌われる」


「被害者との関係は?」


 僕はリナの言葉を思い出した。


「リナは、マルクを先生と呼んでいました。苦い薬を苦くないと嘘をつくけど、あとで飴をくれる人だと」


 セリアの目が一瞬だけ細くなった。


「悪人に見えない、という証言ですね」


「はい。ただ、僕が判断することでは」


「エルム」


「……悪人に見えない証言です」


「よろしい」


 よろしいらしい。


 僕は胸の奥で小さく息を吐いた。


 セリアは記録紙の本文を見下ろした。


「毒殺の時刻は“夜明け前”。現在は昼過ぎ。つまり、この記録が示す時刻は次の夜明け前と見るべきです」


「前日の夜明け前という可能性は?」


「少女は生きています」


「はい」


「記録が現実を間違えたのか、現実が記録に追いつこうとしているのか。現時点では分かりません」


 現実が記録に追いつく。


 嫌な表現だった。

 まるで紙に書かれた死に、リナの命が引っ張られているみたいだ。


「この記録は予告状でしょうか」


 ニナが小さく言った。


 セリアは彼女を見た。

 怒らなかった。


「その可能性もあります。ただ、予告状なら受理印はいらない。正式記録にする必要もない」


「じゃあ、どうして」


「それを調べます」


 セリアは言い切った。


 バルト主任が壁の時計を見た。

 針は午後二時を少し過ぎている。


「夜明けは五時半前後だ」


 主任の声が低くなる。


「あと十七時間ほどか」


 十七時間。


 長いようで、短い。

 記録一枚の正体を暴き、少女を守り、薬師を犯人にしないためには、短すぎる。


 セリアは記録紙を封筒に収めた。


「マルク・レインを探します。リナの袋を渡した男も。エルム、あなたも同行しなさい」


「僕が?」


「あなたは余白を読む。今はそれが必要です」


「正式な捜査権は」


「私が許可します」


「責任は」


 言いかけて、セリアの視線に止められた。


 その目は冷たくはなかった。

 ただ、逃げ道を塞ぐのがうまい。


「責任を全て背負えとは言っていません」


 セリアは静かに言った。


「見えているものから目を逸らすな、と言っています」


 僕は記録紙の入った封筒を見た。


 少女はまだ生きている。

 薬師はまだ誰も殺していない。

 事件はまだ起きていない。


 けれど記録上では、罪はすでに成立している。


 夜明け前まで、あと十七時間。


 紙の上で終わった殺人を、現実で起こさせないための時間は、それだけだった。

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