第十章 見つけただけの少女
「エルム。あなたはこの記録を、誰が処理したと見ますか」
セリアの問いは、静かだった。
夜明け前まで、あと二時間半。
保管所の記録室には、紙の匂いと、誰も息をしきれていないような重さが満ちていた。
机の上には搬入記録。
存在しない束番号、一三五。
処理者欄には、ニナ・ラスクの名前。
その文字を見ていると、紙の上から小さな手が伸びて、彼女の襟首を掴んでいるように見えた。
「リュカさん」
ニナが僕を見る。
彼女はまだ泣いていなかった。
泣きそうではあった。けれど、必死に言葉を保っている。
「私は、見つけただけです」
僕は知っている。
処理者欄の筆跡は、ニナ本人の癖と違う。
最後の払いが違う。線の止め方も違う。
以前彼女が語った細部も、仕掛けた側の説明としては不自然だった。
紙の向き。湿った端。冷たさ。甘い匂い。待合室のリナの袋。
あれは用意された証言ではない。
見たものを、怖がりながら差し出した言葉だった。
存在しない束番号一三五だって、ニナ一人で作れるものではない。
押印記録。鍵管理。搬入札。未整理箱。保管所の管理全体に関わる。
だから言えばいい。
ニナさんが処理したとは考えにくい。
誰かが彼女の名前を使った可能性が高い。
保管所内部の記録管理が破られています。
そう言えばいい。
でも、その先に見えるものがあった。
バルト主任の顔。
怒鳴っているようで、怖がっていた顔。
ここが壊れたら、誰の証言も守れなくなる。
主任の管理責任。
鍵管理の破綻。
受理印制度への疑い。
保管所全体への不信。
言葉一つで、責任は広がる。
広がった責任は、誰かを潰す。
「エルム」
セリアがもう一度呼んだ。
逃げ道のない声だった。
僕は帳簿を見た。
ニナの名前を見た。
彼女の顔を見た。
そして、逃げた。
「ニナさんが単独で処理したとは、断定できません」
ニナの目に、一瞬だけ光が戻った。
でも、僕はそこで止まらなかった。
「ただし、記録上は彼女の名前がある以上、確認は必要です」
その光が、消えた。
部屋の空気が動いた気がした。
誰かが息を呑んだのかもしれない。
バルト主任が目を伏せた。
セリアは、僕を見ていた。
ニナは小さく首を振った。
「違います」
声は震えていた。
でも、消えてはいなかった。
「私は処理してません。一三五なんて知りません。私は、第三棚の未整理箱から、あの紙を見つけただけです」
「ニナ」
主任が低く言う。
「落ち着け」
「落ち着けません!」
ニナが初めて声を荒げた。
その細い声は、怒鳴り慣れていない人間の声だった。
だから余計に痛かった。
「私、言いました。紙の向きが逆だったって。端が湿っていたって。冷たかったって。リュカさん、聞いてくれたじゃないですか」
彼女は僕を見た。
「あの時のこと、覚えていますよね?」
覚えている。
忘れられるわけがない。
「私は、本当に処理していません。見つけただけなんです」
言葉が、床に落ちる。
僕は拾えなかった。
セリアが静かに言った。
「ニナ・ラスク。あなたを犯人と断定してはいません」
「でも、疑ってるんですよね」
「証拠上、確認は避けられません」
「私の名前があるから?」
「はい」
「私が書いてないのに?」
「その可能性も確かめます」
「なら、今言ってください。私は書いてないって」
ニナの声が震える。
「リュカさんが、字が違うって言ってくれたじゃないですか。私の“ク”じゃないって。そうですよね?」
僕は口を開いた。
言える。
筆跡は違う。
彼女の証言は仕掛けた側らしくない。
ニナを最有力にするのは早い。
言える。
でも、舌が重かった。
「筆跡には、違いがあります」
僕は言った。
「ただ……偽装か、本人の動揺による乱れかは、現時点では」
ニナの顔が、白くなった。
自分の声が遠く聞こえた。
これは慎重さだ。
間違った断定を避けているだけだ。
誰かを守るために、手順を守っているだけだ。
そう言い聞かせようとして、できなかった。
僕は手順を守っているのではない。
自分が責任の起点になるのを避けている。
セリアが目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
それから、彼女は職員へ向き直った。
「ニナ・ラスクを隔離聴取に移します」
ニナが震えた。
「隔離……」
「拘束ではありません。保護名目です」
セリアの声は硬かった。
「聴取には女性職員を同席させます。暴言、威圧、長時間の連続聴取は禁止。休憩と食事を保証してください。彼女を犯人として扱わないこと」
「しかし、フォール監察官」
職員の一人が戸惑う。
「内部協力者の可能性が」
「可能性です」
セリアの声が鋭くなる。
「可能性を理由に、見習い職員を罪人として扱うことは許可しません」
その場の全員が黙った。
セリアはニナを見る。
「あなたの話は聞きます。ですが、記録上あなたの名前が使われている以上、あなた自身も危険です。外に出すわけにはいきません」
「危険……?」
「あなたに罪を着せようとしている者がいるなら、次に何をするか分かりません」
ニナの唇が震えた。
「私は、見つけただけなのに」
「分かっています」
「本当に?」
セリアは即答しなかった。
嘘をつかない人の沈黙だった。
「分かろうとしています」
ニナは笑わなかった。
その答えが誠実であるほど、今の彼女には救いにならない。
職員が近づく。
ニナは帳簿から手を離した。
まるで自分の名前が書かれた紙に触れていると、そのまま吸い込まれるとでも思っているようだった。
彼女は僕を見た。
僕は、また何も言えなかった。
ニナが連れていかれる。
扉が閉まる音がした。
その音は、紙を閉じる音に似ていた。
記録室に残ったのは、僕とセリア、バルト主任、そして机の上の帳簿だった。
バルト主任は、顔を両手で覆った。
「くそ……」
誰に向けた言葉でもなかった。
セリアは僕を見た。
今度は、待たなかった。
「あなたはニナを疑ったのではありません。守らなかったのです」
声は大きくなかった。
怒鳴られるより、ずっと痛かった。
「見えていたことを言わなかった。筆跡の違いも、彼女の証言の不自然さも、束番号が一人で作れるものではないことも」
「僕は……断定できないことを」
「慎重さではありません」
セリアが遮った。
「放棄です」
以前言われた言葉が、戻ってきた。
見えていることまで“判断ではない”と言って退けるなら、それは慎重さではなく放棄です。
あの時は、まだ刺さっただけだった。
今は、刺さった先から血が出ている。
「以前の報告も同じです」
セリアは続ける。
「主任が押したとは断定できない。記録上は主任の管理下。あなたはそう言った。間違いではありません。けれど、足りなかった」
僕は反論できなかった。
「その不足が、今、ニナに向きました。責任の大きな場所を避けた結果、いちばん弱い場所へ疑いが落ちた」
バルト主任が顔を上げた。
「フォール監察官、俺の管理責任は」
「あります」
セリアは即答した。
「ですが、それとニナの証言は別です」
彼女は僕を見る。
「功績と責任を分けるように、証言と責任も分けて扱うべきでした。彼女の証言が信頼できるかどうかと、保管所の管理責任は別の問題です」
僕の胸が詰まった。
以前、彼女は言った。
功績は受け取りなさい。責任とは別です。
あの時、僕は少し救われた。
でも、今はその言葉を使えなかった。
「あなたは誰かを守るために黙ったのではありません」
セリアの声は、少しだけ低くなった。
「自分が責任を負わないために黙った」
その言葉は、正しかった。
正しすぎて、逃げ場がなかった。
僕は主任を追い詰めたくなかった。
保管所全体を壊したくなかった。
記録が崩れれば、弱い証言が守られなくなると思った。
それは嘘ではない。
でも、その奥にあったのは、もっと小さい恐怖だった。
自分の言葉が、大きな責任を生むのが怖かった。
自分が起点になるのが怖かった。
誰かに「お前の判断でこうなった」と言われるのが怖かった。
その結果、ニナが傷ついた。
僕は悪意で彼女を売ったわけではない。
でも、悪意がなければ傷つけていないことになるわけでもない。
「……怖かったんです」
僕はようやく言った。
声は小さかった。
「保管所全体の管理が壊れていると言えば、主任も、職員も、全部巻き込む。誰の証言も守れなくなるかもしれない。だから」
「だから、ニナ一人に疑いが落ちる余地を残した」
セリアは言った。
僕は頷けなかった。
頷けば、本当にそうだと認めることになる。
けれど、頷かなくても、もう分かっていた。
セリアは息を吐いた。
怒りを抑えるための息ではなく、自分の感情を手続きへ戻すための息に見えた。
「エルム。あなたの観察は必要です」
その言葉は意外だった。
「ですが、観察だけでは人は守れません。言葉にしなければ、記録には残らない」
僕は帳簿を見た。
ニナ・ラスク。
彼女の名前が、そこにある。
彼女が書いていないかもしれない文字で。
「……分かっています」
「今はまだ、分かっていません」
セリアは厳しく言った。
「分かったなら、次に何を言うべきか考えなさい」
その時、廊下から小さな声が聞こえた。
「リュカさん」
ニナだった。
隔離室へ向かう途中で、職員に付き添われている。
扉の隙間から、彼女の顔が見えた。
セリアは職員を制した。
ニナは僕を見ていた。
涙はこぼれていなかった。
でも、目の奥にあった信頼は、もう形を変えていた。
「最後まで聞くって、言ったのに」
僕は何も言えなかった。
彼女は連れていかれた。
扉が閉まる。
僕の沈黙だけが、記録室に残った。




