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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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11/22

第十一章 聞かなかった言葉

 最後まで聞くって、言ったのに。


 扉が閉まってからも、ニナの声は記録室に残っていた。


 紙の匂い。

 インクの黒。

 存在しない束番号、一三五。

 処理者欄に書かれた、ニナ・ラスクの名前。


 全部が目の前にあるのに、僕が見ていたのは、扉の向こうへ消えた彼女の顔だった。


 泣いてはいなかった。

 けれど、泣くよりずっと痛い顔をしていた。


 信じていたものが、紙より軽かったと知った顔。


「エルム」


 セリアの声で、僕は顔を上げた。


 彼女は机の向こうに立っていた。

 いつも通り背筋はまっすぐで、表情は冷静だ。


 ただ、今はその冷静さが遠かった。


「ニナさんに」


 僕は言いかけた。


「会わせてください」


「できません」


 即答だった。


「一言だけでも」


「できません」


「謝るだけです」


 セリアの目が、少しだけ冷たくなった。


「今あなたが謝れば、彼女はあなたのために証言を変えるかもしれません」


 言葉が止まった。


「彼女はあなたを信頼していました。その信頼を利用して、あなたが楽になるための言葉を引き出す可能性がある」


「そんなつもりは」


「つもりの問題ではありません」


 セリアの声は荒くない。

 だから逃げ場がない。


「謝罪は、あなたが楽になるための道具ではありません」


 胸の奥が詰まった。


 謝りたい。

 それは本当だ。


 でも、今の僕が謝りたいのは、ニナのためだけか。


 彼女に「いいです」と言ってもらえれば、自分の胸の重さが少し軽くなる。

 そんな期待が、どこかにないと言い切れるか。


 言い切れなかった。


 セリアは記録室の扉へ視線を向けた。


「彼女は隔離聴取中です。拘束ではありません。保護名目です」


「……扱いは」


「女性職員が同席しています。暴言、威圧は禁止。休憩と食事も保証しています。あなたが心配しているような扱いはさせません」


 それでも、ニナは一人だ。


 名前を使われた紙と、自分の言葉の間に挟まれている。


「彼女は、まだ自分の主張を続けています」


 セリアが言った。


「“私は見つけただけです”と」


 僕は目を閉じた。


 その言葉を、僕は守らなかった。


「エルム」


「はい」


「本筋を止めないでください」


 冷たい言い方だった。


 でも、正しい。


 リナはまだ死んでいない。

 まだ、という言葉がずっとつきまとう。


 夜明け前まで、あと二時間。


 僕が落ち込んでいる間にも、紙の上の毒殺は現実へ近づいている。


「あなたの観察力は必要です」


 セリアは言った。


「ですが、私は今、あなたの判断を信用していません」


 そこまで言われて、僕はようやく息を吸った。


「分かっています」


「分かっているなら、書き出しなさい」


「何を」


「あなたが見たこと。言ったこと。言わなかったこと」


 彼女は机の端に置かれた僕の手帳を指さした。


「頭の中で曖昧に扱うから、曖昧な言葉になります」


 反論はなかった。


 僕は手帳を開いた。


 指先が少し震えていた。

 それが寒さのせいではないことは、自分でも分かっていた。


 最初の行に、こう書いた。


 見たこと。


 処理者欄の筆跡はニナ本人と違う。

 “ク”の払いが違う。線の止め方も違う。


 ニナが最初に語った発見時の証言は、仕掛けた側のものに見えない。

 紙の向き。湿った端。冷たさ。甘い匂い。リナの袋。


 一三五番は、ニナ一人で作れるものではない。

 押印記録、鍵管理、搬入札、未整理箱。複数の記録が絡む。


 書いているうちに、胸の中が少しずつ形を持っていく。


 次の行。


 言ったこと。


 ニナさんが単独で処理したとは断定できない。

 記録上は彼女の名前がある以上、確認は必要。

 筆跡には違いがある。ただし本人の動揺による乱れかもしれない。


 そこで、ペンが止まった。


 どれも嘘ではない。


 嘘ではないのに、何かを隠している。


 次の行。


 言わなかったこと。


 誰かがニナの名前を使った可能性が高い。

 ニナの証言は信用できる部分が多い。

 存在しない束番号は、保管所内の記録が上書きまたは偽装された可能性を示している。

 受理印と鍵管理の矛盾も、主任個人ではなく管理記録全体の異常として扱うべきだった。


 そこまで書いて、僕は手帳を閉じかけた。


 けれど、閉じられなかった。


 もう一行、書くべき言葉があった。


 僕は、自分が責任を負わないために黙った。


 その文字は、他の文字より少し歪んでいた。


「書けましたか」


 セリアが尋ねた。


「はい」


「読ませる必要はありません。今は」


 今は。


 その言葉の先には、いずれ読ませろという意味がある気がした。


 セリアは扉へ向かった。


「リナの状態を確かめます」


「僕も」


「来てください。質問は、私が許可した時だけ」


「はい」


 以前なら、その言い方に少しだけ反発したかもしれない。

 今は、反発する資格があると思えなかった。


 保護室へ向かう廊下で、隔離室の前を通った。


 扉は閉まっている。

 前には女性職員が一人立っていた。


 中から、かすかな声が聞こえた。


「私は、見つけただけです」


 ニナの声だった。


 僕は立ち止まりかけた。


 セリアが止まらずに言う。


「歩いてください」


 僕は歩いた。


 逃げているのではない。

 そう言いたかった。


 でも、今はどちらでも同じだった。


 リナの保護室に入ると、甘い匂いが薄く残っていた。


 蜂蜜湯の重い甘さではない。

 髪紐の軽く鼻を刺す甘さでもない。

 それらが封じられた後に残る、嫌な余韻のような匂いだった。


 リナは寝台に横になっていた。

 母親がそばについている。

 マルクは医師と一緒に、封じられた髪紐と蜂蜜湯の記録を確認していた。


「状態は?」


 セリアが問う。


 医師が答える。


「呼吸は一時より安定しています。ただ、体力が落ちています。眠気を抑えるために無理をさせていますから」


「眠らせるわけにはいかない?」


「今は危険です」


 マルクが低く言った。


「眠りが深くなれば、呼吸がさらに弱くなる可能性があります」


 リナは僕たちの方を見た。


「リュカさん」


 名前を呼ばれて、胸が痛んだ。


「はい」


「ニナさん、大丈夫?」


 その質問は、予想していなかった。


 僕はすぐに答えられなかった。


 リナは目をこすろうとして、母親に止められる。


「さっき、廊下で声がした。泣いてた?」


 セリアが一歩前に出る。


「ニナは話を聞かれています。ひどい扱いはさせません」


「悪いことしたの?」


「まだ分かりません」


 セリアは嘘をつかなかった。


 リナは不安そうに眉を寄せる。


「でも、ニナさん、私の袋のこと教えてくれた」


「ええ」


 セリアが頷く。


「だから、彼女の言葉も確かめます」


 僕は何も言えなかった。


 リナでさえ、覚えている。

 ニナが何をしてくれたかを。


 僕は覚えていたのに、言わなかった。


 マルクが封箱を閉じた。


「蜂蜜湯と髪紐の分析は続けます。髪紐の成分は、私の薬房にあるものだけでは説明できません」


 セリアの目が動く。


「薬房外の成分?」


「その可能性があります。ただ、断言には照合が必要です」


 断言。


 その言葉に、僕の手帳の文字が浮かぶ。


 見たこと。

 言ったこと。

 言わなかったこと。


 セリアが僕を見る。


「聞きましたか」


「はい」


「今のは、あなたが記録してください。マルク・レインの専門的所見として」


「……はい」


 僕は手帳を開く。


 マルク・レイン所見。

 髪紐の成分は、薬房内成分のみでは説明困難。

 薬房外成分の可能性あり。

 断定には照合が必要。


 僕は一度ペンを止めた。


 そして、追加した。


 ただし、薬房内の単独調合による毒とは見えにくい。


 書いてから、セリアを見た。


 彼女は何も言わなかった。

 認めるでも、褒めるでもない。


 ただ、視線を外さなかった。


 それで十分だった。


 リナが小さく咳をした。


 母親がすぐに背を支える。

 マルクが動き、医師が脈を見る。


 ほんの短い咳だった。

 でも、部屋の全員が身構えた。


 リナは苦しそうに息を吸う。


「ねむい」


 母親の手が震えた。


「少しだけでも、寝かせてあげられませんか」


 医師は答えに詰まる。


 マルクの顔が苦くなる。


「眠らせる薬は使えません。今は、眠りそのものが危険です」


「そんな……」


 リナは泣きそうな顔で目を閉じかけた。


 セリアが寝台の横に膝をつく。


「リナ」


「……はい」


「目を閉じたくなったら、私の声を聞きなさい」


「セリアさん、ずっと話すの?」


「必要なら」


「何を?」


 セリアは一瞬だけ止まった。


 たぶん、世間話が得意な人ではない。


「……王都の朝の話をします」


「楽しい?」


「人によります」


 リナが少し笑った。


「へんなの」


「よく言われます」


 僕はその横顔を見ていた。


 セリアは冷たい。

 今の僕には、特に。


 でも、リナに対しては違う。

 彼女は証言者を使い潰さない。被害者を証拠品にしない。怖い時は、怖いままそばにいる。


 それを僕は、学ばなければならない。


 医師が脈を取り直した。


 表情は険しい。


「どうですか」


 セリアが問う。


 医師は少し躊躇した。

 それから、僕たち全員に聞こえる声で言った。


「今は持ち直しています。ですが、体力は限界に近い」


 マルクが目を伏せる。


 医師は続けた。


「次に反応が起きれば、体力がもたないかもしれません」


 部屋の空気が止まった。


 夜明け前まで、あと二時間。


 ニナに謝ることも、手帳に反省を書くことも、リュカ・エルムの気持ちを整理することも。

 それらは全部、必要かもしれない。


 けれど今、紙の上の殺人は、まだリナの呼吸を狙っている。


 落ち込んでいるだけでは、誰も守れない。

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