第十一章 聞かなかった言葉
最後まで聞くって、言ったのに。
扉が閉まってからも、ニナの声は記録室に残っていた。
紙の匂い。
インクの黒。
存在しない束番号、一三五。
処理者欄に書かれた、ニナ・ラスクの名前。
全部が目の前にあるのに、僕が見ていたのは、扉の向こうへ消えた彼女の顔だった。
泣いてはいなかった。
けれど、泣くよりずっと痛い顔をしていた。
信じていたものが、紙より軽かったと知った顔。
「エルム」
セリアの声で、僕は顔を上げた。
彼女は机の向こうに立っていた。
いつも通り背筋はまっすぐで、表情は冷静だ。
ただ、今はその冷静さが遠かった。
「ニナさんに」
僕は言いかけた。
「会わせてください」
「できません」
即答だった。
「一言だけでも」
「できません」
「謝るだけです」
セリアの目が、少しだけ冷たくなった。
「今あなたが謝れば、彼女はあなたのために証言を変えるかもしれません」
言葉が止まった。
「彼女はあなたを信頼していました。その信頼を利用して、あなたが楽になるための言葉を引き出す可能性がある」
「そんなつもりは」
「つもりの問題ではありません」
セリアの声は荒くない。
だから逃げ場がない。
「謝罪は、あなたが楽になるための道具ではありません」
胸の奥が詰まった。
謝りたい。
それは本当だ。
でも、今の僕が謝りたいのは、ニナのためだけか。
彼女に「いいです」と言ってもらえれば、自分の胸の重さが少し軽くなる。
そんな期待が、どこかにないと言い切れるか。
言い切れなかった。
セリアは記録室の扉へ視線を向けた。
「彼女は隔離聴取中です。拘束ではありません。保護名目です」
「……扱いは」
「女性職員が同席しています。暴言、威圧は禁止。休憩と食事も保証しています。あなたが心配しているような扱いはさせません」
それでも、ニナは一人だ。
名前を使われた紙と、自分の言葉の間に挟まれている。
「彼女は、まだ自分の主張を続けています」
セリアが言った。
「“私は見つけただけです”と」
僕は目を閉じた。
その言葉を、僕は守らなかった。
「エルム」
「はい」
「本筋を止めないでください」
冷たい言い方だった。
でも、正しい。
リナはまだ死んでいない。
まだ、という言葉がずっとつきまとう。
夜明け前まで、あと二時間。
僕が落ち込んでいる間にも、紙の上の毒殺は現実へ近づいている。
「あなたの観察力は必要です」
セリアは言った。
「ですが、私は今、あなたの判断を信用していません」
そこまで言われて、僕はようやく息を吸った。
「分かっています」
「分かっているなら、書き出しなさい」
「何を」
「あなたが見たこと。言ったこと。言わなかったこと」
彼女は机の端に置かれた僕の手帳を指さした。
「頭の中で曖昧に扱うから、曖昧な言葉になります」
反論はなかった。
僕は手帳を開いた。
指先が少し震えていた。
それが寒さのせいではないことは、自分でも分かっていた。
最初の行に、こう書いた。
見たこと。
処理者欄の筆跡はニナ本人と違う。
“ク”の払いが違う。線の止め方も違う。
ニナが最初に語った発見時の証言は、仕掛けた側のものに見えない。
紙の向き。湿った端。冷たさ。甘い匂い。リナの袋。
一三五番は、ニナ一人で作れるものではない。
押印記録、鍵管理、搬入札、未整理箱。複数の記録が絡む。
書いているうちに、胸の中が少しずつ形を持っていく。
次の行。
言ったこと。
ニナさんが単独で処理したとは断定できない。
記録上は彼女の名前がある以上、確認は必要。
筆跡には違いがある。ただし本人の動揺による乱れかもしれない。
そこで、ペンが止まった。
どれも嘘ではない。
嘘ではないのに、何かを隠している。
次の行。
言わなかったこと。
誰かがニナの名前を使った可能性が高い。
ニナの証言は信用できる部分が多い。
存在しない束番号は、保管所内の記録が上書きまたは偽装された可能性を示している。
受理印と鍵管理の矛盾も、主任個人ではなく管理記録全体の異常として扱うべきだった。
そこまで書いて、僕は手帳を閉じかけた。
けれど、閉じられなかった。
もう一行、書くべき言葉があった。
僕は、自分が責任を負わないために黙った。
その文字は、他の文字より少し歪んでいた。
「書けましたか」
セリアが尋ねた。
「はい」
「読ませる必要はありません。今は」
今は。
その言葉の先には、いずれ読ませろという意味がある気がした。
セリアは扉へ向かった。
「リナの状態を確かめます」
「僕も」
「来てください。質問は、私が許可した時だけ」
「はい」
以前なら、その言い方に少しだけ反発したかもしれない。
今は、反発する資格があると思えなかった。
保護室へ向かう廊下で、隔離室の前を通った。
扉は閉まっている。
前には女性職員が一人立っていた。
中から、かすかな声が聞こえた。
「私は、見つけただけです」
ニナの声だった。
僕は立ち止まりかけた。
セリアが止まらずに言う。
「歩いてください」
僕は歩いた。
逃げているのではない。
そう言いたかった。
でも、今はどちらでも同じだった。
リナの保護室に入ると、甘い匂いが薄く残っていた。
蜂蜜湯の重い甘さではない。
髪紐の軽く鼻を刺す甘さでもない。
それらが封じられた後に残る、嫌な余韻のような匂いだった。
リナは寝台に横になっていた。
母親がそばについている。
マルクは医師と一緒に、封じられた髪紐と蜂蜜湯の記録を確認していた。
「状態は?」
セリアが問う。
医師が答える。
「呼吸は一時より安定しています。ただ、体力が落ちています。眠気を抑えるために無理をさせていますから」
「眠らせるわけにはいかない?」
「今は危険です」
マルクが低く言った。
「眠りが深くなれば、呼吸がさらに弱くなる可能性があります」
リナは僕たちの方を見た。
「リュカさん」
名前を呼ばれて、胸が痛んだ。
「はい」
「ニナさん、大丈夫?」
その質問は、予想していなかった。
僕はすぐに答えられなかった。
リナは目をこすろうとして、母親に止められる。
「さっき、廊下で声がした。泣いてた?」
セリアが一歩前に出る。
「ニナは話を聞かれています。ひどい扱いはさせません」
「悪いことしたの?」
「まだ分かりません」
セリアは嘘をつかなかった。
リナは不安そうに眉を寄せる。
「でも、ニナさん、私の袋のこと教えてくれた」
「ええ」
セリアが頷く。
「だから、彼女の言葉も確かめます」
僕は何も言えなかった。
リナでさえ、覚えている。
ニナが何をしてくれたかを。
僕は覚えていたのに、言わなかった。
マルクが封箱を閉じた。
「蜂蜜湯と髪紐の分析は続けます。髪紐の成分は、私の薬房にあるものだけでは説明できません」
セリアの目が動く。
「薬房外の成分?」
「その可能性があります。ただ、断言には照合が必要です」
断言。
その言葉に、僕の手帳の文字が浮かぶ。
見たこと。
言ったこと。
言わなかったこと。
セリアが僕を見る。
「聞きましたか」
「はい」
「今のは、あなたが記録してください。マルク・レインの専門的所見として」
「……はい」
僕は手帳を開く。
マルク・レイン所見。
髪紐の成分は、薬房内成分のみでは説明困難。
薬房外成分の可能性あり。
断定には照合が必要。
僕は一度ペンを止めた。
そして、追加した。
ただし、薬房内の単独調合による毒とは見えにくい。
書いてから、セリアを見た。
彼女は何も言わなかった。
認めるでも、褒めるでもない。
ただ、視線を外さなかった。
それで十分だった。
リナが小さく咳をした。
母親がすぐに背を支える。
マルクが動き、医師が脈を見る。
ほんの短い咳だった。
でも、部屋の全員が身構えた。
リナは苦しそうに息を吸う。
「ねむい」
母親の手が震えた。
「少しだけでも、寝かせてあげられませんか」
医師は答えに詰まる。
マルクの顔が苦くなる。
「眠らせる薬は使えません。今は、眠りそのものが危険です」
「そんな……」
リナは泣きそうな顔で目を閉じかけた。
セリアが寝台の横に膝をつく。
「リナ」
「……はい」
「目を閉じたくなったら、私の声を聞きなさい」
「セリアさん、ずっと話すの?」
「必要なら」
「何を?」
セリアは一瞬だけ止まった。
たぶん、世間話が得意な人ではない。
「……王都の朝の話をします」
「楽しい?」
「人によります」
リナが少し笑った。
「へんなの」
「よく言われます」
僕はその横顔を見ていた。
セリアは冷たい。
今の僕には、特に。
でも、リナに対しては違う。
彼女は証言者を使い潰さない。被害者を証拠品にしない。怖い時は、怖いままそばにいる。
それを僕は、学ばなければならない。
医師が脈を取り直した。
表情は険しい。
「どうですか」
セリアが問う。
医師は少し躊躇した。
それから、僕たち全員に聞こえる声で言った。
「今は持ち直しています。ですが、体力は限界に近い」
マルクが目を伏せる。
医師は続けた。
「次に反応が起きれば、体力がもたないかもしれません」
部屋の空気が止まった。
夜明け前まで、あと二時間。
ニナに謝ることも、手帳に反省を書くことも、リュカ・エルムの気持ちを整理することも。
それらは全部、必要かもしれない。
けれど今、紙の上の殺人は、まだリナの呼吸を狙っている。
落ち込んでいるだけでは、誰も守れない。




