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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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12/20

第十二章 消えた経路

 厨房記録、廊下通過記録、保護室入室記録、配膳控え。


 四冊の帳簿が、保管所の小会議室の机に並べられていた。


 夜明け前まで、あと一時間半。


 もう時間は、砂時計の砂ではなく、喉元に当てられた刃に近かった。


「厨房から出た蜂蜜湯は、全部で六杯です」


 女性職員が読み上げる。


「一杯目、相続手続きの待合室。二杯目、夜勤明けの巡回兵。三杯目、保護室前の医師。四杯目、記録室の主任。五杯目、別室待機中の母子。六杯目、廊下待機の職員」


 バルト主任が眉を寄せた。


「リナの保護室に出した記録はないな」


「はい。厨房記録上はありません」


 机の上には、以前見つかった蜂蜜湯の封箱も置かれている。

 あれは確かに保護室へ入った。

 リナが飲まなかったから助かった。だが、杯そのものは存在した。


 記録にはない。

 でも、現実にはあった。


 僕は配膳控えを見た。


「配膳控えも六杯ですね」


「数は合っています」


 セリアが言った。


 声はいつも通り冷静だった。

 けれど、僕に向けられる温度はまだ低い。


 必要な指示は出す。

 観察力は使わせる。

 それ以上はない。


 それでいい。

 今の僕には、それ以上を求める資格がない。


「廊下通過記録は?」


 セリアが問う。


 別の職員が帳簿をめくる。


「厨房前通過、午後七時十二分。配膳台一台、担当サラ。北廊下へ。七時十四分、第二待合室前通過。七時十七分、記録室前通過。七時二十分、厨房へ戻り」


「保護室前は?」


「記録なしです」


 バルト主任が机を指で叩いた。


「つまり、蜂蜜湯は保護室へ入っていないことになる」


「記録上は」


 僕は言った。


 その口癖が出た瞬間、胸の奥が冷えた。


 記録上は。


 便利な逃げ道。

 以前、ニナを傷つけた言葉の親戚。


 セリアが僕を見た。


「続けてください」


 責めなかった。

 だが、許したわけでもない。


 僕は息を吸い直し、帳簿へ視線を戻した。


「厨房から出た杯数は合っています。配膳控えも合っている。廊下通過記録も、一見おかしくありません」


「一見?」


「はい」


 僕は廊下通過記録と保護室入室記録を並べた。


「保護室前の通過記録はない。でも、この時間帯に別の部屋への配膳記録が重なっています」


 セリアの目が細くなる。


「どの部屋ですか」


「第二待合室です。七時十四分に通過。七時十五分に蜂蜜湯一杯を届けた記録がある」


「第二待合室には誰が?」


 職員が別帳簿を確認する。


「その時刻、第二待合室は空です。午後六時五十分に最後の利用者が退室しています」


 室内が静かになった。


 空の部屋へ蜂蜜湯を届けた記録。


 数は合っている。

 配膳もある。

 廊下も通っている。


 でも、届け先が違う。


「記録が消されたのではなく」


 僕は言いながら、慎重に言葉を選んだ。


 慎重に。

 ただし、薄めないように。


「別の記録で覆われています」


 セリアが視線だけで続きを促す。


「蜂蜜湯を保護室へ運んだ記録そのものはありません。でも、同じ時刻に空の第二待合室へ運んだ正しい形式の記録がある。杯数も、配膳台の移動も、戻り時刻も合っている」


 僕は手帳を開いた。


 以前書いた三つの欄が、まだ残っている。


 見たこと。

 言ったこと。

 言わなかったこと。


 僕はその下に、新しい行を書き足した。


 見たこと:消失ではなく上書き。


「犯人は記録を消しているのではありません。別の正しい記録を重ねて、異常を目立たなくしている」


 言った。


 言えた。


 もちろん、これで何かが許されるわけではない。

 ニナはまだ隔離されている。

 僕の言葉で傷ついた事実は消えない。


 それでも、今は言うべきことを言うしかない。


 セリアは少しだけ頷いた。


「仮説として記録しなさい」


「はい」


「今度は曖昧にしないでください」


「……はい」


「仮説なら仮説として。事実なら事実として。見えていることを薄めないでください」


 厳しい声だった。


 でも、その厳しさは今の僕に必要だった。


 僕は手帳に書く。


 仮説:犯人は記録を削除せず、別の正規形式の記録を上書きして異常を隠している。


 バルト主任が帳簿を覗き込む。


「だが、第二待合室に届けた記録自体は正しい形式だ。担当印もある」


「担当者は?」


 セリアが問う。


 職員が読み上げる。


「配膳担当、サラ・ミント。厨房見習いです」


「呼べますか」


「今は厨房で待機中です。ただ……」


「ただ?」


「彼女は七時十分から七時二十五分まで、厨房の洗い場にいたと、料理長が証言しています」


 まただ。


 記録上は配膳に出ている。

 現実の証言では厨房にいる。


 ニナと同じ構図。


 処理者欄に名前がある。

 本人は覚えていない。

 あるいは、物理的にできない。


「サラは見習いですか」


 僕が聞く。


「はい。十五歳。厨房に入って三か月です」


 セリアの表情がわずかに硬くなった。


 弱い立場の職員名。


 ニナ。

 そして、サラ。


 責任は下へ落ちる。


 それに気づいた瞬間、喉の奥が苦くなった。


 以前セリアが言った。


 責任の大きな場所を避けた結果、いちばん弱い場所へ疑いが落ちた。


 犯人も、同じことをしている。


 いや、もっと意図的に。


「エルム」


 セリアが呼ぶ。


「はい」


「あなたは今、何を見ていますか」


 前なら、僕は逃げたかもしれない。

 今も、逃げたい。


 でも、手帳にはもう書いてある。


 見たことを薄めない。


「弱い立場の職員名が使われています」


 僕は言った。


「ニナさんに続いて、サラさんも。どちらも見習いで、記録や配膳の末端作業に触れる。疑いを向けやすい。でも、単独では記録全体を動かせない」


 バルト主任が苦い顔をする。


「つまり、内部の誰かが見習いの名前を使っていると?」


「仮説です」


 僕は一度そう言い、すぐに付け加えた。


「ですが、現時点で最も整合します。ニナさん単独、サラさん単独より、上位の記録に触れる者が名前を利用している可能性が高い」


 セリアは僕を見た。


 冷たい視線ではなかった。

 だが、温かくもない。


「その形で記録してください」


「はい」


 認められた。


 捜査上の評価。

 それだけだ。


 それでも、少しだけ息ができた。


 女性職員が別の帳簿を持ってきた。


「フォール監察官。蜂蜜湯の上書き時刻ですが、一三五番の処理時刻と近いです」


「時刻を」


「一三五番の処理時刻は午前七時五十六分。蜂蜜湯の第二待合室配膳記録は午後七時十五分です」


 バルト主任が眉を寄せる。


「半日違うぞ」


「時刻だけでは離れています」


 僕は二つの帳簿を見比べた。


「でも、処理の位置が似ています」


「位置?」


「どちらも、本来の流れに一つ余分な記録を差し込んでいる。一三五番は存在しない搬入束。第二待合室の配膳は存在しない配膳先。どちらも全体の数は合っているように見せている」


 セリアが言った。


「手口が同じ」


「はい。時刻より、構造が近いです」


 主任は低く唸った。


「消すより厄介だな」


「はい」


 僕は頷いた。


「消された記録は、穴として目立ちます。でも正しい形の記録が重なっていると、帳尻が合って見える」


「だから、発見が遅れる」


 セリアが言った。


「そして疑いは、記録に名前を書かれた末端職員へ落ちる」


 室内の空気が重くなった。


 ニナの声が頭に戻る。


 私は見つけただけです。


 サラという見習いも、同じことを言うかもしれない。


 私は運んでいません。

 私は洗い場にいました。

 私は名前を使われただけです。


 紙の上の名前は、声より重い。

 それを変えなければならない。


 変える、なんて大きなことはまだ言えない。

 でも少なくとも、今度は声を紙に負けさせてはいけない。


「サラ・ミントの聴取は私が行います」


 セリアが言った。


「威圧は禁止。厨房での所在確認を先に取ります。彼女を内部協力者として扱う前に、名前を使われた可能性を検討してください」


 職員たちが頷く。


 バルト主任が苦い顔で言った。


「見習いばかりだ」


 誰も答えなかった。


 主任は拳を握る。


「俺たちが守るべき連中の名前が、責任を落とすために使われている」


 その声には怒りがあった。


 自分を疑われる怒りではない。

 もっと別の、保管所の内側を汚されたことへの怒り。


「主任」


 僕は言った。


「サラさんの筆跡、あとで見せてください。ニナさんの時と同じように、担当欄と本人の字を比べます」


「分かった」


 主任は即答した。


 少しだけ、こちらを見る目が変わった気がした。


 信用ではない。

 でも、仕事を任せる目ではあった。


 セリアは机の上の帳簿を閉じた。


「整理します」


 彼女は短く言った。


「一つ。蜂蜜湯は保護室へ入った。二つ。その経路記録は、第二待合室への配膳記録で上書きされている可能性が高い。三つ。担当欄には見習い職員サラ・ミントの名前。四つ。同じように一三五番ではニナ・ラスクの名前が使われている」


 僕はその四点を手帳に写した。


「五つ」


 セリアが僕を見た。


「この手口は、記録を消すのではなく、別記録を重ねる」


「はい」


「六つ。弱い立場の職員へ疑いを落とす構造がある」


 僕は少しだけペンを強く握った。


「はい」


「では、次に必要なのは?」


 試されている。


 でも、以前のように突き放すだけの声ではなかった。

 捜査上、必要だから聞いている。


「上書きされた記録の担当欄を全て洗うこと。見習い職員名がどれだけ使われているか確認すること。あと、上書きが行われた記録の共通点を見ること」


「共通点とは?」


「誰が承認できる記録か。どの棚、どの鍵、どの印に接続しているか」


 セリアは頷いた。


「妥当です」


 妥当。


 久しぶりに聞いた気がした。

 それでも、胸は軽くならない。


 妥当なことを言える人間が、正しいことを言えるとは限らない。

 僕はそれを、昨日よりずっとよく知っている。


 その時、厨房記録を確認していた職員が声を上げた。


「もう一件、あります」


 全員の視線が向く。


「昨夜の薬草湯の配膳記録です。第二倉庫の夜勤者へ運んだことになっていますが、第二倉庫はその時間、閉鎖されています」


 セリアが近づく。


「担当者は?」


 職員は一瞬ためらった。


「こちらも見習いです」


 僕の胃が沈む。


「名前は」


「ルイス・バン。記録補助見習い。十六歳」


 また、見習い。


 また、弱い名前。


 章末に向かって、部屋の空気が凍っていくのが分かった。


 ニナだけではない。

 サラだけでもない。


 誰かが、保管所の弱い名前を使っている。


 記録を消すのではなく、別の記録を重ねて。

 責任の行き先だけを、静かに下へずらしている。

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