第十二章 消えた経路
厨房記録、廊下通過記録、保護室入室記録、配膳控え。
四冊の帳簿が、保管所の小会議室の机に並べられていた。
夜明け前まで、あと一時間半。
もう時間は、砂時計の砂ではなく、喉元に当てられた刃に近かった。
「厨房から出た蜂蜜湯は、全部で六杯です」
女性職員が読み上げる。
「一杯目、相続手続きの待合室。二杯目、夜勤明けの巡回兵。三杯目、保護室前の医師。四杯目、記録室の主任。五杯目、別室待機中の母子。六杯目、廊下待機の職員」
バルト主任が眉を寄せた。
「リナの保護室に出した記録はないな」
「はい。厨房記録上はありません」
机の上には、以前見つかった蜂蜜湯の封箱も置かれている。
あれは確かに保護室へ入った。
リナが飲まなかったから助かった。だが、杯そのものは存在した。
記録にはない。
でも、現実にはあった。
僕は配膳控えを見た。
「配膳控えも六杯ですね」
「数は合っています」
セリアが言った。
声はいつも通り冷静だった。
けれど、僕に向けられる温度はまだ低い。
必要な指示は出す。
観察力は使わせる。
それ以上はない。
それでいい。
今の僕には、それ以上を求める資格がない。
「廊下通過記録は?」
セリアが問う。
別の職員が帳簿をめくる。
「厨房前通過、午後七時十二分。配膳台一台、担当サラ。北廊下へ。七時十四分、第二待合室前通過。七時十七分、記録室前通過。七時二十分、厨房へ戻り」
「保護室前は?」
「記録なしです」
バルト主任が机を指で叩いた。
「つまり、蜂蜜湯は保護室へ入っていないことになる」
「記録上は」
僕は言った。
その口癖が出た瞬間、胸の奥が冷えた。
記録上は。
便利な逃げ道。
以前、ニナを傷つけた言葉の親戚。
セリアが僕を見た。
「続けてください」
責めなかった。
だが、許したわけでもない。
僕は息を吸い直し、帳簿へ視線を戻した。
「厨房から出た杯数は合っています。配膳控えも合っている。廊下通過記録も、一見おかしくありません」
「一見?」
「はい」
僕は廊下通過記録と保護室入室記録を並べた。
「保護室前の通過記録はない。でも、この時間帯に別の部屋への配膳記録が重なっています」
セリアの目が細くなる。
「どの部屋ですか」
「第二待合室です。七時十四分に通過。七時十五分に蜂蜜湯一杯を届けた記録がある」
「第二待合室には誰が?」
職員が別帳簿を確認する。
「その時刻、第二待合室は空です。午後六時五十分に最後の利用者が退室しています」
室内が静かになった。
空の部屋へ蜂蜜湯を届けた記録。
数は合っている。
配膳もある。
廊下も通っている。
でも、届け先が違う。
「記録が消されたのではなく」
僕は言いながら、慎重に言葉を選んだ。
慎重に。
ただし、薄めないように。
「別の記録で覆われています」
セリアが視線だけで続きを促す。
「蜂蜜湯を保護室へ運んだ記録そのものはありません。でも、同じ時刻に空の第二待合室へ運んだ正しい形式の記録がある。杯数も、配膳台の移動も、戻り時刻も合っている」
僕は手帳を開いた。
以前書いた三つの欄が、まだ残っている。
見たこと。
言ったこと。
言わなかったこと。
僕はその下に、新しい行を書き足した。
見たこと:消失ではなく上書き。
「犯人は記録を消しているのではありません。別の正しい記録を重ねて、異常を目立たなくしている」
言った。
言えた。
もちろん、これで何かが許されるわけではない。
ニナはまだ隔離されている。
僕の言葉で傷ついた事実は消えない。
それでも、今は言うべきことを言うしかない。
セリアは少しだけ頷いた。
「仮説として記録しなさい」
「はい」
「今度は曖昧にしないでください」
「……はい」
「仮説なら仮説として。事実なら事実として。見えていることを薄めないでください」
厳しい声だった。
でも、その厳しさは今の僕に必要だった。
僕は手帳に書く。
仮説:犯人は記録を削除せず、別の正規形式の記録を上書きして異常を隠している。
バルト主任が帳簿を覗き込む。
「だが、第二待合室に届けた記録自体は正しい形式だ。担当印もある」
「担当者は?」
セリアが問う。
職員が読み上げる。
「配膳担当、サラ・ミント。厨房見習いです」
「呼べますか」
「今は厨房で待機中です。ただ……」
「ただ?」
「彼女は七時十分から七時二十五分まで、厨房の洗い場にいたと、料理長が証言しています」
まただ。
記録上は配膳に出ている。
現実の証言では厨房にいる。
ニナと同じ構図。
処理者欄に名前がある。
本人は覚えていない。
あるいは、物理的にできない。
「サラは見習いですか」
僕が聞く。
「はい。十五歳。厨房に入って三か月です」
セリアの表情がわずかに硬くなった。
弱い立場の職員名。
ニナ。
そして、サラ。
責任は下へ落ちる。
それに気づいた瞬間、喉の奥が苦くなった。
以前セリアが言った。
責任の大きな場所を避けた結果、いちばん弱い場所へ疑いが落ちた。
犯人も、同じことをしている。
いや、もっと意図的に。
「エルム」
セリアが呼ぶ。
「はい」
「あなたは今、何を見ていますか」
前なら、僕は逃げたかもしれない。
今も、逃げたい。
でも、手帳にはもう書いてある。
見たことを薄めない。
「弱い立場の職員名が使われています」
僕は言った。
「ニナさんに続いて、サラさんも。どちらも見習いで、記録や配膳の末端作業に触れる。疑いを向けやすい。でも、単独では記録全体を動かせない」
バルト主任が苦い顔をする。
「つまり、内部の誰かが見習いの名前を使っていると?」
「仮説です」
僕は一度そう言い、すぐに付け加えた。
「ですが、現時点で最も整合します。ニナさん単独、サラさん単独より、上位の記録に触れる者が名前を利用している可能性が高い」
セリアは僕を見た。
冷たい視線ではなかった。
だが、温かくもない。
「その形で記録してください」
「はい」
認められた。
捜査上の評価。
それだけだ。
それでも、少しだけ息ができた。
女性職員が別の帳簿を持ってきた。
「フォール監察官。蜂蜜湯の上書き時刻ですが、一三五番の処理時刻と近いです」
「時刻を」
「一三五番の処理時刻は午前七時五十六分。蜂蜜湯の第二待合室配膳記録は午後七時十五分です」
バルト主任が眉を寄せる。
「半日違うぞ」
「時刻だけでは離れています」
僕は二つの帳簿を見比べた。
「でも、処理の位置が似ています」
「位置?」
「どちらも、本来の流れに一つ余分な記録を差し込んでいる。一三五番は存在しない搬入束。第二待合室の配膳は存在しない配膳先。どちらも全体の数は合っているように見せている」
セリアが言った。
「手口が同じ」
「はい。時刻より、構造が近いです」
主任は低く唸った。
「消すより厄介だな」
「はい」
僕は頷いた。
「消された記録は、穴として目立ちます。でも正しい形の記録が重なっていると、帳尻が合って見える」
「だから、発見が遅れる」
セリアが言った。
「そして疑いは、記録に名前を書かれた末端職員へ落ちる」
室内の空気が重くなった。
ニナの声が頭に戻る。
私は見つけただけです。
サラという見習いも、同じことを言うかもしれない。
私は運んでいません。
私は洗い場にいました。
私は名前を使われただけです。
紙の上の名前は、声より重い。
それを変えなければならない。
変える、なんて大きなことはまだ言えない。
でも少なくとも、今度は声を紙に負けさせてはいけない。
「サラ・ミントの聴取は私が行います」
セリアが言った。
「威圧は禁止。厨房での所在確認を先に取ります。彼女を内部協力者として扱う前に、名前を使われた可能性を検討してください」
職員たちが頷く。
バルト主任が苦い顔で言った。
「見習いばかりだ」
誰も答えなかった。
主任は拳を握る。
「俺たちが守るべき連中の名前が、責任を落とすために使われている」
その声には怒りがあった。
自分を疑われる怒りではない。
もっと別の、保管所の内側を汚されたことへの怒り。
「主任」
僕は言った。
「サラさんの筆跡、あとで見せてください。ニナさんの時と同じように、担当欄と本人の字を比べます」
「分かった」
主任は即答した。
少しだけ、こちらを見る目が変わった気がした。
信用ではない。
でも、仕事を任せる目ではあった。
セリアは机の上の帳簿を閉じた。
「整理します」
彼女は短く言った。
「一つ。蜂蜜湯は保護室へ入った。二つ。その経路記録は、第二待合室への配膳記録で上書きされている可能性が高い。三つ。担当欄には見習い職員サラ・ミントの名前。四つ。同じように一三五番ではニナ・ラスクの名前が使われている」
僕はその四点を手帳に写した。
「五つ」
セリアが僕を見た。
「この手口は、記録を消すのではなく、別記録を重ねる」
「はい」
「六つ。弱い立場の職員へ疑いを落とす構造がある」
僕は少しだけペンを強く握った。
「はい」
「では、次に必要なのは?」
試されている。
でも、以前のように突き放すだけの声ではなかった。
捜査上、必要だから聞いている。
「上書きされた記録の担当欄を全て洗うこと。見習い職員名がどれだけ使われているか確認すること。あと、上書きが行われた記録の共通点を見ること」
「共通点とは?」
「誰が承認できる記録か。どの棚、どの鍵、どの印に接続しているか」
セリアは頷いた。
「妥当です」
妥当。
久しぶりに聞いた気がした。
それでも、胸は軽くならない。
妥当なことを言える人間が、正しいことを言えるとは限らない。
僕はそれを、昨日よりずっとよく知っている。
その時、厨房記録を確認していた職員が声を上げた。
「もう一件、あります」
全員の視線が向く。
「昨夜の薬草湯の配膳記録です。第二倉庫の夜勤者へ運んだことになっていますが、第二倉庫はその時間、閉鎖されています」
セリアが近づく。
「担当者は?」
職員は一瞬ためらった。
「こちらも見習いです」
僕の胃が沈む。
「名前は」
「ルイス・バン。記録補助見習い。十六歳」
また、見習い。
また、弱い名前。
章末に向かって、部屋の空気が凍っていくのが分かった。
ニナだけではない。
サラだけでもない。
誰かが、保管所の弱い名前を使っている。
記録を消すのではなく、別の記録を重ねて。
責任の行き先だけを、静かに下へずらしている。




