第十三章 訂正前夜
夜明け前まで、あと一時間。
僕は以前書いた報告文を、もう一度読んでいた。
――主任が押したとは断定できません。ただし、記録上は主任の管理下で受理されています。
短い文だった。
整っている。
間違ってはいない。
誰かを直接犯人にしていない。
保管所全体を壊すような断定もしていない。
だからこそ、最悪だった。
僕はその下に、小さく書き足した。
足りない。
何が足りなかったのか。
受理印はバルト主任の押し癖に似ている。
でも完全には一致しない。
左上の濃さは似ているのに、円の潰れ方が違う。
押印記録では主任が処理したことになっている。
でも同時刻、鍵管理記録では主任は第二保管室にいた。
受理印箱の鍵も、主任の腰にあったことになっている。
記録上は押した。
物理的には押せない。
鍵は手元にあった。
この三つは、同時には成立しない。
僕が言うべきだったのは、こうだ。
――受理印は主任の押し癖に似せられているが、完全には一致しない。押印記録と鍵管理記録は物理的に両立しない。主任単独の処理ではなく、保管所記録の一部が偽装、または別記録によって上書きされた可能性が高い。したがって、責任を主任個人または見習い職員へ落とす前に、記録管理全体の異常として扱うべきである。
長い。
重い。
そして、逃げ場がない。
この文を提出すれば、バルト主任だけでは済まない。
保管所全体の鍵管理、押印管理、搬入記録、見習い職員の名前を使った処理まで、全部疑うことになる。
ここが壊れたら、誰の証言も守れなくなる。
主任の言葉が頭に戻る。
僕はペンを握ったまま、動けなかった。
「何を固まっている」
背後から声がした。
バルト主任だった。
僕は慌てて報告紙を裏返しかけた。
それを見て、主任の眉間に皺が寄る。
「隠すなら最初から記録室で書くな」
「……すみません」
「謝罪はいい。何を書いている」
「以前の報告の訂正案です」
「見せろ」
反射的に紙を押さえた。
主任の目がさらに鋭くなる。
「俺のことか」
「はい」
「なら見せろ」
「でも」
「でも、何だ」
主任は机に手をついた。
「俺を庇ったつもりなら余計な世話だ」
言葉が刺さった。
「庇った、というより」
「違うのか」
僕は答えられなかった。
主任は鼻で息を吐き、紙を取った。
読んだ。
長い沈黙が落ちる。
「……悪くない」
「え?」
「悪くないと言った。耳まで悪いのか」
「いえ。ただ、怒鳴られると思っていたので」
「怒鳴るぞ」
「今から?」
「必要ならな」
主任は紙を机に戻した。
「お前の以前の報告は、最低だった」
「はい」
「主任が押したとは断定できない。記録上は主任の管理下。便利な言い方だ。俺を犯人にせず、保管所も壊さず、見習いを疑う余地だけ残した」
その通りだった。
「記録を守るなら、壊れている場所を書け。隠すな」
主任の声は低かった。
「壊れている記録を、壊れていないふりで守るな。それは記録を守ることじゃない。腐った棚に紙を戻すだけだ」
「でも、これを出せば」
「俺の管理責任は問われる」
主任は即答した。
「職員も調べられる。保管所の信用も落ちる。分かっている」
「怖くないんですか」
「怖いに決まっているだろうが」
怒鳴られた。
でも、その怒鳴り声には嘘がなかった。
「怖いから、正しい場所を書けと言っている。壊れている場所を隠したら、次に潰れるのはニナみたいな見習いだ」
ニナの名前が出て、僕の手が止まった。
「お前が黙ったせいだけじゃない」
主任は言った。
「だが、お前が言わなかったことで、疑いが下へ落ちた。それは事実だ」
「はい」
「なら、次は落とすな」
主任は帳簿を見た。
疲れている顔だった。
怒っている。怖がっている。自分の責任も分かっている。
それでも逃げていない。
僕は、主任を守りたかったのではない。
保管所を守りたかったのでもない。
その言葉は、たぶん一部だけ本当だ。
でも本当の中心は、もっと小さくて情けない。
自分の言葉が始まりになるのが怖かった。
自分が書いた一文で、誰かが責められるのが怖かった。
その責任を負いたくなかった。
だから、曖昧にした。
結果、ニナが傷ついた。
「主任」
「何だ」
「僕は、訂正報告を書きます」
「書け」
「でも、まだ提出は」
「今すぐ出せとは言っていない」
主任は腕を組んだ。
「だが、書き始めたなら最後まで書け。途中で逃げるな」
その言葉が、思ったより深く入った。
僕は新しい紙を出した。
手がまだ少し震えている。
けれど、ペン先は動いた。
訂正報告。
件名:マルク・レイン罪状記録に関する受理印および搬入記録の再検討。
僕はゆっくり書き始めた。
受理印はバルト主任の押印癖に似るが、完全には一致しない。
押印記録と鍵管理記録は、同時刻において物理的に両立しない。
存在しない束番号一三五、および蜂蜜湯配送記録の上書き事例から、犯人は記録を削除するのではなく、別の正規形式の記録を重ねて異常を隠している可能性がある。
したがって、本件は主任個人または見習い職員個人の処理として扱うべきではなく、保管所記録管理全体の異常として再調査すべきである。
そこまで書いて、息を吐いた。
紙の上に書かれた言葉は、重かった。
でも、逃げ道だけでできた言葉ではなかった。
主任はそれを横から見ていた。
「読める字だ」
「そこですか」
「記録官には大事だ」
「たしかに」
「内容はまだ甘い」
「はい」
「だが、前の報告よりはましだ」
主任なりの褒め言葉なのだろう。
たぶん。
扉が開いた。
セリアだった。
彼女は部屋に入ってきて、僕の手元を見た。
「訂正報告ですか」
「まだ、案です」
「提出は?」
「まだです」
セリアは近づかなかった。
紙を覗き込むこともしなかった。
「内容は見ません」
少し意外だった。
「見ないんですか」
「今見れば、あなたは私に合わせて書くかもしれません」
彼女は淡々と言った。
「これは、あなたが何を見て、何を言わなかったかを訂正する報告です。私の言葉では意味がありません」
胸の奥が重くなる。
でも、嫌な重さではなかった。
「書くなら、最後まで書きなさい」
セリアはそれだけ言った。
優しくはない。
許してもいない。
けれど、突き放しきってもいない。
必要な距離を置いたまま、前へ進めと言っている。
「はい」
僕は答えた。
セリアはバルト主任に視線を移す。
「リナの髪紐と薬房記号の照合に移ります。主任、薬房から届いた在庫表を」
「今出す」
主任が棚へ向かう。
事件は止まらない。
ニナはまだ隔離されている。
リナは次の反応に耐えられないかもしれない。
トマは消えたまま。
手袋の男も分からない。
それでも、僕は紙に向き直った。
訂正報告の次の行に、こう書いた。
上記の曖昧な初回報告により、見習い職員ニナ・ラスクへ疑いが集中する余地を残した。これは報告者リュカ・エルムの不足である。
ペン先が止まりそうになった。
でも、止めなかった。
まだ提出はしていない。
ニナを救えてもいない。
何も帳消しにはなっていない。
それでも僕は、ようやく、訂正するための一文を書き始めていた。




