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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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14/21

第十四章 見習いの印

 机の上に、三種類の紙が並んでいた。


 薬房から届いた在庫表。

 トマの書きかけのメモ。

 そして、存在しない束番号一三五の補助記録。


 夜明け前まで、あと四十五分。


 時間を考えると、息が浅くなる。

 だから僕は、紙を見た。


 逃げるためではない。

 今は、そう言いたい。


「正式な在庫記号はこちらです」


 マルク・レインが在庫表の端を指した。


 彼の指には、薬草の色がまだ薄く残っている。

 肩の包帯は新しいものに替えられていたが、動くたびに少し顔をしかめていた。


「これは眠りを助ける乾燥花。こちらは咳止めの根。これは香油用の花弁」


 記号は整っていた。

 丸、線、点の組み合わせ。薬房ごとに少し違うらしいが、マルクの記号は几帳面だった。


 セリアが一三五番の補助記録を示す。


「この記号は?」


 マルクは眉を寄せた。


「私の正式記号ではありません」


「薬房のものではない?」


「いえ……似ています」


 彼はトマのメモを取った。


 書きかけの文。


 ――先生へ。あの袋は、やはり


 その余白に、小さな記号がいくつか残っている。

 薬草の種類を自分用に整理したものだろう。


「これはトマの簡略記号です」


「簡略記号?」


 僕が聞くと、マルクは頷いた。


「正式記号を覚えるために、あの子が自分で作っていました。私の記号に似せていますが、線を減らしている。見習い用の覚え書きです」


 僕は一三五番の補助記号と、トマの余白の記号を見比べた。


 似ている。


 でも、完全には一致しない。


 線の曲げ方が近い。

 点の位置も似ている。

 ただ、一三五番の方は少し整いすぎている。


「トマ本人の字より、きれいです」


 僕は言った。


 マルクが顔を上げる。


「どういう意味ですか」


「トマさんの記号は、急いで書くと線が少し下へ流れる。でも一三五番の補助記号は、真似ているように見えるのに、揺れが少ない」


 セリアが僕を見る。


「本人ではない可能性?」


「あります。ただし、本人が丁寧に書いた可能性もあります」


 僕はそこで止まらず、言葉を足した。


「事実としては、正式記号ではなくトマさんの簡略記号に近い。仮説としては、トマさん本人が書いたか、誰かが彼の簡略記号を利用した可能性があります」


 セリアは短く頷いた。


「そのように記録してください」


 認められた。

 けれど、甘くはない。


 僕は手帳に書いた。


 事実:一三五番補助記号は、薬房正式記号ではなくトマ簡略記号に近い。

 仮説一:トマ本人が関与。

 仮説二:第三者がトマ記号を利用。


 マルクは静かにメモを見つめていた。


「トマは、臆病な子です」


 彼は言った。


「けれど、雑な子ではありません。薬草の札を何度も書き直す。自分の字が読みにくいと、患者に迷惑がかかると言って」


「患者に?」


「ええ。子供の患者には、薬札の隅に小さな印を描くことがありました。月の印は夜の薬。太陽の印は朝の薬。リナには……花の印を」


 リナ。


 その名前が出ると、室内の空気が少し重くなる。


「髪紐を結び直したのも、トマさんですか」


 僕が聞くと、マルクは目を伏せた。


「はい。三日前、リナが汗をかいて、髪が首に張りついていた。私が診療を続けていたので、トマが結び直しました」


「その時、何か変わった様子は?」


「その時は、ありません。私は親切心だと思っていました」


「今は?」


 マルクは唇を結んだ。


「分かりません」


 正直な答えだった。


「髪紐に付いていた成分は、薬房内だけでは説明できない」


 セリアが確認する。


「はい」


 マルクは頷く。


「少なくとも、私の薬房に常備している薬草や香油だけでは作れません。ただ、髪紐が薬房にあった時点で、何かを付けられた可能性はあります」


「トマが?」


 セリアの声は冷静だった。


 マルクはすぐには答えなかった。


「……そう考えることはできます」


 苦い声だった。


「ですが、あの子がリナを害そうとしたとは、私は思えない」


「思えない、では記録になりません」


 セリアの言葉は厳しい。


「分かっています」


 マルクは小さく頷いた。


「でも、薬師としてではなく、人として言うなら、トマは子供が苦しむのを見られない子です。薬を飲めない子に、自分で先に苦い薬を舐めて見せたこともあります」


「それは、なかなか」


 僕は思わず言った。


「見習いとしては立派ですが、人としては損な性格ですね」


 マルクが少しだけ笑った。


「ええ。私もそう思います」


 その笑みはすぐに消えた。


「だからこそ、消えたことが怖い」


 トマ犯人説。


 それは成立する。


 トマは匂い袋に触れる立場にいた。

 リナの髪紐を結び直した。

 一三五番の補助記号は彼の簡略記号に近い。

 失踪している。


 でも、別の見方もある。


 トマ警告者説。


 彼は匂い袋と髪紐の異常に気づいた。

 マルクへ知らせようとして、メモを書いた。

 だが途中で途切れた。

 一三五番の記号も、本人のものに似ているが完全一致ではない。

 誰かが彼の記号を使い、罪を押しつけた可能性がある。


 僕は手帳を見た。


 見たこと。

 言ったこと。

 言わなかったこと。


 今度は、最初から分けて書く。


「二つの可能性があります」


 僕は言った。


 セリアが視線を向ける。


「一つは、トマさんが犯人、または協力者である可能性。匂い袋、髪紐、一三五番の補助記号に接点がある」


「もう一つは?」


「トマさんが警告者である可能性です。メモはマルクさんへ知らせようとした形に見える。書きかけで途切れている。髪紐を結び直したことも、隠そうとした痕跡は今のところありません。一三五番の記号も、本人のものに似ていますが完全一致ではない」


 セリアはすぐには答えなかった。


 僕は続ける。


「現時点では、警告者説の方が自然に見えます」


 マルクの表情が動いた。

 希望に近いものが、一瞬だけ浮かぶ。


 でも、セリアは甘くしなかった。


「自然に見える理由を記録してください。トマを善人と断定しないこと。警告者である可能性と、記号を利用された可能性を分けること」


「はい」


「犯人説も残します」


「はい」


「あなたの感情ではなく、証拠で」


「分かっています」


 そう答えた後で、少しだけ遅れて気づく。


 分かっています、と言えるほど分かっているわけではない。

 でも、今は分かろうとしている。


 マルクが小さく息を吐いた。


「私も、トマを庇いたいだけになっているかもしれません」


「庇いたいと思うことと、証拠を隠すことは別です」


 セリアが言った。


「あなたが知っているトマの癖を、全て出してください。それが彼を疑う材料にも、守る材料にもなります」


 マルクは頷いた。


 彼は薬房から持ち込まれたトマの作業箱を開いた。


 中には、短くなった鉛筆、古い薬札、失敗したラベル、子供向けに描かれた小さな印が入っていた。


 月。

 太陽。

 花。

 鳥のようなもの。たぶん鳥だ。たぶん。


「この鳥、少し足が多くないですか」


 僕が呟くと、マルクが苦笑した。


「トマは絵が下手でした」


「親近感が湧きます」


「あなたも?」


「僕は地図に犬を描いたら、主任に“これは事故現場か”と言われました」


 バルト主任が遠くから言った。


「実際、事故現場みたいな犬だった」


「主任、今は重要な捜査中です」


「お前が言い出した」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 すぐに戻る。

 でも、こういう小さな息継ぎがないと、人は重い夜を渡れない。


 僕は薬札を一枚ずつ見た。


 トマの簡略記号は、確かに癖がある。

 線が下へ流れる。点が少し右に寄る。急いだ時は、丸が開く。


 一三五番の補助記号は、それを真似ている。

 でも、きれいすぎる。


 作業箱の底に、古い在庫紙が敷かれていた。


 汚れ防止のためだろう。

 薬草の粉が染みている。


 その端が、少し二重になっていることに気づいた。


「この紙、重なっています」


 僕は言った。


 マルクが覗き込む。


「古い在庫紙を敷いただけだと思っていました」


「外しても?」


 セリアが頷く。


「慎重に」


 僕は紙の端を持ち上げた。


 薄い紙片が、底に貼りついていた。


 薬草の粉で汚れ、端が破れている。

 でも文字は読めた。


 ――あの袋は毒じゃない。運ばせるためのものだ。


 部屋の中が静まり返った。


 マルクが息を呑む。


 セリアは紙片を見つめたまま、低く言った。


「トマは、匂い袋の性質に気づいていた」


 僕はメモの文字を見た。


 急いだ字。

 震えた線。

 でも、伝えようとしている。


 あの袋は毒じゃない。

 運ばせるためのものだ。


 トマは逃げたのか。

 消されたのか。

 犯人なのか。

 警告者なのか。


 まだ分からない。


 ただ一つ、分かったことがある。


 彼は少なくとも、リナを殺す仕組みの一部を知っていた。

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