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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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第二十三章 死者の香りを売る店

 カロス葬具店は、王都の東端にあった。


 夜明けは過ぎた。

 けれど、朝の光はまだ弱く、通りの石畳には夜の湿り気が残っている。


 店の看板は黒い木板に銀の文字で、飾り気がない。


 ――カロス葬具店。


 扉の横には、白い布束と小さな香炉が置かれていた。

 香炉からは、ほとんど匂いのしない煙が細く上がっている。


 僕はその煙を見て、ピムの袖口を思い出した。


 湿った石粉。

 清掃用石灰。

 保存香粉に似た成分。


 あれは偶然ではなかったかもしれない。


 マルクが隣で軽く咳き込んだ。


「マルクさん、本当に同行して大丈夫ですか」


「大丈夫です」


 彼はそう言って、すぐにもう一度咳をした。


 説得力は、店先の煙より薄かった。


 セリアが冷静に言う。


「無理は許可しません。確認に必要な範囲だけです」


「分かっています」


「分かっている人は、たいていそこで咳をしません」


「……今後、時機も検討します」


「検討ではなく休息を」


 マルクは苦笑した。


 彼の顔色はまだ悪い。

 以前ピムを守った代償は、確かに残っている。


 それでも彼は来た。


 リナの毒の出所。

 ピムの袖に残った成分。

 そして、失踪した見習いトマ。


 この店には、そのどれかの答えがあるかもしれない。


 セリアが扉を叩いた。


 しばらくして、中から低い声がした。


「開いている」


 店内は薄暗かった。


 壁際には棺布が畳まれて積まれ、棚には小瓶、粉袋、香油壺が整然と並んでいる。

 保存香。

 棺布用香油。

 石灰粉。

 葬儀用の清め粉。


 不気味と言えば、不気味だ。


 でも、乱雑ではない。

 むしろ、ひどく丁寧に整えられている。


 店主は奥の帳場にいた。


 年は五十前後。痩せた男で、頬がこけ、目の下に深い影がある。黒い上着を着て、手袋をしていた。


 手袋。


 僕の視線がそこに止まったことに、店主は気づいたらしい。


「葬具屋の手袋まで疑うかね」


 声は乾いていた。


 セリアが身分証を示す。


「王都監察官セリア・フォールです。事件に関連する香料について確かめます」


「事件か。葬儀屋は、事件が起きてから呼ばれるものだが」


「今回は、起きる前から香りが出ています」


 店主は少しだけ目を細めた。


「カロス・レンだ。この店の主人だ」


 セリアは店内を見回す。


「扱っている品を確認しても?」


「壊さなければ」


「偏見で押収するつもりはありません」


 カロスは短く笑った。


「偏見で来る客の方が多い。買う時だけ、死を丁寧に包めと言うがね」


 セリアは表情を変えなかった。


「葬儀用香料は合法商材です。必要なものだと理解しています」


 カロスの目が、ほんの少し動いた。


「監察官がそう言うのは珍しい」


「違法性と不快感は別です」


「その通りだ」


 カロスは棚から小瓶を一つ取り出した。


「これは保存香だ。死者の匂いを隠すものだと思われているが、違う」


 彼は瓶を机に置く。


「腐敗を止めるわけではない。死をなかったことにするわけでもない。ただ、遺族が最後に近づけるようにするための香りだ」


 声に、商売人の誇りがあった。


「母親が息子の額に触れる。夫が妻の手を握る。子供が祖父へ花を置く。その一瞬を、匂いで壊さないためにある」


 僕は棚の瓶を見た。


 死者の香り。

 不吉なものだと決めつけるのは簡単だ。


 でも、この店の品は、人を殺すためではなく、死んだ人へ近づくために作られている。


 それを誰かが利用したなら、悪いのは香りではない。


「確かめます」


 マルクが言った。


 カロスは彼を見る。


「薬師か」


「マルク・レインです」


「名前は聞いている」


 その一言で、空気がわずかに硬くなった。


 マルクは咳をこらえながら言う。


「良くない形で?」


「王都では、良くない形の名前ほど早く届く」


「でしょうね」


 マルクは苦く笑った。


「ですが、今はリナとピムを救うために確かめます」


 カロスは保存香の粉を少量、皿へ出した。


「直接吸うな。扱いを間違えれば、喉をやる」


「承知しています」


 マルクは封具を使い、粉の色、湿り方、香りを確認した。

 彼の表情が変わる。


「近いです」


 セリアが問う。


「リナの髪紐と?」


「髪紐の“息が狭くなる甘さ”に近い。ただし、そのままではありません。別の石灰粉か香油と混ぜられている」


「ピムの袖口は?」


「そちらにも近い成分があります。湿った石粉と合わさっていたので、こちらの粉が加工された可能性があります」


 カロスは眉をひそめた。


「うちの品が、子供に使われたと?」


「その可能性を確認しています」


 セリアの声は冷静だった。


「現時点で、あなたを犯人と断じてはいません」


「断じるなら、もっと人を連れてくるか」


「必要ならそうします」


「正直だ」


 カロスは肩をすくめた。


「だが、うちの保存香は誰にでも売るものではない。葬儀屋、寺院、医療施設、身元の分かる者。用途を聞く」


「トマ・グランという少年を知っていますか」


 僕が尋ねた。


 カロスの目がこちらへ向く。


「薬師見習いの?」


「はい」


「来た」


 あまりにあっさり認めたので、僕は少し身構えた。


 セリアが問う。


「いつですか」


「一昨日の夕方。顔色の悪い少年だった。店に入る前に三度ほど迷っていた」


 トマらしい、とマルクが小さく呟いた。


「何を買いましたか」


 セリアが聞く。


 カロスは首を振った。


「買っていない」


「では、何を」


「匂いを知りたいと言った」


 僕は手帳を開く。


「匂い?」


「ああ。小さな布を持っていた。子供の髪飾りか、薬袋の端か、そんなものだ。そこに残った香りが何か知りたい、と」


 リナの髪紐。


 僕とセリア、マルクの視線が交わる。


 マルクの顔が苦しく歪んだ。


「トマは、調べに来た……?」


「そう見えた」


 カロスは言った。


「少なくとも、買いに来た客の顔ではなかった。怯えていた。だが、知りたがっていた」


「保存香を渡しましたか」


「試料は見せた。売ってはいない」


「伝票は?」


 セリアの声が少し鋭くなる。


 カロスは眉を上げた。


「伝票?」


 セリアは以前見つかった荷札の写しを出した。

 端に、トマの花印がある。


「これに見覚えは」


 カロスは紙を受け取り、すぐに表情を変えた。


「これは、うちの品名を使っている」


「あなたの店の控えですか」


「違う」


 即答だった。


「紙質が違う。うちの控えはもっと厚い。切り取り線も違う。この欄の位置も違う」


 彼は荷札の端を指した。


「うちは受取印を右下に置く。これは左下だ。似せているが、うちの控えではない」


 僕は紙を覗き込む。


 たしかに、整いすぎているようで、細部がずれている。

 正式記録のまねごと。

 ピム紙片を見た時と似た嫌な感覚があった。


「では、この花印は」


 セリアが問う。


 カロスは花印を見た。


「知らない。うちの印ではない」


 マルクが低く言った。


「トマの印です」


 カロスはマルクを見る。


「少年は、印を押していない。少なくとも、私の前では」


「では誰かが、トマの印を伝票につけた」


 僕は言った。


「購入したように見せるためか、あるいはトマが何かを示すためか」


 カロスは紙を机へ戻した。


「その少年は、帰り際にこう言った」


「何と」


「“死者のための匂いを、生きている子に使ったらどうなるんですか”」


 マルクが息を呑む。


 カロスは続ける。


「私は、使うなと言った。用途が違う。扱いを間違えれば喉を痛める。弱い子供なら危険だ、と」


「それを聞いて、トマは?」


「青い顔で帰った」


 沈黙。


 トマは毒を買いに来たのか。

 匂いの正体を調べに来たのか。

 誰かに呼び出されたのか。


 まだ分からない。


 ただ、カロスの話は、トマ警告者説を少し強めた。

 同時に、彼が保存香の危険性を知ったという事実は、犯人説も完全には消さない。


 セリアは荷札を封じた。


「カロス・レン。この伝票は正式控えではない、と証言しますか」


「する」


「あなたの店の品名を使った模倣伝票であると?」


「そうだ」


「あなた自身の関与は?」


 カロスは笑わなかった。


「証明できるものを出す。帳簿も、控えも、在庫も。だが死者の香りを売っているというだけで犯人にするなら、好きにしろ」


「しません」


 セリアは即答した。


「扱う品が不穏であることと、事件に関与したことは別です」


 カロスは少しだけ目を伏せた。


「なら、調べろ。うちの香りを、人殺しの道具にされたなら、私にも腹がある」


 店内の保存香の匂いが、静かに漂っていた。


 死者に近づくための香り。

 それを、生きている子供を眠らせるために使った者がいる。


 僕は荷札の封箱を見た。


 トマの花印。

 カロスの店名。

 でも、正式控えではない伝票。


 事件はまた、記録のまねごとへ戻ってきた。


 カロスは最後に、低く言った。


「その花印の伝票は、うちの控えではない」

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