第二十二章 動かされた清掃桶
清掃桶は、廊下の曲がり角に置かれていた。
以前ピムの袖口が触れ、甘い匂いを強くした桶だ。
今は封鎖線の内側にあり、周囲の床石には白い粉が薄く残っている。
僕はその位置を見て、ピムの言葉を思い出した。
――清掃桶、あそこにはいつも置いてない。
子供の証言は、時々とても具体的だ。
大人が「危険物」「証拠品」「配置」と呼ぶものを、子供は「いつもの場所と違う」と言う。
そして、その言葉の方が早いことがある。
「通常位置は?」
セリアが清掃係に尋ねた。
清掃係は年配の女性だった。
名前はメーラ。背は低いが、腰はまっすぐで、手には長年洗剤と水を扱ってきた荒れがあった。
彼女は封鎖線の向こうの桶を見て、顔をしかめた。
「違いますね。あそこには置きません」
「理由は?」
「邪魔です。曲がり角でしょう。誰かが蹴ります。桶はいつも用具室の前、壁際です」
彼女は廊下の奥を指した。
「そこなら通行の邪魔にならない。床を流した後でも、子供が走ってきてもぶつからない」
セリアが僕を見る。
「ピムの証言と一致しますね」
「はい」
僕は手帳に書いた。
清掃桶の通常位置:用具室前、壁際。
反応時の位置:東廊下曲がり角付近。
ピム証言と清掃係証言が一致。
ピムは今、別室で母親といる。
彼は「俺、役に立つだろ」と言った。
たしかに、役に立っていた。
ただし、彼がそれを誇っていられるほど安全な状況ではない。
マルクが廊下の端で咳き込んだ。
「マルクさん、座っていてください」
僕が言うと、彼は片手を上げる。
「確認だけです。清掃用石灰に保存香粉が混じっていたなら、薬師の目も必要でしょう」
「その咳で?」
「咳と目は別です」
セリアが即座に言った。
「体力は同じです。無理は許可しません」
「……はい」
マルクは少しだけ肩を落とした。
彼の咳は軽い。
けれど、消えてはいない。
以前の代償は、まだ残っている。
セリアは清掃係メーラへ向き直った。
「あなたは、この桶を動かしましたか」
「いいえ」
「今日の東廊下清掃は?」
「していません。少なくとも、私の担当ではありません」
メーラの表情が硬くなる。
「まさか、記録には私の名前が?」
「確かめます」
バルト主任が持ってきた清掃記録簿を開いた。
「東廊下臨時清掃。時刻、夜明け前第四刻。担当者……」
主任の声が止まった。
嫌な沈黙だった。
「名前は?」
セリアが問う。
主任は帳簿を机代わりの台に置き、低く言った。
「清掃見習い、リオ・ハルム」
また見習い。
その言葉が廊下の空気を重くした。
メーラが顔を上げる。
「リオが? あの子が東廊下を?」
「記録上は」
僕はそう言いかけて、止めた。
記録上は。
便利な言葉だ。
でもここで止めるだけでは足りない。
「記録には、そう書かれています。ただ、本人に確かめることが必要です」
メーラの目が僕に向いた。
怯えがあった。
「リオは何をしたんですか」
「まだ、何かをしたとは決まっていません」
僕は言った。
「ですが、この清掃記録が、ピムさんの危険と関係している可能性があります」
「可能性?」
「はい」
メーラの手が震えた。
「リオはまだ見習いです。あの子は、桶を出しっぱなしにするような子じゃありません。少し抜けてはいますが、危ない場所には置かない」
抜けている。
でも危ない場所には置かない。
こういう証言は大事だ。
人間の輪郭が出る。
セリアが僕を見る。
「エルム。説明を」
命令というより、課題だった。
僕はメーラの前に立った。
怖がらせないように。
でも隠さないように。
その境目は、まだうまく歩けない。
「メーラさん。まず、あなたやリオさんを犯人と決めているわけではありません」
「……はい」
「ただ、東廊下に置かれていた清掃桶が、ピムさんの袖に付いていた成分と反応しました。桶の位置は通常と違っていた。清掃記録には、リオさんの名前で東廊下臨時清掃が残っています」
メーラの顔が白くなる。
「リオが、子供を危険に?」
「そうとは限りません」
僕は首を振った。
「これまでにも、見習い職員の名前が記録に使われています。本人が実際に処理したとは限らない例が複数あります」
「名前を、使われた?」
「その可能性があります」
言い切りすぎない。
でも、ぼかしすぎない。
「だから、リオさん本人の話を聞く必要があります。あなたの知っている通常の清掃手順も、記録に残したいです」
メーラは両手を握った。
「私が話せば、リオの助けになりますか」
「なる可能性があります」
僕は少しだけ迷い、付け加えた。
「少なくとも、黙っていれば記録の名前だけが残ります」
メーラの目が揺れた。
それは怖い言葉だったかもしれない。
でも、必要な言葉だった。
セリアは横で聞いていた。
止めなかった。
メーラは小さく頷いた。
「話します。桶の位置も、石灰の管理も、全部」
「ありがとうございます」
「礼はいいです。あの子が疑われるなら、私が黙っている方が怖い」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
言わない方が怖い。
ラウルも似たことを言った。
僕は、それを何度聞けば自分のものにできるのだろう。
マルクが桶の底を確認した。
封具越しに、底に残った白い粉を少量だけ皿に移す。
彼は無理に匂いを嗅がず、湿り方と色を見る。
「清掃用石灰だけではありません」
マルクは言った。
声は少し掠れている。
「保存香粉に似た成分が混ざっています」
「葬儀用の?」
セリアが問う。
「はい。カロス葬具店の香と一致します。ただし、完全に同じかは照合が必要です」
「清掃用石灰に、保存香粉を混ぜた」
僕は呟いた。
桶を通常位置から動かし、ピムが通りそうな曲がり角へ置いた。
袖口には湿った成分。
桶には石灰と保存香粉。
偶然とは言いにくい。
セリアは職員に指示した。
「桶、石灰袋、用具室、東廊下の床石を封鎖。清掃記録の担当欄、承認欄、記入者欄を確認してください」
「はい」
バルト主任が清掃記録を睨む。
「担当者欄だけでは足りん。誰がこの臨時清掃を承認したかだ」
「主任」
僕は記録簿の端を見た。
「承認欄が空白です」
「何?」
「担当者名はある。でも承認印がない」
主任の眉間に深い皺が刻まれる。
「臨時清掃は承認印なしでは通らん」
「つまり、正式な清掃記録としては未完成?」
「未完成だ。だが現場では桶が動いている」
ピム紙片と似ている。
正式記録ではない。
でも現実を動かしている。
セリアが低く言った。
「記録の完成度を使い分けている」
僕は頷いた。
「正式に効力を持たせる必要がある時は、上書きや受理印を使う。現場を動かすだけなら、未完成の記録でも十分なのかもしれません」
メーラが不安そうに言う。
「それで、リオは」
「確かめます」
セリアが職員へ向き直った。
「リオ・ハルムを呼んでください。威圧は禁止。清掃見習いとしての通常業務を確認するだけです」
職員が走っていった。
短い待ち時間の間、廊下は妙に静かだった。
ピムのいる別室からは声がしない。
リナの保護室も、今は落ち着いているらしい。
嵐の前の、短い静けさ。
戻ってきた職員の顔は、悪かった。
「フォール監察官」
「何ですか」
「リオ・ハルムは、本日休みです」
メーラが息を呑む。
「休み?」
「はい。昨日の夕方から熱を出し、自宅療養。清掃控えにも欠勤記録があります」
バルト主任が清掃記録を見下ろした。
東廊下臨時清掃。
担当、リオ・ハルム。
当日休みだった見習いの名前。
まただ。
そこにいない弱い名前が、責任の場所に書かれている。
メーラが震える声で言った。
「リオは、ここにいなかったんですか」
セリアが答える。
「記録が矛盾しています」
僕は手帳を開いた。
ニナ。
サラ。
ルイス。
リオ。
名前が増えていく。
弱い立場の名前ばかりが、紙の上で使われている。
清掃桶は、偶然そこにあったのではない。
そして、その責任もまた、いない見習いへ落とされようとしていた。




