第二十一章 眠りから戻った少年
ピムは眠らなかった。
それだけで、部屋の中にいた全員が息をついた。
袖口の成分が清掃用石灰と反応し、甘い匂いが廊下に広がった時、ピムは一瞬だけ息苦しさを訴えた。
マルクが袖を切り離さなければ、どうなっていたか分からない。
けれど今、ピムは椅子の上で毛布にくるまり、母親の手を握っていた。
顔色は悪い。
それでも目は開いている。
「俺、寝てねえし」
第一声がそれだった。
母親が泣きそうな顔で怒る。
「威張ることじゃないよ」
「でも寝てねえだろ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題だよ」
いつもの生意気さが少し戻っていた。
それを聞いて、僕は少しだけ安心した。
安心してから、すぐに胸が痛くなった。
ピムが危険に晒されたのは、僕が知らせなかったからだ。
彼は自分がどれだけ危ない状態にいるか知らず、母親に会おうとした。
その結果、袖口の成分が石灰と反応した。
知らなかったから動いた。
それは、ピムの言葉だった。
そして、僕の失敗だった。
部屋の端で、マルクが咳き込んだ。
「マルクさん」
僕が声をかけると、彼は片手を上げた。
「大丈夫です。少し吸っただけです」
その直後、また咳をした。
大丈夫という言葉は、時々いちばん信用できない。
特に医者や薬師が自分に向けて使う時は。
セリアも同じことを思ったらしい。
「マルク・レイン。座ってください」
「しかし、ピムの状態を」
「座ってください」
命令だった。
マルクは一瞬だけ抵抗しようとして、また咳き込み、結局椅子に座った。
「薬師が倒れたら患者が困りますからね」
彼は苦笑する。
「冗談で済む状態ではありません」
セリアの声は冷たい。
けれど、雑ではない。
「医師の確認を受けてください。あなたは協力者であると同時に、今は被害者でもあります」
マルクはその言葉に少しだけ目を伏せた。
被害者。
記録上の犯人とされた薬師が、今は誰かを守って被害を受けている。
それでも、彼の疑いが完全に消えたわけではない。
物語も、現実も、そんなに都合よく整理されない。
ピムが僕を見た。
「リュカ」
「はい」
「次は言えって言ったけど、信じるって意味じゃねえからな」
胸に、真っすぐ刺さった。
「分かっています」
「分かってなさそう」
「……分かろうとしています」
「それ、大人の言い方」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「否定できません」
ピムは不満そうに鼻を鳴らした。
でも、目を逸らさなかった。
怒っている。怖がっている。信用していない。
それでも、こちらを見ている。
セリアが僕の隣に立った。
「エルム」
「はい」
「謝罪ではありません」
僕は顔を上げる。
「今あなたがするべきことは、謝って自分の気持ちを軽くすることではありません」
その言葉はあの時と同じように痛かった。
「ピム・ロウ本人に説明してください。分かっていること、分かっていないこと、これから守るためにすること。その三つを分けて」
「はい」
「遠回しにしない。怖がらせるために盛らない。安心させるために削らない」
「はい」
ピムが口を挟む。
「監察官、先生みたいだな」
「教師経験はありません」
「向いてなさそう」
「よく言われます」
「言われるのかよ」
ピムの母親が、小さく息を吐いた。
笑いではない。けれど、張りつめた空気が少しだけ揺れた。
僕はピムの前に座った。
目線を合わせる。
彼は毛布の端を握っている。
指はまだ少し震えていた。
「分かっていることから話します」
「おう」
「あなたの袖口に付いていた成分は、清掃用石灰と反応しました。だから廊下で甘い匂いが強くなり、息苦しさが出た」
「俺が触ったから?」
「袖が触れたからです。あなたが悪いわけではありません」
「でも俺が動いた」
「はい。でも、あなたが危険を知らなかったからです」
その言葉を言うのは、苦かった。
「それは、僕が伝えなかったからです」
ピムは黙った。
母親の目が僕に向く。
責める目だった。
当然だ。
僕は続ける。
「次に、分かっていないことです」
「うん」
「その成分を誰が袖に付けたのかは、まだ分かっていません。いつ付いたのかも完全には分かりません。ただ、薬房裏通りの壁を見た時ではなく、その後に付いた可能性が高い」
「じゃあ、俺に近づいたやつがいる?」
「その可能性があります」
「誰」
「まだ分かりません」
「また分かんねえか」
「はい」
ピムは舌打ちした。
でも、聞くのをやめなかった。
「これから守るためにすることを話します」
僕は手帳を開いた。
今度は、自分のためだけではなく、相手に見えるように。
「一つ。あなたの服や持ち物は、全て確認してから使う。二つ。食べ物や飲み物は、出所を確認したものだけにする。三つ。部屋から出る時は、理由を言って、必ず誰かと一緒に出る。四つ。危険が分かったら、あなたにも説明する」
ピムが眉を寄せる。
「俺にも?」
「はい」
「また難しい言い方するんじゃねえの」
「その時は、分からないと言ってください」
「言ったら?」
「言い直します」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
ピムは僕をじっと見た。
「信じてねえからな」
「はい」
「でも、聞いた」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。変な感じする」
「すみません」
「謝るな。それも変」
どうすればいいのか分からなくなって、僕は黙った。
ピムは少しだけ口元を曲げた。
「そういう顔は面白い」
「それはよかったです」
「よくねえよ」
完全には戻っていない。
けれど、彼は話を聞いた。
それだけで、今は十分だった。
セリアは僕の説明を黙って聞いていた。
終わってから、短く言う。
「必要最低限は伝わりました」
褒め言葉ではない。
評価だ。
それでも、前よりはましだった。
マルクが咳を抑えながら口を開く。
「ピム。袖を切った部分は、あとで私が直します」
「先生、縫えるのかよ」
「薬袋なら縫えます」
「服は?」
「努力します」
「不安しかねえ」
マルクは笑おうとして、また咳き込んだ。
ピムの顔が少し変わる。
「先生、平気じゃないだろ」
「少しだけです」
「少しって、大人の逃げ方だろ」
ピムの言葉に、マルクは苦笑した。
「その通りですね。少し苦しいです。でも、悪化はしていません」
「最初からそう言えよ」
「今後、そうします」
ピムは毛布を握り直した。
「俺のせい?」
マルクは即答した。
「違います」
「でも、俺の袖を切ったから」
「薬師が患者を助けるのは仕事です」
「俺、患者なのか」
「今は」
「じゃあ薬代は?」
「肉入り飯で手を打ちましょう」
ピムが少しだけ笑った。
母親がマルクへ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ礼を受け取るには早いです。安全確認が終わっていません」
マルクはそう言いながら、また咳をした。
代償は残っている。
僕の失敗で、彼にも傷がついた。
その事実から目を逸らしてはいけない。
セリアが職員に指示を出す。
「廊下の清掃用具を確認。石灰、桶、布、粉類の配置を全て記録してください。通常位置との違いも」
その言葉に、ピムが顔を上げた。
「清掃桶?」
「あなたの袖が触れた桶です」
「……あれ、変だった」
部屋の全員がピムを見る。
ピムは少しだけ身を引いた。
「何だよ」
僕はできるだけ落ち着いて聞いた。
「何が変でした?」
「清掃桶、あそこにはいつも置いてない」
セリアの目が鋭くなる。
「いつもの場所を知っているのですか」
「知ってるよ。俺、あの廊下通ったことあるし。桶はいつも奥の用具室の前だ。昨日もそうだった。あんな曲がり角の横に置くと、誰か蹴るだろ」
僕は廊下を思い出した。
ピムの袖が触れた場所。
清掃用の石灰がこぼれていた桶。
確かに、通行の邪魔になる位置だった。
「つまり」
セリアが低く言う。
「清掃桶は、動かされていた可能性があります」
ピムは毛布の中で肩をすくめた。
「ほらな。俺、役に立つだろ」
声は生意気だった。
でも、その手はまだ震えていた。




