二十章 知らせなかった危険
ピムの紙片は、ただの脅しではなかった。
――少年ピム・ロウは、夜明け後、眠りから戻らない。
その文の終わりに残った筆圧は、最初の罪状記録と同じ癖を持っていた。
証言欄の空白。
書くべき場所に、名前を書かなかった跡。
けれど行末にだけ残った、強い力。
同じ人物が関わっている可能性が高い。
そして、ピムの袖口には、すでに湿った石粉が付いていた。
脅しではない。
準備だ。
そう思った瞬間、喉の奥が冷えた。
「ピムはすでに、仕掛けの途中にいる可能性があります」
僕はセリアに報告した。
今度は言った。
飲み込まなかった。
セリアにも、バルト主任にも、マルクにも伝えた。
「根拠は」
セリアが問う。
「ピム紙片の筆圧が、最初の罪状記録の空欄筆圧と一致しています。加えて、袖口の石粉は以前の壁を見た時ではなく、その後についた可能性が高い。つまり、紙片と接触痕が同じ方向を向いています」
「ピム本人には?」
その問いに、僕は一瞬止まった。
「まだ、伝えていません」
セリアの目が細くなる。
「理由は」
「……怖がると思ったからです」
言った瞬間、自分でもその言葉が薄いと分かった。
ピムは大人を信じない。
怯えれば逃げるかもしれない。
母親も取り乱すかもしれない。
今は保護室にいる。職員もいる。危険物は封じている。
なら、全部を伝えなくても守れる。
そう思った。
いや、そう思いたかった。
「保護手順を強めます」
セリアは言った。
「ただし、本人への説明は後回しにしないでください」
「はい」
返事をした。
けれど、その時の僕はまだ、説明する覚悟を持っていなかった。
ピムは別室で椅子に座っていた。
母親は隣室。扉は開いている。
ピムから見える距離にいる。
それでも、ピムは落ち着かない様子だった。
「なあ」
彼は僕を見るなり言った。
「いつまでここにいればいいんだよ」
「安全確認が終わるまでです」
「またそれかよ」
ピムは足をぶらつかせる。
「俺、悪いことしてないんだろ」
「していません」
「なら帰れるだろ」
「危険が残っています」
「何の」
そこで言うべきだった。
袖口の成分が危険かもしれない。
君はもう二度目の接触を受けているかもしれない。
紙片を書いた人物は、最初の罪状記録を書いた人物とつながっているかもしれない。
君は、まだ狙われている。
でも、僕は言わなかった。
「確認中です」
ピムの顔が曇る。
「大人の逃げ方だ」
その通りだった。
「怖いことなら、怖いって言えよ」
「怖がらせたいわけではありません」
「それも逃げ方だろ」
言い返せなかった。
ピムは母親の方を見る。
「母ちゃんに言えば帰れる」
「ピム」
「俺、証言しただけだ。悪いことしてない。母ちゃんだって、こんなとこにいるの嫌だろ」
母親が隣室から身を乗り出す。
「ピム、そこにいな」
「でも」
「そこにいな」
母親の声は強かった。
けれど、不安も混じっていた。
ピムは唇を尖らせ、椅子から降りた。
「トイレ」
職員が反応する。
「付き添います」
「子供扱いすんなよ」
「子供です」
「うるせえ」
ピムは廊下へ出た。
職員がついていく。
僕も後を追おうとした。
その時、マルクが袖口の封箱を手に廊下へ出てきた。
「ピムの袖の石粉ですが」
彼は言った。
「湿った状態で、石灰系の粉と接触すると反応する可能性があります。清掃用の石灰、壁補修粉、保存香粉の一部も避けた方がいい」
血の気が引いた。
廊下の先。
清掃用具置き場。
ピムはそこを通る。
「ピム!」
僕は走った。
廊下の角を曲がった時、ピムは職員を振り切るように少し先へ進んでいた。
「母ちゃんに言うだけだって!」
隣室へ戻ろうとしていたのだろう。
だが、廊下の壁際には清掃用の桶が置かれていた。
夜明け前の清掃で使われた石灰混じりの粉が、蓋の隙間から少しこぼれている。
ピムの袖口が、その粉に触れた。
小さな音がした。
じゅ、と湿った紙が焦げるような音。
袖口の布が、薄く黒ずんだ。
甘い匂いが急に強くなる。
「うっ」
ピムが喉を押さえた。
「息、変……」
マルクが飛び込んだ。
「動かないで!」
彼は迷わなかった。
封具を取る暇もなかった。
腰の小刀を抜き、ピムの袖を掴み、黒ずみ始めた部分を切り離す。
その瞬間、甘い匂いがさらに広がった。
マルクが咳き込む。
「マルクさん!」
「下がって!」
彼は袖布を床に落とし、足で遠ざけようとして、すぐに踏むのをやめた。
代わりに近くの金属皿を取り、布をすくい上げる。
セリアが駆けつけた。
「窓を開けて。廊下を封鎖。清掃用具に触れないでください」
指示は速かった。
ピムは壁にもたれていた。
顔は白いが、意識はある。
「俺、何もしてねえ」
「分かっています」
セリアが言った。
「息は?」
「ちょっと、苦しい。でも平気」
「平気ではありません。座りなさい」
「命令かよ」
「命令です」
ピムは文句を言おうとしたが、咳き込んで座った。
マルクも咳をしていた。
軽いが、明らかに吸い込んでいる。
「マルクさん、手は」
「大丈夫です。少し吸っただけです」
「大丈夫に見えません」
「薬師は自分の状態を後回しにしがちです」
「自覚があるなら直してください」
セリアの声が鋭い。
マルクは苦しそうに笑った。
「今後の課題にします」
ピムの母親が廊下へ飛び出してきた。
「ピム!」
セリアが制した。
「近づかないでください。今は触れない方がいい」
「息子だよ!」
「だからです」
同じ言葉。
以前も聞いた。
だが今回は、母親の目の前で反応が起きた。
母親は泣きそうな顔で立ち止まる。
「何が起きたんだい」
僕は答えられなかった。
答える資格がない気がした。
いや、違う。
ここで黙るのは、また逃げだ。
「袖の成分が、廊下の石灰と反応しました」
僕は言った。
「ピムさんの袖には、危険な成分が付いていました。僕はそれを知っていました」
母親の目が僕に向く。
「知ってた?」
ピムもこちらを見る。
その目は、まだ少し涙目だった。
「俺、聞いてない」
胸が痛んだ。
「……伝えていませんでした」
「何で」
単純な問い。
答えは、ひどく情けない。
「怖がらせたくなかったからです」
ピムは口を開けた。
笑おうとしたのかもしれない。
でも笑えなかった。
「怖かったよ」
彼は小さく言った。
「知らなくても、怖かったよ」
セリアが僕の前に立った。
声は低かった。
「エルム」
「はい」
「怖がらせないため、という言葉は便利です」
何も言えない。
「ですが、知らされない恐怖もあります」
彼女の視線は、僕から逸れない。
「当事者に知らせないまま守ることは、時に檻に入れることと同じです。ピムは子供ですが、危険を理解する権利があります」
「でも、伝えれば逃げるかもしれないと」
「だから伝え方を考えるのです。伝えない理由にしてはいけない」
セリアの言葉は、怒鳴り声ではない。
でも、廊下にいる全員の耳に届いた。
「以前は、あなたは言うべきことを言わなかった。今回は、伝えるべき相手に伝えなかった」
その違いを、彼女は正確に突いた。
「あなたは私には報告しました。だから前より進んでいます」
意外な言葉だった。
でも、次の言葉がすぐに刺さる。
「ですが、守る相手を報告の外に置いた」
ピムが、切られた袖を見ていた。
「俺、知らなかったから動いた」
彼は言った。
「知ってたら、動かなかったかもしれない」
かもしれない。
それで十分だった。
僕は、ピムが逃げるかもしれないと決めつけた。
怖がるかもしれないと考えた。
母親が取り乱すかもしれないと恐れた。
その全部が間違いとは限らない。
でも、だからといって、知らせないでいい理由にはならない。
ニナの時は、言うべきことを言わなかった。
今回は、伝えるべき相手に伝えなかった。
どちらも、僕が相手の恐怖を見るのを避けた結果だった。
ピムが怖がる顔を見たくなかった。
母親に責められるのが怖かった。
自分の言葉で子供の恐怖が現実になるのが嫌だった。
だから、隠した。
優しさのふりをして。
マルクが咳き込みながら、ピムを見る。
「袖を切ったので、反応は止まったはずです。少し息が苦しいなら、ゆっくり吸って、吐いて」
「先生、大丈夫なのかよ」
「君よりは」
「うそっぽい」
「薬師は多少うそをつきます」
「苦い薬を苦くないって言うやつ?」
「それです」
ピムが少しだけ笑った。
でも、すぐに僕を見る。
「リュカ」
「はい」
「次は言えよ」
その言葉は、セリアの叱責より短かった。
でも、同じくらい重かった。
「はい」
僕は答えた。
それが許しではないことは分かっている。
ピムはまだ震えている。
マルクは咳き込んでいる。
セリアは僕を許していない。
ニナにもまだ会えていない。
何も解決していない。
ただ一つだけ、分かった。
聞かせないことと、守ることは違う。
そして僕はまた、その違いを誰かの痛みで知った。




