第十八章 香りを売る店
夜明けは、来てしまった。
けれど、紙の上の殺人は終わっていない。
保管所の小会議室には、リナの髪紐と、ピムの袖口から取った湿った石粉が並べられていた。
マルク・レインは二つを見比べ、疲れた顔で言った。
「同じ系統ではありません。ですが、薬房の外から来たものです」
セリアが問う。
「出所の候補は?」
「香油商。染料商。葬儀用香料商。劇場用の眠り香を扱う店」
マルクは指を折って挙げた。
「香油商は香りを整える。染料商は布へ匂いを定着させる薬を使う。葬儀用香料商は、死者の匂いを抑える保存香を扱う。劇場用の眠り香は、舞台演出や催眠療法まがいの用途です」
「まがい?」
「まともな薬師は好みません」
言い方が珍しくきつかった。
「今回の匂いは、どれに近いですか」
「髪紐の方は、香油だけでは説明できません。ピムの袖の石粉は、湿気を抱えた石と香料が混ざっている。どちらも、葬儀用の保存香に近い」
葬儀。
その言葉だけで、部屋の温度が少し下がった気がした。
死者の匂いを隠す香り。
眠りと死の境目を曖昧にする甘さ。
リナの「息が狭くなる甘さ」が、急に別の意味を持って見えた。
「香油商ラウルに確かめます」
セリアが言った。
ラウルは以前手袋の男を見ていた。
そして、家族を守るために黙っていた。
彼にまた話を聞くのは、正直気が重かった。
でも事件は、気の重さで止まってくれない。
ラウルの店は、朝の光の中でも薄暗く見えた。
店先の香油瓶は整えられている。
ただ、入口の戸は半分閉じられ、開店しているのか分からない。
セリアが戸を叩く。
「王都監察官です」
しばらくして、ラウルが顔を出した。
髭は整っている。
だが目の下に隈があった。
「また、ですか」
「協力が必要です」
ラウルは奥を振り返った。
棚の影に、前にも見た小さな女の子がいた。
娘だろう。こちらを見て、すぐに隠れた。
ラウルは扉を少しだけ広げた。
「中へ。娘には近づかないでください」
「分かっています」
セリアは短く答えた。
店の中は、甘い匂いで満ちていた。
けれど、リナの髪紐やピムの袖口の匂いとは違う。
もっと整っている。
商品として、人に好かれるように作られた甘さだ。
僕は棚の瓶を見た。
以前一つだけ裏返っていた瓶は、今は正面を向いている。
けれど、その瓶だけ新しい傷が残っていた。
ラウルはそれに気づき、苦い顔をした。
「あの日から、あの瓶を見るたびに思い出します」
「手袋の男を?」
「ええ」
彼は両手を握った。
「話せば巻き込まれる。黙っていれば誰かが危ない。どちらを選んでも、家族が怖がる」
その声は、嘘をついている人の声ではなかった。
怖がっている人の声だった。
「ピムは保護しています」
セリアが言う。
ラウルの顔が動いた。
「あの子も?」
「名前を書かれました」
「……子供ばかりだ」
ラウルは吐き捨てるように言った。
怒りより、恐怖が強い声だった。
「確認したい匂いがあります」
マルクが封じた小皿を出した。
ピムの袖口から採取した石粉だ。
直接嗅がせることはせず、距離を取り、ラウルに種類の見当を尋ねる。
ラウルは慎重に確認した。
「うちの商品ではありません」
「断言できますか」
セリアが問う。
「ええ。私は香油を売ります。人にまとわせる香りです。これは違う。湿った石と、保存香の匂いが混じっている」
「保存香」
マルクが低く言う。
「葬儀用香料商ですか」
ラウルは頷いた。
「この辺りで扱うなら、カロス葬具店です。葬儀用の香油、棺の布、死者の匂いを抑える粉を売っている」
死者の匂いを抑える粉。
ピムの袖口の石粉。
壁の湿った粉。
眠りから戻らない、という紙片。
つながり方が、嫌だった。
「トマ・グランを知っていますか」
僕が聞くと、ラウルは目を伏せた。
「薬師見習いの子ですね」
「見ましたか」
「……見たかもしれません」
セリアの目が鋭くなる。
「曖昧な言い方ですね」
「確信がないんです。昨日の夕方、薬房の見習いらしき少年が、葬具店の方へ向かうのを見ました。急いでいました。顔色が悪かった」
「買い物に?」
「分かりません。手ぶらでした。戻ってきたかどうかも見ていません」
「なぜ言わなかった」
セリアの声は責めるものではない。
だが、逃げ道を塞ぐ声だ。
ラウルは奥の娘を見た。
「私は、これ以上関わりたくなかった」
正直な答えだった。
「でも、子供の名前がまた出た。なら……言わない方が怖い」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
言わない方が怖い。
僕も、それを知り始めている。
マルクは黙っていた。
トマが葬儀用香料商の方へ行った。
その事実は、彼にとって希望にも疑いにもなる。
「マルクさん」
僕が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「トマさんが保存香を買いに行った可能性は?」
「あります」
声が掠れていた。
「毒を作るために?」
「それも、あります」
マルクは拳を握った。
「ですが、あの子が匂いの正体を調べに行った可能性もある。誰かに呼び出された可能性もある」
「記録します」
僕は言った。
マルクは僕を見る。
「私はトマを信じたい。ですが、彼がその店に行ったなら、それも記録してください」
その言葉は重かった。
庇いたい。
でも隠さない。
以前のバルト主任と同じだ。
怖くても、壊れている場所を書く。
セリアがラウルに問う。
「カロス葬具店の伝票や荷札に、薬房関係の印を見たことは?」
「私は葬具店の伝票までは」
ラウルはそう言いかけて、止まった。
「いや」
「何ですか」
「一昨日、間違ってうちに届いた控えがあります。葬具店宛ての荷札が、香油商宛ての束に混ざっていた。返そうと思って、そのまま」
「見せてください」
ラウルは奥の棚から紙束を取り出した。
手が震えている。
娘が棚の影からこちらを見ていた。
ラウルは小さく言った。
「これで、私たちは狙われますか」
セリアはすぐには答えなかった。
嘘をつかない沈黙。
「可能性はあります」
ラウルの顔が強張る。
「ですが、保護対象として扱います。あなたと家族に不用意な証言を求めません。店の出入りも確かめます」
「……分かりました」
彼は荷札を差し出した。
僕は受け取り、机代わりのカウンターに広げる。
カロス葬具店。
保存香粉、棺布用香油、石灰粉。
配送日。数量。受取印。
そして、端に小さな印があった。
花の形。
不格好な花だ。
花びらの数が一枚多く、茎が少し曲がっている。
僕は息を止めた。
以前見た、トマの子供向け薬札。
リナの薬札に描かれていた花印。
同じ癖だった。
「これは」
マルクが荷札を見た瞬間、顔色を変えた。
「トマの花印です」
セリアが紙を見下ろす。
「葬儀用香料商の伝票に、トマの印がある」
トマは毒を買いに行ったのか。
匂いを調べに行ったのか。
誰かに呼び出されたのか。
まだ分からない。
ただ、トマと葬儀用香料商の接点は、もう偶然では済まなくなった。




