第十七章 袖に残った石粉
夜明け前まで、あと二十分を切っていた。
ピムと母親を連れて保管所へ戻ると、セリアはリナの保護室とは別の部屋を指定した。
「なぜ別々なんだい」
ピムの母親が言った。
声はまだ硬い。
当然だ。息子を守ると言われて連れてこられた場所は、彼女から見れば、息子が危険に巻き込まれた場所でもある。
「同じ手口を避けるためです」
セリアは答えた。
「保護対象を一箇所に集めれば、犯人にとって狙いやすくなります。リナ・ベルの部屋とは別にします」
「私も一緒に入る」
「確認作業中は、隣室で待機をお願いします。扉は開けたままにします。視界に入る距離です」
「離すのかい」
「ピムに付着物がないか確かめます。危険物があった場合、あなたにも触れる可能性があります」
母親は口を閉じた。
納得したというより、反論できる材料が減った顔だった。
ピムは腕を組んでいた。
袖を握る指だけが、妙に強い。
「俺、別に怖くねえし」
「誰も怖いとは言っていません」
セリアが言う。
「顔が言ってるんだよ」
「あなたの顔も、同じくらい言っています」
「言ってねえし」
ピムはそっぽを向いた。
「肉入り飯を出すって言っただろ。こんな部屋に入れる前に飯だろ」
「安全確認の後です」
「監察官って、子供を部屋に閉じ込める仕事なのか」
「違います」
「じゃあ何だよ」
「子供が閉じ込められたと思わないように、説明を続ける仕事でもあります」
ピムは返答に詰まった。
母親が小さく息を吐く。
少しだけ、警戒が薄れたように見えた。
別室は、保管所の東側にある小さな応接室だった。
窓は一つ。外からは届かない高さ。入口は一つ。廊下には職員が二人。隣室には母親が入る。
セリアは部屋に入る前に、職員へ短く指示した。
「飲食物は持ち込まない。布、紙、花、香油、薬草類も禁止。ピム本人の衣服と所持品を確認してから入室させます。母親への説明は継続してください。脅す必要はありません」
「はい」
「証言は今は取りません。安全確認を優先します」
ピムが眉を寄せる。
「証言いらないのかよ」
「今は」
「俺、役に立たないってこと?」
「違います」
セリアは少しだけ膝を折り、ピムと目線を近づけた。
「あなたは証言するための道具ではありません。今は、あなたが無事でいることが最優先です」
ピムは目を逸らした。
「……そういう言い方、ずるい」
「なぜ」
「文句言いにくい」
「それはよかった」
「よくねえよ」
ピムは生意気な顔を作っていた。
でも袖を握る指は、まだ離れない。
怖がる子ほど、強がる。
そう気づいた時、僕は以前のニナを思い出した。
彼女は袖を握っていた。自分の言葉を取り消す準備をしていた。
ピムは違う。
取り消すのではなく、強がりで覆っている。
けれど、手は同じように震えていた。
「ピム」
僕は言った。
「上着を確認してもいいですか」
「何で」
「危険なものが付いていないか見るためです」
「俺、汚くねえし」
「汚れの話ではありません」
「じゃあ何だよ」
僕は一瞬、言葉を選びかけた。
怖がらせないように。
遠回しに。
やわらかく。
でも、ピムはそれを嫌う。
「あなたが気づかないうちに、何かを付けられている可能性があります」
ピムの顔が固まった。
母親が隣室の入口から身を乗り出す。
「何かって」
「まだ分かりません」
僕は言った。
「だから確かめます」
セリアが僕を見る。
咎める目ではなかった。
ただ、今の言葉を記録している目だった。
ピムは渋々、上着を脱いだ。
「破くなよ。これ、母ちゃんが直したやつだからな」
「破きません」
「前に大人に預けたら、袖のところ裂かれた」
「誰に」
「市場の見回り。盗んだだろって言われた。盗んでねえのに」
母親の顔が険しくなる。
「その話はあとで」
「あとじゃなくてもいいだろ」
「今は命の話だ」
ピムは黙った。
こういう小さな記憶が、大人を信じない理由になる。
証言を取る時、それを忘れると、言葉は閉じる。
僕は上着を受け取り、机の上に広げた。
甘い匂いがした。
ほんのかすかに。
匂い袋の重い甘さではない。
髪紐の軽く鼻を刺す甘さでもない。
壁の石粉に近い。湿った石の奥に、甘さが沈んでいるような匂い。
「……匂いがあります」
僕は言った。
セリアがすぐに反応する。
「どこから」
「服全体ではありません。袖口です」
「右か左か」
「右です」
ピムが顔をしかめた。
「袖? 俺、壁なんか触ってねえぞ」
壁。
僕は薬房裏通りの路地を思い出した。
手袋の男が壁に手を押し当てた。
石壁の粉が一部だけ湿って固まっていた。
子供の目線なら見える高さ。
ピムはそれを見ていた。
でも、あの時ピムは壁に触っていない。
触らないようにセリアが指示した。
ピムも「触らねえよ。気持ち悪いし」と言っていた。
僕は袖口を裏返す。
布の縫い目に、灰色の粉が入り込んでいた。
乾いた粉ではない。少し湿って、布に貼りついている。
「石粉です」
僕は言った。
「薬房裏通りの壁に残っていたものと似ています」
「何の話だよ」
「すみません。内面の整理です」
「お前の頭、章でできてんの?」
「たぶん、紙でできています」
「弱そう」
「否定しにくいです」
ピムがほんの一瞬だけ笑いかけた。
でも、すぐに袖口を見る。
笑いは消えた。
「俺、本当に触ってねえ」
「分かっています」
僕は即答した。
「少なくとも、あの壁を確認した時には触っていません」
「じゃあ何で付いてんだよ」
答えられなかった。
セリアが職員へ言う。
「マルク・レインを呼んでください。封具も。ピムの上着はこの場で封じます」
「はい」
ピムが母親の方を見る。
「母ちゃん」
母親は隣室から出ようとしたが、セリアが片手で制した。
「近づかないでください。今は触れない方がいい」
「息子だよ」
「だからです」
セリアの声は厳しかった。
でも、母親を拒絶しているのではない。
「あなたまで危険に晒せば、ピムがさらに不安になります」
母親は唇を噛み、足を止めた。
「……ピム、そこにいな」
「分かってるよ」
ピムはそう言ったが、声はさっきより小さい。
マルクが到着した。
肩の包帯はまだ痛々しい。
それでも、薬師としての手つきは落ち着いていた。
「袖口ですか」
「はい。壁の石粉に似た成分です」
マルクは直接触れず、封具越しに粉を少量だけ確認した。
匂いを確かめ、皿に移し、壁の石粉の記録と照合する。
長い沈黙。
ピムは腕を組もうとして、上着がないことに気づき、代わりに自分のシャツの裾を握った。
「なあ、先生」
ピムが言った。
「俺、毒とかじゃねえよな」
マルクはすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって誠実だった。
「今は断定できません」
「それ、怖いやつじゃん」
「怖いものを、怖くないとは言いません」
マルクは言った。
「ただ、今すぐ症状が出ているわけではない。だから確かめます」
ピムは唇を噛んだ。
「大人って、ちゃんと言うともっと怖いんだな」
僕は小さく息を吐いた。
「そういう時もあります」
「じゃあ言わない方がよかった」
「いいえ」
僕は首を振った。
「知らないままの方が、もっと危ないこともあります」
その言葉を、自分に向けても言っていた。
マルクが袖口の粉を見つめたまま言った。
「この石粉は、あの壁を見た時についたものとは限りません」
セリアが目を細める。
「どういうことですか」
「壁の石粉と似ています。ただ、湿り方が違う。袖に付いたものの方が新しい。布の表面ではなく、縫い目に押し込まれている」
「つまり」
「むしろ、その後についた可能性があります」
部屋が静かになった。
その後。
ピムが壁を見た後。
僕たちが彼の証言を聞いた後。
保護する前。
つまり、ピムは一度狙われただけではない。
名前を書かれただけでもない。
すでに、二度目の接触を受けている可能性がある。
ピムの顔から、強がりが抜けた。
「……俺、いつ触られたんだよ」
その声は、子供の声だった。




