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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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17/21

第十七章 袖に残った石粉

 夜明け前まで、あと二十分を切っていた。


 ピムと母親を連れて保管所へ戻ると、セリアはリナの保護室とは別の部屋を指定した。


「なぜ別々なんだい」


 ピムの母親が言った。


 声はまだ硬い。

 当然だ。息子を守ると言われて連れてこられた場所は、彼女から見れば、息子が危険に巻き込まれた場所でもある。


「同じ手口を避けるためです」


 セリアは答えた。


「保護対象を一箇所に集めれば、犯人にとって狙いやすくなります。リナ・ベルの部屋とは別にします」


「私も一緒に入る」


「確認作業中は、隣室で待機をお願いします。扉は開けたままにします。視界に入る距離です」


「離すのかい」


「ピムに付着物がないか確かめます。危険物があった場合、あなたにも触れる可能性があります」


 母親は口を閉じた。


 納得したというより、反論できる材料が減った顔だった。


 ピムは腕を組んでいた。

 袖を握る指だけが、妙に強い。


「俺、別に怖くねえし」


「誰も怖いとは言っていません」


 セリアが言う。


「顔が言ってるんだよ」


「あなたの顔も、同じくらい言っています」


「言ってねえし」


 ピムはそっぽを向いた。


「肉入り飯を出すって言っただろ。こんな部屋に入れる前に飯だろ」


「安全確認の後です」


「監察官って、子供を部屋に閉じ込める仕事なのか」


「違います」


「じゃあ何だよ」


「子供が閉じ込められたと思わないように、説明を続ける仕事でもあります」


 ピムは返答に詰まった。


 母親が小さく息を吐く。

 少しだけ、警戒が薄れたように見えた。


 別室は、保管所の東側にある小さな応接室だった。

 窓は一つ。外からは届かない高さ。入口は一つ。廊下には職員が二人。隣室には母親が入る。


 セリアは部屋に入る前に、職員へ短く指示した。


「飲食物は持ち込まない。布、紙、花、香油、薬草類も禁止。ピム本人の衣服と所持品を確認してから入室させます。母親への説明は継続してください。脅す必要はありません」


「はい」


「証言は今は取りません。安全確認を優先します」


 ピムが眉を寄せる。


「証言いらないのかよ」


「今は」


「俺、役に立たないってこと?」


「違います」


 セリアは少しだけ膝を折り、ピムと目線を近づけた。


「あなたは証言するための道具ではありません。今は、あなたが無事でいることが最優先です」


 ピムは目を逸らした。


「……そういう言い方、ずるい」


「なぜ」


「文句言いにくい」


「それはよかった」


「よくねえよ」


 ピムは生意気な顔を作っていた。

 でも袖を握る指は、まだ離れない。


 怖がる子ほど、強がる。


 そう気づいた時、僕は以前のニナを思い出した。

 彼女は袖を握っていた。自分の言葉を取り消す準備をしていた。


 ピムは違う。

 取り消すのではなく、強がりで覆っている。


 けれど、手は同じように震えていた。


「ピム」


 僕は言った。


「上着を確認してもいいですか」


「何で」


「危険なものが付いていないか見るためです」


「俺、汚くねえし」


「汚れの話ではありません」


「じゃあ何だよ」


 僕は一瞬、言葉を選びかけた。


 怖がらせないように。

 遠回しに。

 やわらかく。


 でも、ピムはそれを嫌う。


「あなたが気づかないうちに、何かを付けられている可能性があります」


 ピムの顔が固まった。


 母親が隣室の入口から身を乗り出す。


「何かって」


「まだ分かりません」


 僕は言った。


「だから確かめます」


 セリアが僕を見る。

 咎める目ではなかった。


 ただ、今の言葉を記録している目だった。


 ピムは渋々、上着を脱いだ。


「破くなよ。これ、母ちゃんが直したやつだからな」


「破きません」


「前に大人に預けたら、袖のところ裂かれた」


「誰に」


「市場の見回り。盗んだだろって言われた。盗んでねえのに」


 母親の顔が険しくなる。


「その話はあとで」


「あとじゃなくてもいいだろ」


「今は命の話だ」


 ピムは黙った。


 こういう小さな記憶が、大人を信じない理由になる。

 証言を取る時、それを忘れると、言葉は閉じる。


 僕は上着を受け取り、机の上に広げた。


 甘い匂いがした。


 ほんのかすかに。


 匂い袋の重い甘さではない。

 髪紐の軽く鼻を刺す甘さでもない。

 壁の石粉に近い。湿った石の奥に、甘さが沈んでいるような匂い。


「……匂いがあります」


 僕は言った。


 セリアがすぐに反応する。


「どこから」


「服全体ではありません。袖口です」


「右か左か」


「右です」


 ピムが顔をしかめた。


「袖? 俺、壁なんか触ってねえぞ」


 壁。


 僕は薬房裏通りの路地を思い出した。


 手袋の男が壁に手を押し当てた。

 石壁の粉が一部だけ湿って固まっていた。

 子供の目線なら見える高さ。

 ピムはそれを見ていた。


 でも、あの時ピムは壁に触っていない。

 触らないようにセリアが指示した。

 ピムも「触らねえよ。気持ち悪いし」と言っていた。


 僕は袖口を裏返す。


 布の縫い目に、灰色の粉が入り込んでいた。

 乾いた粉ではない。少し湿って、布に貼りついている。


「石粉です」


 僕は言った。


「薬房裏通りの壁に残っていたものと似ています」


「何の話だよ」


「すみません。内面の整理です」


「お前の頭、章でできてんの?」


「たぶん、紙でできています」


「弱そう」


「否定しにくいです」


 ピムがほんの一瞬だけ笑いかけた。


 でも、すぐに袖口を見る。

 笑いは消えた。


「俺、本当に触ってねえ」


「分かっています」


 僕は即答した。


「少なくとも、あの壁を確認した時には触っていません」


「じゃあ何で付いてんだよ」


 答えられなかった。


 セリアが職員へ言う。


「マルク・レインを呼んでください。封具も。ピムの上着はこの場で封じます」


「はい」


 ピムが母親の方を見る。


「母ちゃん」


 母親は隣室から出ようとしたが、セリアが片手で制した。


「近づかないでください。今は触れない方がいい」


「息子だよ」


「だからです」


 セリアの声は厳しかった。


 でも、母親を拒絶しているのではない。


「あなたまで危険に晒せば、ピムがさらに不安になります」


 母親は唇を噛み、足を止めた。


「……ピム、そこにいな」


「分かってるよ」


 ピムはそう言ったが、声はさっきより小さい。


 マルクが到着した。


 肩の包帯はまだ痛々しい。

 それでも、薬師としての手つきは落ち着いていた。


「袖口ですか」


「はい。壁の石粉に似た成分です」


 マルクは直接触れず、封具越しに粉を少量だけ確認した。

 匂いを確かめ、皿に移し、壁の石粉の記録と照合する。


 長い沈黙。


 ピムは腕を組もうとして、上着がないことに気づき、代わりに自分のシャツの裾を握った。


「なあ、先生」


 ピムが言った。


「俺、毒とかじゃねえよな」


 マルクはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、かえって誠実だった。


「今は断定できません」


「それ、怖いやつじゃん」


「怖いものを、怖くないとは言いません」


 マルクは言った。


「ただ、今すぐ症状が出ているわけではない。だから確かめます」


 ピムは唇を噛んだ。


「大人って、ちゃんと言うともっと怖いんだな」


 僕は小さく息を吐いた。


「そういう時もあります」


「じゃあ言わない方がよかった」


「いいえ」


 僕は首を振った。


「知らないままの方が、もっと危ないこともあります」


 その言葉を、自分に向けても言っていた。


 マルクが袖口の粉を見つめたまま言った。


「この石粉は、あの壁を見た時についたものとは限りません」


 セリアが目を細める。


「どういうことですか」


「壁の石粉と似ています。ただ、湿り方が違う。袖に付いたものの方が新しい。布の表面ではなく、縫い目に押し込まれている」


「つまり」


「むしろ、その後についた可能性があります」


 部屋が静かになった。


 その後。


 ピムが壁を見た後。

 僕たちが彼の証言を聞いた後。

 保護する前。


 つまり、ピムは一度狙われただけではない。

 名前を書かれただけでもない。


 すでに、二度目の接触を受けている可能性がある。


 ピムの顔から、強がりが抜けた。


「……俺、いつ触られたんだよ」


 その声は、子供の声だった。

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