第十六章 名前を知られた子供
夜明け前まで、あと二十五分。
保管所の搬入口に残された紙片は、封箱に収められていた。
――少年ピム・ロウは、夜明け後、眠りから戻らない。
正式な罪状記録ではない。
受理印もない。文書番号もない。紙質も粗い。
それでも、僕たちは走った。
セリア、僕、保管所の職員二名。
必要最低限の人数だけで、ピムの家へ向かう。
王都の東の空は、まだ黒い。
けれど、完全な夜ではなくなっていた。建物の縁がうっすら灰色に浮かび、遠くで朝市の準備を始める音がする。
夜明けが近い。
その事実が、足音を急かした。
「エルム」
前を歩くセリアが言った。
「ピムには危険を隠しません」
「はい」
「ただし、脅さない」
「はい」
「前回のように遠回しにして、本人が理解できない説明にするのも違います」
胸に刺さる。
「……はい」
セリアは振り返らなかった。
まだ、彼女との距離は戻っていない。
当然だ。
ニナはまだ隔離されている。
僕の訂正報告も、まだ提出されていない。
僕は一つ事実を言えたが、それで何もかもが帳消しになったわけではない。
ただ今は、ピムを守らなければならない。
ピム・ロウの家は、薬房裏通りから少し離れた狭い路地にあった。
木造の小さな家。窓には薄い布が掛けられ、軒下に洗濯物が干されている。
セリアが扉を叩く。
中で物音がした。
「誰だい、こんな時間に」
低い女の声。
「王都監察官セリア・フォールです。ピム・ロウの保護について話があります」
扉が細く開いた。
顔を出したのは、痩せた女性だった。
年は三十代半ばくらい。髪を乱雑に結び、片手に火かき棒を持っている。
目が鋭い。
「保護?」
女性はセリアを見て、次に僕を見た。
「うちの子に、また何をさせる気だい」
責める声だった。
セリアは一歩下がった。
相手の家へ踏み込まない距離。
「証言を求めに来たのではありません。命を守るためです」
「命?」
家の奥から、少年の声が飛んできた。
「母ちゃん、誰だよ」
ピムが顔を出した。
寝起きなのか、髪が跳ねている。
けれど目だけはすぐに警戒へ変わった。
「げ。監察官」
「げ、ではありません」
セリアが言う。
「あなたを保護します」
「は?」
ピムは一瞬ぽかんとした。
次に、顔を真っ赤にした。
「俺が何か悪いことしたのか」
「していません」
セリアは即答した。
「なら何で保護なんだよ。大人に話したから罰を受けるのか」
「罰ではありません」
「証言したら閉じ込められるのかよ」
ピムの母親の顔が険しくなる。
「どういうことです、監察官様」
様、という言い方に棘があった。
「うちの子は昨日、あんたたちに話をした。それで今度は保護? 危険に巻き込んだのはそちらじゃないのかい」
その言葉は正しい。
少なくとも、母親から見れば。
ピムは手袋の男を見た。
僕たちはその証言を聞いた。
そして今、ピムの名前が書かれた紙片が出た。
因果がどうであれ、危険はピムへ向いている。
セリアは否定しなかった。
「あなたの不信は当然です」
母親が少しだけ目を細める。
「ですが、今は時間がありません。ピム・ロウの名前が書かれた脅迫文に近い紙片が、保管所の搬入口に置かれました」
「脅迫?」
ピムが強がった顔のまま、目だけを揺らした。
「何て書いてあった」
セリアは答える前に、母親を見た。
「隠して安心させることはしません。ただし、必要以上に怖がらせる言い方もしません」
母親は火かき棒を握る手に力を入れた。
「言いなさい」
「“少年ピム・ロウは、夜明け後、眠りから戻らない”」
部屋の中が静かになった。
ピムの顔から、血の気が引く。
でも、彼はすぐに口を尖らせた。
「はっ。何だよそれ。俺、寝起き悪いだけだし」
「ピム」
母親が鋭く呼ぶ。
「強がるんじゃない」
「強がってねえし」
「唇が震えてる」
「寒いだけだ」
「家の中だよ」
ピムは黙った。
セリアはそこで、少し声を柔らかくした。
「保護は罰ではありません。証言を引き出すためでもありません。あなたが巻き込まれた子供だから、命を守るために行います」
「子供子供って言うなよ」
「では、巻き込まれた人」
「それも嫌だ」
「要求が多いですね」
ピムは一瞬だけ、昨日のように生意気な顔をした。
「肉入り飯もまだだしな」
「手配します」
「ほんとかよ」
「本当です」
「可能なら、とか言わないんだ」
「学習しました」
ピムが少しだけ目を丸くした。
そのやり取りで、母親の表情もわずかに緩んだ。
だが警戒は消えない。
「連れていくなら、私も行く」
「可能です」
セリアは即答した。
「ただし、安全確認のため、別室待機になる場合があります。面会条件は明示します。あなたにも説明を続けます」
「説明を続ける?」
「保護という名で黙らせることはしません」
その言葉に、僕は胸の奥を掴まれた。
黙らせることはしない。
ニナに対して、僕は何をしたのか。
ピムが僕を見る。
「おい、リュカ」
「はい」
「俺、帰れるのか?」
「それは……状況確認と安全確保が済めば」
「何言ってるか分かんねえ」
即答だった。
僕は詰まった。
「つまり、危険が取り除かれれば」
「だから、それが分かんねえって。帰れるか帰れないか聞いてんだよ」
その質問は単純だ。
でも、単純な答えが難しい。
帰れる、と言えば嘘になるかもしれない。
帰れない、と言えば怖がらせる。
保護する、と言えば閉じ込めるように聞こえる。
僕は言葉を選ぶ。
選びすぎる。
「ピムさんの安全を確認するため、一時的に保管所で待機してもらう必要があります。これは罰ではなく、あくまで危険が」
「ほら出た」
ピムが僕を指さした。
「大人の言い方って、逃げ道ばっかだな」
息が止まった。
「怖いなら怖いって言えよ。危ないなら危ないって言えよ。何でぐるぐる言うんだよ」
怒らなかった。
怒れなかった。
その言葉は、まっすぐだった。
「……危ないです」
僕は言った。
ピムは目を細める。
「俺が?」
「はい」
「何で」
「あなたが、手袋の男を見たからです。あなたの証言が、相手にとって都合が悪いから」
「じゃあ俺、悪いことしたんじゃん」
「違います」
今度は即答できた。
「見たことを話したのは、悪いことではありません」
「でも、そのせいで狙われるんだろ」
「狙う相手が悪い」
「でも、狙われるのは俺だ」
その言葉に、返事が詰まった。
正しさは、危険を消してくれない。
セリアが前へ出た。
「その通りです」
母親が顔を上げる。
「あなたが悪いわけではない。けれど危険はあなたへ向いている。だから私たちは、あなたの意思を聞いたうえで、守る方法を決めます」
「意思?」
ピムが疑わしそうに言う。
「俺が嫌だって言ったら?」
「それでも、あなたが危険な場所へ戻ることは認めません」
「じゃあ聞いてないじゃん」
「聞くことと、全て希望通りにすることは違います」
セリアの声は静かだった。
「あなたを物のように運ぶつもりはありません。ですが、危険を知りながら放置することもできません」
ピムは母親を見る。
母親は火かき棒を下ろしていた。
「行きな、ピム」
「母ちゃん」
「私も行く。あんた一人にはしない」
「でも」
「でもじゃない。あんたが見たことを話したのは悪いことじゃない。悪いのは、子供を脅す奴だ」
ピムは唇を噛んだ。
生意気な顔が、少しだけ崩れる。
「……肉入り飯、ほんとに出る?」
セリアが頷く。
「出します」
「母ちゃんの分も」
「手配します」
「リュカの分はいらない」
「なぜですか」
「説明が長いから」
「食事量と説明量は関係ないと思います」
「ある」
母親が、ほんの少し笑った。
その笑いで、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
ピムは小さな袋に着替えを詰め始めた。
母親はその横で、上着を羽織る。
その時、ピムがふと手を止めた。
「そういえば」
僕とセリアが同時に彼を見る。
ピムは嫌そうな顔をした。
「何だよ。その顔やめろよ。思い出しただけだって」
「何を?」
僕が聞く。
「手袋の男」
部屋の空気が変わった。
「あの時、壁に手を押し当てた男ですか」
「何の話だよ」
「すみません。僕の内面整理です」
「またかよ」
セリアが僕を見る。
「エルム」
「はい。やめます」
ピムは眉を寄せながら続けた。
「あいつ、壁に手を当てたあと、こっち見たんだ」
「見られたと分かっていた?」
「たぶん。暗かったけど、顔はこっち向いてた」
「何か言った?」
ピムは少し黙った。
強がりが、表情から抜けていく。
「言った」
声が小さくなる。
「ピム・ロウ」
僕は息を止めた。
ピムは、自分の肩を抱くように腕を組んだ。
「“ピム・ロウ。お前はよく見る目をしてるな”って」
母親が口元を押さえた。
セリアの目が鋭くなる。
手袋の男は、ピムを偶然見られた子供として扱っていない。
名前を知っていた。
見ていたことも知っていた。
最初から、把握していた。
ピムは笑おうとして、失敗した。
「なあ」
彼は僕を見た。
「俺、ほんとに何も悪いことしてないよな?」
僕は今度こそ、迷わず言った。
「していません」
でもその答えだけでは、ピムの恐怖は消えなかった。
夜明け前まで、あと二十分。
犯人は、証言者の名前まで記録していた。




