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世界は僕の嘘を記録していた ―生きている少女の毒殺記録―  作者: 紫護切嫁
第一部 毒殺記録はまだ閉じていない

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16/19

第十六章 名前を知られた子供

 夜明け前まで、あと二十五分。


 保管所の搬入口に残された紙片は、封箱に収められていた。


 ――少年ピム・ロウは、夜明け後、眠りから戻らない。


 正式な罪状記録ではない。

 受理印もない。文書番号もない。紙質も粗い。


 それでも、僕たちは走った。


 セリア、僕、保管所の職員二名。

 必要最低限の人数だけで、ピムの家へ向かう。


 王都の東の空は、まだ黒い。

 けれど、完全な夜ではなくなっていた。建物の縁がうっすら灰色に浮かび、遠くで朝市の準備を始める音がする。


 夜明けが近い。


 その事実が、足音を急かした。


「エルム」


 前を歩くセリアが言った。


「ピムには危険を隠しません」


「はい」


「ただし、脅さない」


「はい」


「前回のように遠回しにして、本人が理解できない説明にするのも違います」


 胸に刺さる。


「……はい」


 セリアは振り返らなかった。


 まだ、彼女との距離は戻っていない。

 当然だ。


 ニナはまだ隔離されている。

 僕の訂正報告も、まだ提出されていない。

 僕は一つ事実を言えたが、それで何もかもが帳消しになったわけではない。


 ただ今は、ピムを守らなければならない。


 ピム・ロウの家は、薬房裏通りから少し離れた狭い路地にあった。

 木造の小さな家。窓には薄い布が掛けられ、軒下に洗濯物が干されている。


 セリアが扉を叩く。


 中で物音がした。


「誰だい、こんな時間に」


 低い女の声。


「王都監察官セリア・フォールです。ピム・ロウの保護について話があります」


 扉が細く開いた。


 顔を出したのは、痩せた女性だった。

 年は三十代半ばくらい。髪を乱雑に結び、片手に火かき棒を持っている。


 目が鋭い。


「保護?」


 女性はセリアを見て、次に僕を見た。


「うちの子に、また何をさせる気だい」


 責める声だった。


 セリアは一歩下がった。

 相手の家へ踏み込まない距離。


「証言を求めに来たのではありません。命を守るためです」


「命?」


 家の奥から、少年の声が飛んできた。


「母ちゃん、誰だよ」


 ピムが顔を出した。


 寝起きなのか、髪が跳ねている。

 けれど目だけはすぐに警戒へ変わった。


「げ。監察官」


「げ、ではありません」


 セリアが言う。


「あなたを保護します」


「は?」


 ピムは一瞬ぽかんとした。

 次に、顔を真っ赤にした。


「俺が何か悪いことしたのか」


「していません」


 セリアは即答した。


「なら何で保護なんだよ。大人に話したから罰を受けるのか」


「罰ではありません」


「証言したら閉じ込められるのかよ」


 ピムの母親の顔が険しくなる。


「どういうことです、監察官様」


 様、という言い方に棘があった。


「うちの子は昨日、あんたたちに話をした。それで今度は保護? 危険に巻き込んだのはそちらじゃないのかい」


 その言葉は正しい。


 少なくとも、母親から見れば。


 ピムは手袋の男を見た。

 僕たちはその証言を聞いた。

 そして今、ピムの名前が書かれた紙片が出た。


 因果がどうであれ、危険はピムへ向いている。


 セリアは否定しなかった。


「あなたの不信は当然です」


 母親が少しだけ目を細める。


「ですが、今は時間がありません。ピム・ロウの名前が書かれた脅迫文に近い紙片が、保管所の搬入口に置かれました」


「脅迫?」


 ピムが強がった顔のまま、目だけを揺らした。


「何て書いてあった」


 セリアは答える前に、母親を見た。


「隠して安心させることはしません。ただし、必要以上に怖がらせる言い方もしません」


 母親は火かき棒を握る手に力を入れた。


「言いなさい」


「“少年ピム・ロウは、夜明け後、眠りから戻らない”」


 部屋の中が静かになった。


 ピムの顔から、血の気が引く。


 でも、彼はすぐに口を尖らせた。


「はっ。何だよそれ。俺、寝起き悪いだけだし」


「ピム」


 母親が鋭く呼ぶ。


「強がるんじゃない」


「強がってねえし」


「唇が震えてる」


「寒いだけだ」


「家の中だよ」


 ピムは黙った。


 セリアはそこで、少し声を柔らかくした。


「保護は罰ではありません。証言を引き出すためでもありません。あなたが巻き込まれた子供だから、命を守るために行います」


「子供子供って言うなよ」


「では、巻き込まれた人」


「それも嫌だ」


「要求が多いですね」


 ピムは一瞬だけ、昨日のように生意気な顔をした。


「肉入り飯もまだだしな」


「手配します」


「ほんとかよ」


「本当です」


「可能なら、とか言わないんだ」


「学習しました」


 ピムが少しだけ目を丸くした。


 そのやり取りで、母親の表情もわずかに緩んだ。

 だが警戒は消えない。


「連れていくなら、私も行く」


「可能です」


 セリアは即答した。


「ただし、安全確認のため、別室待機になる場合があります。面会条件は明示します。あなたにも説明を続けます」


「説明を続ける?」


「保護という名で黙らせることはしません」


 その言葉に、僕は胸の奥を掴まれた。


 黙らせることはしない。


 ニナに対して、僕は何をしたのか。


 ピムが僕を見る。


「おい、リュカ」


「はい」


「俺、帰れるのか?」


「それは……状況確認と安全確保が済めば」


「何言ってるか分かんねえ」


 即答だった。


 僕は詰まった。


「つまり、危険が取り除かれれば」


「だから、それが分かんねえって。帰れるか帰れないか聞いてんだよ」


 その質問は単純だ。

 でも、単純な答えが難しい。


 帰れる、と言えば嘘になるかもしれない。

 帰れない、と言えば怖がらせる。

 保護する、と言えば閉じ込めるように聞こえる。


 僕は言葉を選ぶ。

 選びすぎる。


「ピムさんの安全を確認するため、一時的に保管所で待機してもらう必要があります。これは罰ではなく、あくまで危険が」


「ほら出た」


 ピムが僕を指さした。


「大人の言い方って、逃げ道ばっかだな」


 息が止まった。


「怖いなら怖いって言えよ。危ないなら危ないって言えよ。何でぐるぐる言うんだよ」


 怒らなかった。


 怒れなかった。


 その言葉は、まっすぐだった。


「……危ないです」


 僕は言った。


 ピムは目を細める。


「俺が?」


「はい」


「何で」


「あなたが、手袋の男を見たからです。あなたの証言が、相手にとって都合が悪いから」


「じゃあ俺、悪いことしたんじゃん」


「違います」


 今度は即答できた。


「見たことを話したのは、悪いことではありません」


「でも、そのせいで狙われるんだろ」


「狙う相手が悪い」


「でも、狙われるのは俺だ」


 その言葉に、返事が詰まった。


 正しさは、危険を消してくれない。


 セリアが前へ出た。


「その通りです」


 母親が顔を上げる。


「あなたが悪いわけではない。けれど危険はあなたへ向いている。だから私たちは、あなたの意思を聞いたうえで、守る方法を決めます」


「意思?」


 ピムが疑わしそうに言う。


「俺が嫌だって言ったら?」


「それでも、あなたが危険な場所へ戻ることは認めません」


「じゃあ聞いてないじゃん」


「聞くことと、全て希望通りにすることは違います」


 セリアの声は静かだった。


「あなたを物のように運ぶつもりはありません。ですが、危険を知りながら放置することもできません」


 ピムは母親を見る。


 母親は火かき棒を下ろしていた。


「行きな、ピム」


「母ちゃん」


「私も行く。あんた一人にはしない」


「でも」


「でもじゃない。あんたが見たことを話したのは悪いことじゃない。悪いのは、子供を脅す奴だ」


 ピムは唇を噛んだ。


 生意気な顔が、少しだけ崩れる。


「……肉入り飯、ほんとに出る?」


 セリアが頷く。


「出します」


「母ちゃんの分も」


「手配します」


「リュカの分はいらない」


「なぜですか」


「説明が長いから」


「食事量と説明量は関係ないと思います」


「ある」


 母親が、ほんの少し笑った。


 その笑いで、張りつめていた空気が少しだけほどけた。


 ピムは小さな袋に着替えを詰め始めた。

 母親はその横で、上着を羽織る。


 その時、ピムがふと手を止めた。


「そういえば」


 僕とセリアが同時に彼を見る。


 ピムは嫌そうな顔をした。


「何だよ。その顔やめろよ。思い出しただけだって」


「何を?」


 僕が聞く。


「手袋の男」


 部屋の空気が変わった。


「あの時、壁に手を押し当てた男ですか」


「何の話だよ」


「すみません。僕の内面整理です」


「またかよ」


 セリアが僕を見る。


「エルム」


「はい。やめます」


 ピムは眉を寄せながら続けた。


「あいつ、壁に手を当てたあと、こっち見たんだ」


「見られたと分かっていた?」


「たぶん。暗かったけど、顔はこっち向いてた」


「何か言った?」


 ピムは少し黙った。


 強がりが、表情から抜けていく。


「言った」


 声が小さくなる。


「ピム・ロウ」


 僕は息を止めた。


 ピムは、自分の肩を抱くように腕を組んだ。


「“ピム・ロウ。お前はよく見る目をしてるな”って」


 母親が口元を押さえた。


 セリアの目が鋭くなる。


 手袋の男は、ピムを偶然見られた子供として扱っていない。

 名前を知っていた。

 見ていたことも知っていた。


 最初から、把握していた。


 ピムは笑おうとして、失敗した。


「なあ」


 彼は僕を見た。


「俺、ほんとに何も悪いことしてないよな?」


 僕は今度こそ、迷わず言った。


「していません」


 でもその答えだけでは、ピムの恐怖は消えなかった。


 夜明け前まで、あと二十分。


 犯人は、証言者の名前まで記録していた。

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