2度目のクリスマスと無人の段ボール小屋
七十歳を過ぎた老人の体で一人、路上で生き抜く日々は、三十代の頃とは比べ物にならないほど過酷だった。
少し歩くだけで息が上がり、重い荷物を持てばすぐに腰や膝が悲鳴を上げる。
僕は拾い集めたボロボロの自転車にカゴを括り付け、毎朝まだ薄暗いうちから繁華街のゴミ捨て場を巡った。アルミ缶を一つひとつ足で踏み潰し、大きなビニール袋に詰めていく。少しでも多く集めようと無理をすると、すぐに背中がギックリと痛んで動けなくなった。
「おう、こうさん。今日は随分と大漁じゃねえか」
資源ゴミの回収業者のトラックの前で、顔見知りのホームレスが声をかけてくる。
「いやぁ、まだまだですよ。最近は若い連中も多くて、足が遅いとすぐ取られちゃいますから」
僕はシワだらけの顔をほころばせ、愛想笑いを浮かべて答えた。
週末は、公園で行われる炊き出しの列に何時間も並んだ。
プラスチックのお椀に注がれた湯気だつ豚汁をすすりながら、ブルーシートの上に集まったおっちゃんたちと肩を寄せ合う。
「今年の冬はやけに冷え込みやがるな。凍え死んじまうよ」
「おいおい、そんな縁起でもねえこと言うなよ。そういや、あそこのスーパーの裏口、最近捨ててある段ボールの質がいいぜ。二重構造で風を通さねえんだ」
そんな取るに足らない世間話に混ざり、僕も「へえ、それはいいですね」なんて相槌を打って笑い合った。
十歳の小学生だった僕が、いつの間にか「七十代の身元不明のホームレス」として、この街の底辺の社会にすっかり馴染んでしまっている。その事実はひどく滑稽で、悲しかった。
周りのおっちゃんたちとタバコの吸い殻を分け合い、談笑していても、僕の目的はただ一つだった。少しでもお金を貯めることだ。
シワだらけの冷たい手の中で、泥まみれの十円玉や百円玉が少しずつ増えていくのを見つめる度、僕はあの約束を思い出していた。
『来年のクリスマスには、うまいハンバーグ、奢ってやるよ』
シゲさんはあの日、泣いていた僕の頭を撫でてそう言ってくれた。
本当ならシゲさんに奢ってもらうはずだったけれど、今の僕はもう「三十代のこうちゃん」ではない。だからせめて、僕の方からその約束を果たしたかった。
そして、あの日から一年。
街が浮き足立ち、煌びやかなイルミネーションが夜を彩る「二度目のクリスマス」がやってきた。
僕は一年がかりで集めた空き缶のお金を両手に握りしめ、スーパーで少し高価なパウチのデミグラスハンバーグを二つ買った。レンジで温めなくても、湯煎するだけで食べられる本格的なものだ。
ハンバーグの入ったレジ袋を提げ、僕は弾むような、それでいてひどく重い足取りで、あの高架下へと向かった。
冷たい風が吹き抜けるいつもの裏道。
遠くから見つめるシゲさんの段ボール小屋は、そこにあった。けれど、何かがおかしかった。
屋根代わりのブルーシートは半分剥がれかけ、入り口を塞いでいたガムテープは無残に破れている。人の気配が、全くしないのだ。
「……シゲさん?」
カスカスに枯れた声で呼びかけながら、そっと中を覗き込む。
空っぽだった。シゲさんがいつも被っていた毛布も、あの古びた携帯ラジオも、何もない。ただ、埃っぽい冷たい風が吹き抜けていくだけだった。
「おい、じいさん。そこで何してんだ」
不意に背後から声をかけられた。見ると、少し離れた場所に座っていた別のホームレスの男だった。去年のクリスマス、一緒にワンセグテレビを見ていた顔見知りだ。
「あの……ここにいた、シゲさんは……」
「シゲ? ああ、シゲならもういねえよ」
男は吐き捨てるように言い、シケたタバコに火をつけた。
「秋口に急に冷え込んだ日があったろ。あの辺りから、また急に肺を悪くしてな。……あっけなかったよ。救急車が来た時には、もう手遅れだった」
頭を、ハンマーで殴られたような衝撃が走った。
「肺を、悪くして……?」
「ああ。一時期は嘘みたいに元気になってたんだけどな。やっぱり、こんな路上で寝起きしてちゃあ、どうにもなんねえってことさ。……小屋だけ残ってんのも不気味だし、明日には市役所の連中が片付けに来るんじゃねえか」
男はそれだけ言うと、興味を失ったように背を向けた。
僕はその場に、力なくへたり込んだ。
僕が差し出した何十年という時間は、シゲさんをこの過酷な世界に、たった一年間引き留めただけだったのだ。
奇跡の力を使っても、結局シゲさんを救うことはできなかった。僕の世界からは、本当のパパとママだけでなく、たった一人の「お父さん」までもが、完全に消え去ってしまった。
僕は無人になった段ボール小屋の中に這いつくばるようにして入り込んだ。
かすかに、シゲさんが吸っていたタバコの匂いが残っているような気がした。
「……シゲ、さん」
僕はレジ袋から、二つのパウチハンバーグを取り出した。
一つは自分の分。もう一つは、シゲさんの分だ。
僕は冷たいパウチの封を切り、そのまま手掴みで一口かじった。高級なデミグラスソースの味が、ひんやりと舌に広がる。
「……美味しいよ、シゲさん」
誰もいない暗闇に向かって、一人で呟いた。
自分の分を飲み込み、そして、シゲさんが食べるはずだったもう一つのハンバーグの封を切る。
「……奢るって、約束……したじゃないか……」
シゲさんの分のハンバーグを口に押し込む。
ポロポロと、干からびた目から久しぶりに涙が溢れ出した。涙は冷たいハンバーグのソースと混ざり合い、ひどくしょっぱくて、泥のような味がした。
街のどこかから、楽しげなクリスマスの音楽が聞こえてくる。
僕はたった一人、シゲさんの残した空っぽの小屋の中で、冷たい二つのハンバーグを、喉を詰まらせながら最後まで平らげた。




