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誰も知らない僕の本当の名前  作者: ユタカ
誰も知らない僕の本当の名前

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9/26

偽りの理解者と、奪われた最後の時間

サスペンス小説「栗原様を釈放せよ。」

ダークハイファンタジー小説

完結「断然のプラットホーム 遮断機の向こう側」


日常ドタバタコメディ 「目下捜索中です」こちらも公開中ですのでよろしければご覧下さい

シゲさんを失い、どうしていいか分からず抜け殻のように路上での生活に戻ったある日のことだった。

いつものように重い足を引きずり、繁華街の裏路地でアルミ缶を拾い集めていた時。背後から不意に声がした。

「……君、本当は『竹原聖』くんだろう?」

その言葉に、僕は心臓を氷の刃で貫かれたように激しく動揺した。

「あ……う……」

持っていたゴミ袋を取り落とし、アルミ缶がガチャガチャンとけたたましい音を立てて路地に散らばる。誰にも知られるはずのない本当の名前を呼ばれ、僕はガタガタと激しく震えながら振り返った。

男は山川やまかわという五十代のボランティア職員だった。週末の炊き出しで何度か顔を合わせたことのある、人の良さそうな笑顔を浮かべるおじさんだ。

山川さんは怯える僕の隣にしゃがみ込むと、持っていたコンビニのレジ袋から、ホカホカと湯気を立てる温かいハンバーグ弁当を取り出し、僕のシワだらけの手に握らせた。

「お腹、空いてるだろう。食べて。……これ、シゲさんの代わり」

「え……?」

「シゲさん、よく僕に話してくれたんだ。『クリスマスに、こうちゃんに美味いハンバーグを奢る約束をしてるんだ』って。彼は最後まで、君のことを気にかけていたよ」

その温かいお弁当の熱と、シゲさんの約束を知っているという事実に、僕は声を上げて泣き崩れた。

「驚かせてごめんよ。……でも、今の君の反応を見て確信した。やはり、そうだったんだね」

山川さんは、僕の背中を優しくさすりながら静かに語り始めた。

彼は、一年前の冬、新宿駅のコンコースでボランティア活動をしていた。そこで、三十代くらいのホームレスの男が、募金活動をしていた女性(僕のママだ)の指の怪我を、触れただけで治してしまったのを偶然目撃していたのだという。

「それから、シゲさんからも聞いたんだ。一緒にいた『こうちゃん』が消えたのと引き換えに、自分の末期の肺の病気が治って、代わりに身元不明の老人が現れたって」

山川さんは懐から、一枚のくしゃくしゃになった紙切れを取り出した。そこには、シワだらけになった僕の顔の特徴を捉えた、手描きの似顔絵が描かれていた。

「シゲさんに何度も話を聞いて、君の似顔絵を描いたんだ。それを頼りに、炊き出しやアルミ缶拾いのルートを回って、ずっと君を探していたんだよ」

「ぼ、くを……?」

「一年前、友達の交通事故の直後に行方をくらました十歳の少年。新宿で母親の傷を治した三十代の男。そして、シゲさんの肺を治して老人になった君……。全部、同じ人間なんだろう?」

信じてくれた。パパもママも分かってくれなかった僕の秘密を、この人だけは似顔絵まで描いて探し出し、本当の僕を見つけてくれたのだ。シゲさんの友達なら、絶対に悪い人なわけがない。

「君は、優しすぎるんだよ」

山川さんは、泣きじゃくる僕に同情するような目を向けた。

「でも、これ以上力を使ったら君は死んでしまう。これは一種の『病気』だ。……実は、僕は名医を知っているんだ。その先生に君を見せれば、きっと元の十歳の姿に戻してくださる」

「ほ、ほんとう、ですか……!?」

元の姿に戻れる。パパとママの元に帰れる。

その甘い言葉に、僕はすがりつくように何度も頷いた。

「ああ、約束するよ。ただ、その名医は海外にいてね。事前に君の『病状』、つまり能力がどう発動するのかを動画で撮影して送る必要があるんだ」

そう言って、山川さんは困ったように眉を下げた。

「実は、うちの娘が友達と喧嘩をして、顔をひどく殴られてしまってね。ちょうどいいと言ったら不謹慎だが……撮影も兼ねて、最後に一度だけ、僕の娘を治してくれないか」

僕を信じてくれた、シゲさんの友達の頼みだ。僕は疑うことなんて一切せず、彼についていくことにした。

連れて行かれたのは、駅前の古びたビジネスホテルの一室だった。

ベッドの上には、顔に湿布とガーゼを貼った若い女性が不機嫌そうにスマホをいじっていた。山川さんの十八歳になる一人娘だという。彼女はモデルを目指していたが、友達の彼氏を寝取ったことで恨みを買い、顔が腫れ上がるほど殴られ、唇も切ってしまったらしい。

「ちょっとパパ、遅いんだけど! つか、何この汚いジジイ。マジで臭いしキモい。こんなのに触られんの?」

娘さんは僕を見るなり、鼻をつまんで露骨に顔をしかめ、吐き捨てるように言った。

山川さんは「まあいいから」と娘をなだめ、部屋の隅に三脚を立ててスマートフォンのカメラを僕たちに向けた。

「じゃあ、お願いできるかな。動画はしっかり先生に送るからね」

僕はベッドの横に座り込み、暴言を吐く娘さんの腫れ上がった頬を両手でそっと包み込んだ。

治って。元通りになって。

祈りを込めて、力を使った。致命傷ではないとはいえ、他人の顔の傷を完全に治すのだ。また僕の命が削り取られていく感覚があった。

「あ……が、ぁ……」

僕の口から、ポロリと硬いものがこぼれ落ちた。奥歯が一本、抜けたのだ。

視界がチカチカと点滅し、呼吸が苦しくなる。顔のシワはさらに深く刻まれ、首筋の皮膚が薄くたるんでいく。ほんの数分前と同じ老人の姿のはずなのに、鏡を見なくても、自分が明らかに「さっきよりもひどく老いぼれた」ことが分かった。

「う、うわぁ……!」

カメラを構えていた山川さんの驚く声が聞こえた。

「え、何? ……うそっ、ヤバ!!」

ベッドの上で娘さんが手鏡を覗き込み、顔のガーゼを乱暴に剥がした。

その顔には赤みも腫れも、傷一つ残っていなかった。いや、それどころか、山川さんが言っていた「つり目で団子っ鼻」という元の顔の面影すら跡形もなく消え去り、まるで別人のように整った美しい顔立ちへと変貌していたのだ。僕の力が、彼女の顔の造作の欠点すらも「治癒」してしまったらしい。

「……えっ? 嘘……これ、私……?」

娘さんは手鏡に顔を近づけ、震える手で自分の鼻筋や二重まぶたを何度も撫で回した。

「ヤバい……ヤバイヤバイヤバイ! パパ見てよこれ!! 鼻の形も変わってるし、目もめっちゃ大きくなってる! 腫れが引いたどころじゃない、私、信じられないくらい美人になってるじゃん!!」

先ほどまでのふてくされた態度はどこへやら、娘さんは狂乱したように歓声を上げ、手鏡の中の自分にうっとりと見入っていた。

「キャハハッ、これなら絶対モデルになれる! どんなオーディションだって余裕じゃん!!」

大はしゃぎする娘の声を聞きながら、山川さんはスマートフォンの録画を止めた。抜け落ちた歯と混濁した視界で息を切らしている僕のことなど一切見ず、娘の美しい顔を恍惚とした表情で見つめている。

「すごい……マジかよ。これなら絶対にいけるぞ!」

「あ、の……せん、せい、に……」

僕が血の混じった唾を吐き出しながら、震える手を伸ばす。

元の姿に、十歳の僕に戻して。パパとママに会わせて。

山川さんは娘の手を引いて立ち上がり、僕を見下ろした。

その顔には、先ほどハンバーグを差し出してくれた時の優しい笑顔はなく、ただ欲深い大人の冷たい笑みが張り付いていた。

「動画は送っておくよ。先生からは、後日連絡するように伝えておく」

そう言うと、山川さんは財布から無造作に一万円札を一枚抜き出し、ベッドの上にポイと放り投げた。

「ほら、これ。手間賃だ。美味いもんでも食いな」

「え……? れん、らく先、は……?」

僕の掠れた声を無視して、山川さんは振り返りもせず、娘と共に部屋を出て行った。

バタン、と無情なドアの音が響く。

薄暗いビジネスホテルの一室に、僕は一人取り残された。

シワだらけの震える手で、抜け落ちた自分の歯を拾い上げる。そして、ベッドの上に投げ捨てられた、真新しい一万円札を見つめた。

「う、あ……あぁぁぁっ……!」

惨めさと、悔しさと、自分の愚かさに対する絶望が込み上げてくる。

僕はベッドの上の一万円札には指一本触れず、重く軋む老体を引きずって、逃げるようにその部屋を飛び出した。

もちろん、最初から期待などしてはいけなかったのだ。

その後、炊き出しの列で山川という男の姿を見ることは二度となかった。名医という先生から声がかかることも、僕が十歳の姿に戻るなんて奇跡が起こることも、決して起こらなかった。

唯一の希望を奪われ、命の時間を限界まで搾取された僕は、このさらに重く軋むようになった老体で、ただ両親の姿を遠くから見守ることしかできなくなってしまったのだ。

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