見知らぬ老人と、最後のさよなら
猛吹雪が嘘のように晴れ渡り、段ボールの隙間から眩しい朝の光が差し込んできた。
「……ん、あ……」
パチリ、とシゲさんが目を開けた。
ゆっくりと体を起こし、自分の両手を不思議そうに見つめる。そして、深く、とても深く深呼吸をした。
ヒューヒューと鳴っていた不気味な喘鳴は完全に消え去り、顔色も驚くほど良くなっている。まるで、十歳くらい若返ったかのように、シゲさんの体には生命力が満ち溢れていた。
「……痛くねえ。息が、普通に吸える……嘘だろ、俺、死にかけたはずじゃ……」
シゲさんは胸をさすりながら、信じられないといった顔で呟いた。
僕はその姿を、少し離れた場所からぼんやりと見ていた。
目が、ひどく霞む。関節という関節が錆びついたように痛み、ただ座っているだけでも背中が丸まってしまう。
シゲさんが僕に掛けてくれたドカジャンは、すっかり縮んでしまった今の僕の体には大きすぎて、まるで毛布を被っているようだった。
「おい、こうちゃん! 奇跡だ、俺の体が――」
シゲさんは弾んだ声で振り返り、そして、ピタリと動きを止めた。
「……ん?」
シゲさんの視線の先には、力強かった「三十代のこうちゃん」の姿はない。
白髪が抜け落ち、顔中が深いシワだらけになり、ダボダボの服を着てうずくまる「見知らぬみすぼらしい老人」が一人いるだけだ。
「おい、爺さん。見ねえ顔だな。ここで何してるんだ?」
シゲさんの声には、明らかな警戒心が混じっていた。
無理もない。三十代から七十代へ。骨格から何から変わり果ててしまった僕が、あの「こうちゃん」だと気づくはずがないのだ。
「あ……」
『僕だよ、シゲさん』
そう言おうとして口を開いたが、喉から出たのは、空気が漏れるようなカスカスのしゃがれ声だった。
シゲさんは怪訝な顔で辺りを見回し、段ボールの奥や外をキョロキョロと探し始めた。
「……爺さん、うちの若いのを見なかったか? 図体がデカくて、いつも俺の隣にいた、こうちゃんって男なんだけどよ」
『うちの若いの』。
その響きに、胸の奥がギュッと締め付けられた。シゲさんは、僕を探してくれている。僕のことを、心配してくれている。
でも、もしここで「僕がこうきです」と名乗ったらどうなる?
『バケモノ』と罵って突き飛ばした、パパやママと同じ顔をシゲさんにさせてしまうかもしれない。せっかく病気が治ったのに、また得体の知れない恐怖に巻き込んでしまう。
「悪いが、ここは俺とその若いのの場所なんだ。あんた、行く当てがねえなら他の場所を……」
シゲさんが、僕を庇うように立ち上がり、冷たい声で言った。
ああ、そうか。
もう、ここにも僕の居場所はないんだ。
僕はゆっくりと、軋む膝に手をついて立ち上がった。立っているだけで足が震える。
「……あ、の……」
「ん?」
「……大きな男なら、今朝早くに、出ていきましたよ」
自分でも驚くほど、しわがれた他人の声だった。
「出ていった? 何で……あいつ、何も言わずに……」
「『お世話になりました。元気になったら、よろしく伝えてくれ』と、そう言って、遠くへ……」
嘘だった。
でも、これが一番いい。シゲさんの中の「こうちゃん」は、いつか帰る場所を見つけて、自分の足で旅立っていったのだと思ってもらうのが。
シゲさんはしばらくポカンとしていたが、やがてフッと息を吐き、少しだけ寂しそうに笑った。
「そうか。……あいつ、とうとう帰る場所を見つけたんだな」
「…………」
「なら、いい。あいつが笑って暮らせるなら、それでいいさ。……おい爺さん、教えてくれてありがとな」
シゲさんは僕に向かって、深く頭を下げた。
僕の代わりに、僕の幸せを祈ってくれている。その優しさが痛くて、涙が出そうになった。でも、干からびた目からは、もう一滴の涙も零れなかった。
「……どうか、お元気で」
僕は深々と頭を下げ返し、重い足取りで段ボール小屋を後にした。
朝の冷たい空気が、薄くなった皮膚を容赦なく刺す。
パパ、ママ、ごめんなさい。
シゲさん、さようなら。
十歳の竹原聖は、七十歳の老人の体の中に閉じ込められたまま、冬の街の雑踏へと一人で消えていった。




