らいめいけんのハンバーグと、命の代償
ザザッ……というノイズの向こうから、明るい女性リポーターの声が流れてきた。
『――本日は都内で昔から愛されている老舗の洋食屋、「らいめいけん」さんにお邪魔しています! 見てください、鉄板の上でジュージューと音を立てるこの特製ハンバーグ! 濃厚なデミグラスソースの香りがたまりません!』
『いただきまーす! んん〜っ、お肉がふわふわで、肉汁が口いっぱいに広がります!』
段ボールの薄暗い天井を見上げながら、僕はゴクリと喉を鳴らした。
「おいしそう……」
最後にハンバーグを食べるはずだったあの日の夕方を思い出して、お腹がぐうと鳴る。
シゲさんの古びた携帯ラジオから、僕の名前――「竹原聖の行方不明事件」の話題が流れることは、すっかり減っていた。
あんなに毎日テレビやラジオで騒がれていたのに、数ヶ月も経てば、世間は新しいニュースや美味しいご飯の話題へとあっさりと移り変わっていく。僕がいなくなった世界は、僕のことなんて少しずつ忘れて、当たり前のように回り続けているのだ。
少しだけ寂しかったけれど、同時にホッとしてもいた。もうパパとママが、冷たい風の中でビラを配って傷つくことがないのなら、それでよかった。
「……ゲホッ、ゴホッ! ぁ……はぁ、はぁ……」
ラジオの陽気な声を切り裂くように、隣でシゲさんが激しく咳き込んだ。
「シゲさん、お水飲む? 背中、さすろうか」
「すまねえな、こうちゃん……。ちょっと、水を頼む」
僕は慌ててペットボトルの水をコップに注ぎ、シゲさんの背中を支えながらゆっくりと飲ませた。
冬の寒さが本格的になるにつれ、シゲさんの咳は悪化の一途を辿っていた。今では起き上がって空き缶拾いに行くこともできず、一日中、カビ臭い毛布にくるまって荒い息を吐いている。
病院に行こうと言っても、シゲさんは頑なに首を縦に振らなかった。
保険証もお金もないこともあるが、何より「不審な三十代の男」として手配されている僕が警察や病院の人間と関われば、捕まってしまうと分かっていたからだ。
「タオル、濡らしてきたよ。おでこに乗せるね」
「ああ……ありがとな。お前さんは、本当に優しい子だ」
僕にできることは、シゲさんに言われたこと、頼まれたことだけを一生懸命にこなすことだった。
水を汲んでくること。拾ってきたタオルを洗って額に乗せること。毛布の隙間から冷たい風が入らないように、段ボールの壁をガムテープで補強すること。
三十二歳の大きな体を使って、十歳の僕ができる精一杯の看病を続けた。シゲさんは僕のたった一人の「お父さん」で、ここが僕の帰る場所だったから。
しかし、僕の献身的な看病も虚しく、冷たいコンクリートの底冷えは容赦なくシゲさんの体力を奪っていった。
ある猛吹雪の夜のことだ。
「……ッ、ヒュー……ゲホッ、ゴホッ……!!」
突然、シゲさんが胸を激しく掻きむしりながら、引きつけを起こしたように体を丸めた。
「シゲさん!?」
慌てて覗き込むと、シゲさんの顔は土気色を通り越して紫色に変色し、白目を剥きかけていた。喉の奥から、空気が通らないヒューヒューという不気味な音が鳴っている。
手を握ると、驚くほど氷のように冷たかった。心臓が、止まろうとしている。
「シゲさん、息して! シゲさんっ!」
揺すっても返事はない。このままでは死んでしまう。
救急車を呼ぶ? でもどうやって? ここは高架下の裏道で、公衆電話すらない。助けを呼びに行っている間に、シゲさんの命は確実に消えてしまう。
『帰れる場所があるなら、いつか帰れよ』
いつかシゲさんが言ってくれた言葉が脳裏をよぎる。
僕は三十代の体で、世間から追われている。本当の両親からはバケモノと罵られ、拒絶された。
僕の帰る場所は、この世界にもうどこにもない。
だったら、僕の残りの時間なんて、全部なくなってしまったって構わない。
「死なせない……シゲさんだけは、絶対に死なせない!」
僕は決意し、震える両手をシゲさんの胸に強く押し当てた。
あの日、交差点で健太を治した時よりも、もっと強い力を。もっと深い祈りを込めて。
『治って!!』
刹那、体中の骨が粉々に砕けるような、凄まじい激痛が全身を貫いた。
「ああああああああっ!!」
自分の寿命が、何十年という単位で一気に引き抜かれる感覚。
全身の筋肉が急激に萎縮し、皮膚の水分が蒸発してカサカサに乾いていく。頭皮が粟立ち、髪が白く染まりながら抜け落ちていくのが分かった。視界が白く濁り、耳鳴りがすべてをかき消す。
痛い、苦しい。でも、手は絶対に離さなかった。
シゲさんの紫色の唇に赤みが戻り、胸の上下が穏やかな呼吸のペースを取り戻すのを確認するまで。
激痛の波が去った後、僕はその場に崩れ落ちた。
ゼエゼエと荒い息を吐きながら、自分の手を見る。
そこにあったのは、力強く逞しかった三十代の腕ではない。シワだらけで、枯れ枝のように細く、茶色いシミが浮かんだ「老人の手」だった。




