空き缶のストーブと、もう1人の父親
しょっぱい生クリームを無理やり胃に流し込んだ後も、僕の体の震えは止まらなかった。
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、膝を抱え込んでうずくまる。目をとじれば、怯えきった母さんの顔と、僕を突き飛ばした父さんの怒声が何度もフラッシュバックした。
『あんな不気味な男が、聖なわけがないだろう!』
痛い。父さんに突き飛ばされた肩よりも、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。
シゲさんは僕が泣き止むまで何も聞かず、ただ拾い集めた木片と空き缶で作った小さなストーブの火をいじっていた。パチパチと火の粉が爆ぜる音が、静かな高架下に響く。
「……こうちゃん。お前、何かとんでもないもんを背負い込んじまった顔をしてるな」
しばらくして、シゲさんが静かに口を開いた。
「……ううん、なんでもない」
「嘘が下手くそだな、いい歳して」
シゲさんは短くなったタバコを携帯灰皿に押し込み、ふうっと白い息を吐いた。
そして、どこか遠くの暗闇を見つめるような、今まで見たことのない優しい目をした。
「俺にもな、昔、子供がいたんだよ。男の子だ」
「え……」
「俺が事業に失敗して、借金取りから逃げるように家を出たのが、あいつがちょうど小学生の時だった。……今生きてりゃ、ちょうどこうちゃんと同じくらい、三十二、三のいい大人になってるはずだ」
胸がチクリと痛んだ。
本当は、シゲさんが家を出た時の息子さんと同じ、十歳の小学生なのに。
「情けねえ親父だよな。だからよ、あの雨の夜にでけえ図体して迷子みたいに泣きじゃくってるお前を見た時、なんだか放っておけなかったんだ。……俺の息子も、どこかでこんな風に泣いてるんじゃないかってな」
シゲさんは照れ隠しのように鼻をすすると、ゴツゴツとした手で僕の背中をポンポンと叩いた。
「帰れる場所があるなら、いつか帰れよ。……親ってのはな、どんなに情けなくても、どんなに時間が経っちまっても、子供にはただ生きててほしいって、そう思うもんなんだ」
その言葉は、今日新宿で見たパパとママの姿と重なった。
冷たい風の中で、声を枯らして僕を探していた二人。帰りたい。本当は今すぐ帰って、三人でハンバーグを食べたい。でも、もう二度とあのドアは開かないのだ。僕が「聖」であるという証拠は、今日、完全に呪いへと変わってしまったのだから。
「……僕には、帰る場所なんてないよ。シゲさんの隣しか、もうないんだ」
「そうか。……なら、ここにいろ。俺が死ぬまでは、一緒に空き缶拾ってやるからよ」
「シゲさん……っ」
本当のことを言えない罪悪感と、シゲさんの不器用で温かい愛情が入り混じり、僕はまた子供のように泣きじゃくった。三十二歳の大男が肩を震わせて泣く姿を、シゲさんは笑いもせず、ただ黙って自分の着ていた古びたドカジャンを僕の肩に掛けてくれた。
カビとタバコの匂いがするその上着は、とても暖かかった。
僕はこの日、本当のパパとママを永遠に失い、代わりに「もう一人の父親」を見つけたのだ。
それから数日間、僕たちは冷たい冬の風を突きのけるように、二人で笑い合いながら街を歩き回った。
「おい、こうちゃん! 今日は駅の裏の路地を攻めるぞ。あそこは金曜の夜になるとよく酒の缶が落ちてるんだ」
「わかった! じゃあ、次はあっちの大きな公園の自販機も見てみようよ。僕、走って見てくる!」
「こらこら、走ると転ぶぞ。お前はデカいんだから、もっとどっしり構えろ」
シゲさんが引くリヤカーの横を、僕が小走りでついていく。見つけたアルミ缶を靴の裏でペシャンコに潰して、大きな袋に放り込んでいく作業は、まるでシゲさんと二人で宝探しをしているみたいで少しだけ楽しかった。
自販機の裏に転がっていた手付かずの百円玉を見つけた時は、二人で顔を見合わせて「大当たりの日だ!」と無邪気に笑い合った。
夜になれば、拾い集めた段ボールの陰で、シゲさんが買ってくれた熱い缶のコーンスープを二人でフーフーと息を吹きかけながら分け合った。
「こうちゃんは本当によく動くから助かるよ。俺一人じゃ、こんなに集まらねえ」
「えへへ、僕、力持ちだからね!」
見た目は三十代のおじさんと白髭の老人が、子供みたいに笑い合っている。傍から見れば奇妙な光景だっただろう。でも、僕にとってこの数日間は、冷酷な現実を忘れさせてくれる、嘘みたいに穏やかで温かい時間だった。
しかし、そんなささやかな幸せは長くは続かなかった。
「……ゲホッ、ゴホッ」
静寂の中、シゲさんが小さく咳き込んだ。
「大丈夫? 寒いんじゃないの」
「ああ、なんともねえよ。少し喉がイガイガするだけだ」
シゲさんは強がって笑ったけれど、その夜からだった。
シゲさんの咳が、冬の深まりとともに、ひどく重く、苦しそうな音に変わり始めたのは。




