新宿の聖者と、届かない奇跡
シゲさんの横で、僕はふと思い出していた。
初めてこの力を使った、小学一年生の時のことだ。
母さんが夕飯の支度中に、包丁で指を深く切ってしまった。
『痛い……!』
涙を流す母さんを見て、僕はたまらなくなって、その傷を小さな手で包み込んだ。温かくて、ピリッとした感覚。手を離すと、母さんの指は嘘みたいに綺麗に治っていた。
『あら、治っちゃった。不思議ね。……聖、なんだか急に背が伸びた?』
母さんは不思議そうに僕の頭のてっぺんを撫でながら、『パパには内緒ね。魔法使いだってバレたら困るでしょ?』と優しく笑った。
その時、僕の身長は二センチ伸びていた。あの二センチは、僕が初めて母さんのために差し出した「時間」であり、母さんと僕だけの、小さくて大切な秘密だった。
不意に、シゲさんのポケットにあるラジオが、ノイズ混じりの声を上げた。
『――行方不明から三ヶ月。竹原聖くんの両親は、今もなお懸命に、新宿駅で情報の提供を求めるビラを配り続けています』
心臓が、喉から飛び出しそうになった。
「シゲさん、ごめん! ちょっと行ってくる!」
「おい、こうちゃん! どこへ行くんだ!」
呼び止める声を背に、僕は走り出した。
新宿駅へ。パパとママがいる場所へ。
気が狂いそうになるほど、心臓が破けるほどに走った。三十二歳の足は驚くほど速く、冷たい冬の空気が肺を焼き切るように痛かった。
いた。
駅の雑踏の中、痩せこけた両親が、凍える風に吹かれながら道行く人に頭を下げていた。
「お願いします……息子を探しています」
「些細な情報でも構いません、お願いします……!」
その姿を見た瞬間、僕は確信した。今なら、今この力を見せれば、母さんだけは僕を「聖」だと分かってくれる。あの日の秘密を、目の前で証明して見せれば。
その時だった。
乾燥した空気のせいだろうか。ビラを配っていた母さんが、「あ……」と短く声を上げた。重なった紙の束で、指の先をスッと切ってしまったのだ。じわりと赤い血が滲む。
今だ。
僕は人混みをかき分け、迷わず母さんの元へ駆け寄った。
「母さん!」
「えっ……?」
驚いて顔を上げる母さん。その指先を、僕はあの日と同じように、震える手で包み込んだ。
祈るように、ありったけの力を込める。温かな光が通り過ぎ、手を離した時には、母さんの指先の傷は跡形もなく消えていた。
「ほら、見て! 治ったよ、母さん! 僕だよ、聖だよ!」
僕は泣きながら笑った。これで分かってくれる。
しかし、母さんの目に宿ったのは、歓喜ではなかった。息が止まるような、底知れぬ恐怖だった。
「ひっ……いやあああああっ!!」
鼓膜を劈くような、悲鳴。
母さんは火を押し当てられたように腕を振り払い、僕に触れられた指先を、狂ったように自分のコートに何度も擦り付けた。
「あ、あなた! この人……あの日、家に来た……!」
無理もなかった。母さんから見れば、聖が消えたあの夜、破れかけた服で玄関に立っていた「息子を攫った大男」が、新しい服を着て突然目の前に現れ、あろうことか自分の手を握りしめてきたのだから。
「お前……! よくも抜け抜けと……聖を返せ!!」
父さんが鬼のような形相で僕を突き飛ばした。
「違うんだ、違うんだよ!!」
僕は逃げ出した。追ってくる父さんの怒声を聞きながら、人混みの中へと必死に紛れた。
三十二歳の大きな体は、無数の他人の背中の中へと、あっという間に溶けて消えていった。
残された路上で、母さんはコートに擦り付けた自分の指先を、震えながらじっと見つめていた。
血は止まり、痛みも消えている。かつて一度だけ、自分と聖の二人きりの時に起きた、あの魔法のような出来事。
「……治ってる。嘘……だって、この力は……」
「どうしたんだ、怪我はないか!?」
呆然と呟く母さんの肩を、父さんが強く抱き寄せた。
「あなた、あの人……もしかして聖なんじゃ……。あんなことできるの、私……知ってるの……!」
「何を言ってるんだ! 疲れすぎているんだよ。あんな不気味な男が、聖なわけがないだろう!」
父さんが強く否定するのも無理はない。あの力は、母さんと僕だけの秘密だったのだから。
誰にも信じてもらえない真実を抱え、母さんは一人、残酷な現実に引き裂かれそうになっていた。
「少し休もう。今日はもう、帰ろう」
両親は肩を寄せ合い、トボトボと帰路につく。
その後ろ姿を、僕は少し離れたビルの陰から見つめていた。母さんは最後に一度だけ、僕が消えた雑踏を振り返ったけれど、その瞳に僕の姿が映ることは二度となかった。
その夜、高架下に戻った僕は、シゲさんが持ってきてくれたクリスマスケーキを頬張った。
でも、一口も飲み込めない。
甘いはずの生クリームは、母さんの流した涙と同じ、ひどくしょっぱい味がした。




