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誰も知らない僕の本当の名前  作者: ユタカ
誰も知らない僕の本当の名前

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4/20

新宿の聖者と、届かない奇跡

シゲさんの横で、僕はふと思い出していた。

初めてこの力を使った、小学一年生の時のことだ。

母さんが夕飯の支度中に、包丁で指を深く切ってしまった。

『痛い……!』

涙を流す母さんを見て、僕はたまらなくなって、その傷を小さな手で包み込んだ。温かくて、ピリッとした感覚。手を離すと、母さんの指は嘘みたいに綺麗に治っていた。

『あら、治っちゃった。不思議ね。……こうき、なんだか急に背が伸びた?』

母さんは不思議そうに僕の頭のてっぺんを撫でながら、『パパには内緒ね。魔法使いだってバレたら困るでしょ?』と優しく笑った。

その時、僕の身長は二センチ伸びていた。あの二センチは、僕が初めて母さんのために差し出した「時間」であり、母さんと僕だけの、小さくて大切な秘密だった。

不意に、シゲさんのポケットにあるラジオが、ノイズ混じりの声を上げた。

『――行方不明から三ヶ月。竹原聖くんの両親は、今もなお懸命に、新宿駅で情報の提供を求めるビラを配り続けています』

心臓が、喉から飛び出しそうになった。

「シゲさん、ごめん! ちょっと行ってくる!」

「おい、こうちゃん! どこへ行くんだ!」

呼び止める声を背に、僕は走り出した。

新宿駅へ。パパとママがいる場所へ。

気が狂いそうになるほど、心臓が破けるほどに走った。三十二歳の足は驚くほど速く、冷たい冬の空気が肺を焼き切るように痛かった。

いた。

駅の雑踏の中、痩せこけた両親が、凍える風に吹かれながら道行く人に頭を下げていた。

「お願いします……息子を探しています」

「些細な情報でも構いません、お願いします……!」

その姿を見た瞬間、僕は確信した。今なら、今この力を見せれば、母さんだけは僕を「聖」だと分かってくれる。あの日の秘密を、目の前で証明して見せれば。

その時だった。

乾燥した空気のせいだろうか。ビラを配っていた母さんが、「あ……」と短く声を上げた。重なった紙の束で、指の先をスッと切ってしまったのだ。じわりと赤い血が滲む。

今だ。

僕は人混みをかき分け、迷わず母さんの元へ駆け寄った。

「母さん!」

「えっ……?」

驚いて顔を上げる母さん。その指先を、僕はあの日と同じように、震える手で包み込んだ。

祈るように、ありったけの力を込める。温かな光が通り過ぎ、手を離した時には、母さんの指先の傷は跡形もなく消えていた。

「ほら、見て! 治ったよ、母さん! 僕だよ、聖だよ!」

僕は泣きながら笑った。これで分かってくれる。

しかし、母さんの目に宿ったのは、歓喜ではなかった。息が止まるような、底知れぬ恐怖だった。

「ひっ……いやあああああっ!!」

鼓膜をつんざくような、悲鳴。

母さんは火を押し当てられたように腕を振り払い、僕に触れられた指先を、狂ったように自分のコートに何度も擦り付けた。

「あ、あなた! この人……あの日、家に来た……!」

無理もなかった。母さんから見れば、聖が消えたあの夜、破れかけた服で玄関に立っていた「息子を攫った大男」が、新しい服を着て突然目の前に現れ、あろうことか自分の手を握りしめてきたのだから。

「お前……! よくも抜け抜けと……聖を返せ!!」

父さんが鬼のような形相で僕を突き飛ばした。

「違うんだ、違うんだよ!!」

僕は逃げ出した。追ってくる父さんの怒声を聞きながら、人混みの中へと必死に紛れた。

三十二歳の大きな体は、無数の他人の背中の中へと、あっという間に溶けて消えていった。

残された路上で、母さんはコートに擦り付けた自分の指先を、震えながらじっと見つめていた。

血は止まり、痛みも消えている。かつて一度だけ、自分と聖の二人きりの時に起きた、あの魔法のような出来事。

「……治ってる。嘘……だって、この力は……」

「どうしたんだ、怪我はないか!?」

呆然と呟く母さんの肩を、父さんが強く抱き寄せた。

「あなた、あの人……もしかして聖なんじゃ……。あんなことできるの、私……知ってるの……!」

「何を言ってるんだ! 疲れすぎているんだよ。あんな不気味な男が、聖なわけがないだろう!」

父さんが強く否定するのも無理はない。あの力は、母さんと僕だけの秘密だったのだから。

誰にも信じてもらえない真実を抱え、母さんは一人、残酷な現実に引き裂かれそうになっていた。

「少し休もう。今日はもう、帰ろう」

両親は肩を寄せ合い、トボトボと帰路につく。

その後ろ姿を、僕は少し離れたビルの陰から見つめていた。母さんは最後に一度だけ、僕が消えた雑踏を振り返ったけれど、その瞳に僕の姿が映ることは二度となかった。

その夜、高架下に戻った僕は、シゲさんが持ってきてくれたクリスマスケーキを頬張った。

でも、一口も飲み込めない。

甘いはずの生クリームは、母さんの流した涙と同じ、ひどくしょっぱい味がした。

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