檻の中の陽だまりと、届かぬ祈り
検察の控訴により、僕の身柄は警察の留置所から東京拘置所へと移された。
第一審で無期懲役の判決を受けたとはいえ、まだ刑が確定していない「未決囚」としての収容だ。世間からは「氏名不詳の極悪非道な強盗殺人犯」として石を投げられている僕だが、高い塀に囲まれた拘置所の中での生活は、外界の狂騒が嘘のように穏やかなものだった。
「おーい、じいちゃん。足元、段差あるから気をつけてな」
週に数回、金網に囲まれた狭い運動場に出る時間。僕にそう声をかけてくれるのは、同じ未決囚の「クニちゃん」という三十代の男だった。
がっちりとした体格で、腕にはうっすらと刺青の痕がある。彼もまた何か重い罪を犯して裁判を待っている身なのだが、ひどく老いぼれて歩くのも覚束ない僕のことを、何かと気にかけてくれていた。
「ありがとうございます、クニちゃん」
「いいってことよ。しかし今日の朝飯の魚、やたら骨が多かったな。じいちゃんの歯じゃキツかったろ。俺が身をほぐしてやりたかったぜ」
冷たい風が吹く運動場で、クニちゃんは僕の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、他愛のない話で笑いかけてくる。
食事の時間になれば、看守の目を盗んで「俺は甘いもん嫌いだから」と、自分のトレイに乗っていた甘納豆やフルーツを僕のほうへ滑り込ませてくれた。
「クニちゃんは、優しいですね」
僕が掠れた声でそう言うと、彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「バカ言え、俺は正真正銘の悪党だよ。でもな、じいちゃんが『極悪人』だなんて、テレビの連中は目が腐ってるとしか思えねえ。……じいちゃんを見てると、死んだうちの親父を思い出すんだよ」
社会の「常識」を持つ裁判官や検事、そして善良な一般市民たちは、僕を正体不明のモンスターとして憎悪し、死を望んだ。
しかし皮肉なことに、法を犯した「悪人」であるはずのクニちゃんだけが、僕を「無害で心優しいおじいちゃん」として受け入れ、人間としての温もりを与えてくれていたのだ。
僕にとって、この拘置所での時間は、すべてを奪われた人生の中で与えられた「ふしぎと楽しく、心安らぐ時間」だった。
しかし、僕が檻の中でささやかな陽だまりを感じている間にも、外の世界では、僕の命を繋ぎ止めるために二人の大人が血を吐くような戦いを続けていた。
「……お願いです! もう一度だけ、DNA鑑定を引き受けていただけないでしょうか!」
中田弁護士は、すり減った革靴で東京中の民間鑑定機関や大学の研究室を駆け回っていた。
前回の結果が「杜撰なエラー」「コンタミネーション(汚染)」だと法廷で弾かれたのなら、今度こそ完璧な状況で再検査を行い、科学の力で真実を証明するしかない。
しかし、どの機関の扉を叩いても、返ってくるのは冷たい拒絶だけだった。
「お引き取りください、中田先生。……今のあなたに関われば、うちの研究室まで『あの極悪老人のための証拠捏造の共犯』としてマスコミの標的にされてしまいます。これ以上、関わり合いにはなれません」
「私がすべての過程をビデオで撮影し、立会人もつけます! 私の弁護士バッジを担保にしてもいい! だから、どうかあの少年のために……!」
「迷惑だと言っているでしょう! 帰ってください!」
ピシャリと、無情に閉ざされる重い扉。
社会全体が「あの氏名不詳の老人は死刑になるべき凶悪犯である」という強固な結界を張り巡らせ、真実を証明する一切の隙間を塞いでしまっていた。中田弁護士は門前払いされるたびに、冷たいアスファルトに膝をつき、己の無力さに唇を噛み締めた。
一方、薄暗い中田法律事務所のデスクでは、高橋さんが今日も便箋に向かい、ペンを走らせていた。
宛先は、あの山川だ。
『山川様。彼に無期懲役の判決が下されました。検察は死刑を求めて控訴しています。あの子にはもう、時間がありません。あなたの娘さんを救ったのは、間違いなく彼です。世間は彼を名もなき老人だと罵っていますが、真実を知っているのはあなただけです。どうか良心があるなら、あの動画を出して真実を語ってください』
返事が来る見込みなど、万に一つもない。娘の新しい人生を守るためなら、僕のことなど虫ケラのように見捨てる男だ。
それでも高橋さんは、痛むことのない自分の右足首に触れるたび、僕が彼女に遺した「真実の証明」の重みを噛み締め、何度無視されても、何十通、何百通と手紙を書き続けていた。
「絶対に諦めない……。私が、あの子を助けるんだから……っ」
積み上げられた返事のない封筒の山を見つめながら、高橋さんはポロポロと涙をこぼした。
しかし、彼らの必死の祈りも、足掻きも、強固な社会の「常識」という壁を突き崩すことはできなかった。
無情にもカレンダーのページはめくられ、季節は冬へと向かっていく。
拘置所の冷たい風が、僕の抜け落ちていく白髪を揺らす頃。
ついに、検察が僕の「死刑」を求めて牙を剥く、東京高等裁判所での第二審の公判期日が、目の前まで迫っていた。




