路地裏の温もりと、名乗れない名前
雨は夜更けになっても止む気配がなく、冷たい風が容赦なく体温を奪っていった。
公園のトイレにいつまでも隠れているわけにはいかず、僕はパトカーのサイレンが遠ざかったのを見計らって、当てもなく夜の街を歩き出した。
ぐうぅ、と腹の虫が大きく鳴った。
そういえば、給食を食べてから何も口にしていない。いつもなら、今頃はお風呂から上がって、テレビを見ながらハンバーグを食べている時間だ。
「母さん……」
口に出すと、また涙が溢れてきた。大人になったこの体は、泣いても泣いても涙が枯れることはないらしい。
やがて、雨風を凌げそうな高架下の暗がりに辿り着いた。
コンクリートの壁沿いに、いくつかの段ボールが小屋のように組み立てられている。僕はその一つ、少し崩れかけた段ボールの陰にうずくまり、ガタガタと震える体を抱え込んだ。
寒くて、お腹が空いて、怖くてたまらない。明日、学校はどうなるんだろう。ランドセルはどこに置いたっけ。そんな10歳の悩みは、もう誰にも分かってもらえない。
「……おい、にいちゃん」
突然、低くしゃがれた声が降ってきて、僕はビクッと肩を揺らした。
見上げると、薄汚れたコートを着た白髭の老人が、怪訝な顔で僕を見下ろしていた。
「そこは俺の場所なんだがな。……新入りか?」
「あ……ご、ごめんなさい……っ」
怒られる。そう思った瞬間、僕は咄嗟に頭を抱え、子供のように身を縮こまらせた。父さんにゴルフクラブで殴りかかられた記憶が蘇り、ヒッ、と喉の奥から情けない声が漏れる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……すぐ、どきます……っ」
泥だらけの裸足で立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、そのまま水たまりに派手に転んでしまった。痛さと惨めさで、またボロボロと涙がこぼれる。
「……おいおい、大の大人がみっともねえな」
老人は呆れたようにため息をついた。無理もない。客観的に見れば、30過ぎの屈強な男が、怯えて泣きじゃくっているのだ。気味が悪いと思われるのが当然だ。
しかし、老人は僕を追い出す代わりに、ゴソゴソと自分のコートのポケットを探り始めた。そして、少し潰れたコンビニのおにぎりを一つ、ポイッと僕の目の前に放り投げた。
「……食うか?」
「え……」
「腹の音、ここまで聞こえてたぞ。俺の晩飯の残りだがな」
信じられないものを見るように、僕はおにぎりと老人の顔を交互に見つめた。
「いいの……?」
「さっさと拾え。泥がつくぞ」
僕は震える手でそれを受け取り、包装フィルムもそこそこに、かじりついた。
冷え切って、お米も少し硬くなっていたけれど、今まで食べたどんなご飯よりも美味しかった。口の中いっぱいに広がる鮭の塩気が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
「ひっ、ぐ……おい、しい……」
「ゆっくり食え。喉に詰まるぞ」
老人はそう言って、今度は自分の段ボール小屋から、古びた毛布を引っ張り出して僕の頭からバサリと被せた。カビと埃の匂いがしたけれど、それは僕にとって、この冷たい世界で初めて触れた「温もり」だった。
「……ひでえ傷と泥だな。どこかで襲われでもしたか」
「…………」
「まあ、言いたくねえなら聞かねえよ。こういう場所じゃあ、詮索は野暮ってもんだ」
老人は僕の隣にどっこいしょと腰を下ろすと、コートのポケットから古びた携帯ラジオを取り出し、カチリとスイッチを入れた。
ザザッ……というノイズに混じって、深夜のニュースキャスターの無機質な声が流れ出す。
『――続いてのニュースです。本日夕方、市内の竹原家から「不審な男が押し入ってきた」と110番通報がありました。男は逃走しており、現在も行方が分かっていません。また、この家に住む小学四年生の竹原聖くん(10)が帰宅しておらず、警察は逃走した30代の男が何らかの事情を知っているとみて、誘拐事件も視野に捜査を進めています。男の特徴は――』
僕は心臓が凍りつくのを感じた。
おにぎりを握る手に、じわっと嫌な汗が滲む。
ラジオから流れる「誘拐犯」の特徴は、間違いなく今の僕自身の姿だった。
「物騒な世の中になったもんだな。10歳の子どもを攫うなんて、とんでもねえ悪党がいたもんだ」
老人はそう呆れたように呟くと、シケたタバコに火をつけた。紫色の煙が、雨の匂いに混ざってゆっくりと昇っていく。
「俺は『シゲ』だ。……にいちゃん、名前は?」
名前。
その言葉に、僕は息を詰まらせた。
今ここで『竹原聖です』と言えば、目の前のシゲさんも僕を警察に突き出すだろう。その「とんでもない悪党」であり、「攫われた10歳の子ども」でもある僕は、もう自分の本当の名前を名乗ることすら許されないのだ。
「……こうき、です」
嘘はつきたくなかった。だから、苗字を隠して、下の名前だけを震える声で絞り出した。
「こうちゃん、か。……いい歳して、迷子みたいな顔しやがって」
シゲさんはフッと笑い、タバコの煙を長く吐き出した。
「行く当てがないなら、雨が上がるまでここにいろ。明日になったら、段ボールの拾い方から教えてやる」
その言葉の響きが、昔、図工の宿題を手伝ってくれた父さんの声と少しだけ似ていて。
僕はガタガタと震える体を悟られないように毛布を深く被り直し、シゲさんにバレないように、声を殺してもう一度だけ泣いた。
ハンバーグの匂いがしない、僕の新しい人生の最初の夜だった。




