閉ざされたドアと泥だらけの怪物
僕の名前は竹原聖。小学四年生、十歳だ。
図工が得意で、ピーマンが苦手で、今日の夕飯は一番大好きな母さんの手作りハンバーグの予定だった。
ほんの数時間前までは、たしかに――どこにでもいる訳じゃない、人のケガを治せるちょっぴり変わった小学生のはずだったのに。
「お母さん! お父さん! 開けて、僕だよ!」
土砂降りの雨の中、僕は実家のドアを必死で叩いていた。
インターホンのカメラに顔を近づけ、雨水なのか涙なのか分からない水滴を拭いながら叫ぶ。
ガチャリ、とチェーン越しにドアが薄く開いた。隙間から見えた母さんの顔に、僕は安堵しかけた。
「お母さ――」
「ヒッ……!」
母さんは、言葉にならない悲鳴を上げて後ずさった。その目は、得体の知れないバケモノを見るように見開かれている。
違う、僕だよ。聖だよ。そう言おうとしたのに、喉から出たのは、自分でも聞いたことのない、低くて太い、大人の男の声だった。
「だ、誰だあんた!」
奥から父さんが血相を変えて飛び出してきた。その手には、護身用のゴルフクラブが握られている。
「僕だよ、聖だよ! 今日の夕飯、ハンバーグって約束したでしょ!? 誕生日に買ってもらった自転車、裏庭に停めてあるよ!」
家族しか知らないはずの秘密を、必死に並べ立てる。これで分かってくれるはずだ。
しかし、父さんの顔に浮かんだのは理解ではなく、底知れない恐怖と激しい怒りだった。
「お前……聖に何をした! 息子をどこへやった、この変質者め!!」
「あなた、警察! 早く警察に!」
バンッ!! と、目の前で無情にもドアが閉められた。中から鍵をかける鈍い音が、何重にも響く。
違う。違う。僕は誰も誘拐なんかしてない。僕が、竹原聖なんだ。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる音が聞こえた。
このままでは捕まってしまう。僕は泥水を跳ね上げながら、夢中で暗い路地裏へと走り出した。
息を切らして逃げ込んだ公園の公衆トイレ。
薄暗い蛍光灯の下、鏡の前に立った僕は、自分の姿を見て息を呑んだ。
事故のあと、体が大きくなったことには気づいていた。でも、鏡の中にいたのは、僕の面影なんて微塵もない、無精髭を生やし、骨格の張った32歳くらいの見知らぬ「大人の男」だった。
お気に入りだったアニメのTシャツは、急激に巨大化した体に耐えきれず、無残に引き裂かれて肩口にぶら下がっている。履き慣れたスニーカーは弾け飛び、裸足の足は泥だらけで傷だらけだった。
「……あ、あ」
震える太い指で、自分の顔を触る。ジョリジョリとした髭の感触。ゴツゴツとした頬骨。
間違いない。鏡の中の男も、同じように顔を触っている。
数時間前の出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。
放課後、親友の健太と一緒に帰っていた、いつもの交差点。
『今日さ、うちの夕飯ハンバーグなんだ! 母さんが約束してくれたんだよね』
『えー、いいな! 俺も聖んちで食べたい!』
『だめだよ、健太の分はないもん!』
あはは、と笑い合いながら、青信号の横断歩道を歩き出した、その瞬間だった。
鼓膜を破るようなブレーキ音。信号無視のトラック。宙を舞う健太。
アスファルトに広がる、赤い血だまり。
『死なないで!』
僕は無我夢中で、血まみれの健太に両手を押し当てた。
昔から、小さな擦り傷くらいなら僕の手で治せた。そのたびに、ほんの少しだけ背が伸びたり、体が大人に近づくような不思議な感覚はあった。でも、あんな致命傷を治そうとしたのは初めてだった。
途端に、体中の骨が軋み、千切れるような激痛が全身を駆け巡った。熱い。痛い。服が破れる音がした。
気がつくと、健太の傷は完全に消えていた。
けれど、起き上がった健太は、横に倒れていた僕の姿を見るなり「うわああああっ!」と恐怖に顔を歪ませて逃げ出してしまったのだ。
「僕の……せいだ」
洗面台にポタポタと涙が落ちる。
健太を助けた代償。それが、僕の時間を一気に奪い取ることだったなんて。
僕は、10歳の人生を、明日からの当たり前の日々を、たった今、永遠に失ってしまったのだ。
雨の音に混じって、僕を探す警察の怒声が聞こえてくる。
僕は自分の大きすぎる腕を抱きしめ、冷たいコンクリートの床にうずくまって、ただ声を殺して泣き続けた。




