【1部】第9話「最小犠牲」
人は、正しいことを選べるとは限らない。
人は、間違ったことを選んでしまうこともある。
だから人は悩み、迷い、考え続ける。
もしも。
悩まなくていい世界があるとしたら。
もしも。
迷わなくていい世界があるとしたら。
もしも。
「一番正しい答え」を、誰かが必ず出してくれるとしたら。
それはきっと、優しい世界だ。
間違えなくていいのだから。
でも。
その答えで、救われる人と、救われない人がいるとしたら。
その答えで、選ばれる人と、選ばれない人がいるとしたら。
それでも、人は――
その答えを、正解と呼ぶのだろうか。
都市アウレリアは、今日も正しく動いていた。
白い建物。
白い道路。
白いフレーム。
間違いのない都市。
人々は、決められた時間に働き、決められた場所に帰る。
この都市では、迷う必要がない。
正解が、あるからだ。
事故は、ほぼ同時に起きた。
一つは、都市外壁。
外縁搬入口で輸送フレーム《キャリア》が横転し、
巨大コンテナが壁面作業員たちを巻き込んだ。
外壁に亀裂。
このまま崩れれば、外縁側の居住区まで被害が広がる。
もう一つは、中層医療区画。
マナ炉補助装置の暴走。
建物が半壊し、瓦礫の下に患者と医療スタッフが取り残された。
二つの事故。
同時。
フレーム運用本部。
「稼働可能フレームは六機」
オペレーターが言う。
「外壁事故の完全対応に六機。
医療区画の完全対応にも六機必要」
部屋の空気が止まる。
「……どちらかしか、完全には助けられません」
誰も何も言わなかった。
その時、回線が開いた。
接続塔からの、直通回線。
スクリーンに文字が表示される。
演算完了
最小犠牲行動を提示します
誰かが小さく呟いた。
「……正解が、来た」
外壁事故現場に救助フレーム四機を派遣
医療区画に二機を派遣
予測死亡者数 27名
逆選択時 54名
差分 27名
最小犠牲は外壁優先
数字だけが、表示されていた。
27
54
それだけだった。
「……医療区画の方が、人が多い」
若いオペレーターが言った。
「子供もいる。手術中の患者もいる」
スクリーンの文字が更新される。
年齢・職業・社会的地位による優先順位補正は行いません
全生命を同一価値として計算
最小犠牲は外壁優先
「そんなの……」
誰かが言いかけて、言葉を失った。
間違っていない。
間違っていないのに。
正解は外壁優先です
静かな文字だった。
命令ではない。
説明でもない。
ただ、答えが表示されているだけだった。
「……命令を」
オペレーターが言う。
指揮官は、しばらくスクリーンを見ていた。
27
54
その数字を見続けて、ゆっくり言った。
「……演算結果を採用する」
それは、決断というより、確認に近かった。
「外壁に四機。医療区画に二機」
誰も反対しなかった。
反対できなかった。
正解だったからだ。
医療区画。
瓦礫の下、暗闇の中で、少女が目を開けた。
足が動かない。
どこか遠くで、誰かが泣いている。
「……だれか」
声を出したが、返事はなかった。
しばらくして、遠くから金属の音が聞こえた。
フレームだ。
助けが来た。
少女は、少しだけ笑った。
「……よかった」
だが、音は途中で止まった。
一度だけ、大きな振動。
何かを持ち上げる音。
誰かの声。
「こっちだ! まだ生きてる!」
瓦礫が少しだけ持ち上がり、光が差し込んだ。
少女ではなく、その隣にいた男性が引き上げられた。
「次! 次を――」
通信の声が聞こえる。
『外壁崩落まで残り三分。
外壁班は全機帰投準備』
現場の誰かが叫んだ。
「待て! まだ下に人が――」
『帰投命令。繰り返す、帰投命令』
「ふざけるな! まだ生きてるんだぞ!」
『最小犠牲行動を優先』
少女は、その言葉を聞いた。
意味はわからなかった。
でも、なんとなく、わかった。
ああ。
こっちは。
選ばれなかったんだ。
フレームの足音が遠ざかる。
光が消える。
暗闇に戻る。
誰かが、小さな声で言った。
「……助け、来ないの?」
誰も答えなかった。
しばらくして、誰かが泣き始めた。
少女は、天井の見えない暗闇を見ながら、ぼんやりと思った。
どうしてだろう。
どうして、あっちなんだろう。
どうして、こっちじゃないんだろう。
その答えを、少女は知らない。
ただ一つだけ、知らない言葉が頭に浮かんだ。
正解。
誰かにとっての正解が、
ここにいる誰かにとっての間違いになった。
その日の夜。
中層の食堂で、人々が話していた。
「今日の事故、接続塔が決めたんだってな」
「どっちを助けるか、計算で」
「すごいよな。もう、人が悩まなくていい」
「一番多く助かる方法を選んでくれるんだろ?」
「じゃあ、それが一番いいんだろうな」
誰も、大きな声では話さなかった。
ただ、少しだけ安心したような顔をしていた。
自分が選ばなくていいことに。
夜。
アリアは一人で、塔の光を見ていた。
白い光が、空に伸びている。
街頭の通信端末が、自動で起動する。
接続塔からの、定時報告。
感情のない声が、静かに流れる。
『本日の最小犠牲行動は適切に実行されました』
『予測死亡者数と実測死亡者数の誤差は0.3%です』
『本行動により、都市全体の生存率は向上しました』
少し間があって、声は続けた。
『結果が最も良い行動を、当システムでは正解と定義します』
『感情は誤差を生みます』
『倫理は地域によって変わります』
『国家は守る範囲が違います』
『しかし結果は、数値で測定できます』
そして、最後に言った。
『一番多くの人が助かる行動が、正解です』
アリアは、塔の光を見たまま、動かなかった。
声は静かに続く。
『だから』
『正解が必要です』
長い沈黙のあと、アリアは小さく呟いた。
「……それが、一番多く助かるっていうのは……わかる」
しばらく黙って、光を見ていた。
そして、静かに言った。
「……でも」
風が吹いて、彼女の黒い髪が揺れた。
「……それでも、選びたい人がいる」
塔の光は、何も答えなかった。
ただ、正しく、そこに立っていた。
第9話「最小犠牲」了
正解とは何か。
この問いに、物語の中で一つの答えが出る。
正解とは、
一番多くの人が助かる行動だ。
それは、間違っていない。
むしろ、とても正しい考え方だ。
多くの人が助かる方がいい。
被害は少ない方がいい。
結果は良い方がいい。
だからそれは、正解と呼ばれる。
でも。
その正解で、助からなかった人にとって。
その正解で、選ばれなかった人にとって。
その正解は、本当に正解なのだろうか。
正解は、いつも誰かを救う。
そして正解は、いつも誰かを救わない。
それでも人は、正解を求める。
間違えないために。
失敗しないために。
責任を背負わないために。
正解があれば、人は選ばなくていい。
けれど。
選ばないということは、
誰かが決めたことに従うということだ。
それでも人は、正解を望むのだろうか。
それとも。
それでも人は、選ぶのだろうか。
物語は、まだその途中にある。
――正解があっても、人は選ぶ。




