【1部】第8話「正しさの檻」
人は、正しいことをしたいと思う。
誰かを助けること。
嘘をつかないこと。
約束を守ること。
間違っていることを、間違っていると言うこと。
それが「正しいこと」だと、私たちは教わってきた。
けれど、もし——
正しいことをしたせいで、誰かが傷ついたら。
正しいことを選んだせいで、守れない人が出たら。
それでも、それは「正しい」と言えるのだろうか。
この国では、未来を知ることができる。
多くの人が泣く未来がわかっていても、
それでも目の前の人を助けることは、正しいのだろうか。
あるいは、
多くの人を守るために、目の前の一人を見捨てることは、正しいのだろうか。
正しさは、人を救う。
でも同時に、正しさは人を追い詰める。
それでも人は、正しくあろうとする。
なぜならきっと、
正しくなければ、どこにも進めないからだ。
これは、正しさの話。
そして——
正しさを選び続ける人の話。
白い都市だった。
アウレリアの白とは違う。
あちらの白は、計算された白だ。
ここ、セラフィアの白は、祈るような白だった。
だがアリアには、それが少しだけ息苦しく見えた。
空中に浮かぶ幾重もの環。
都市の中心から天へ伸びる光柱。
白と金で統一された神殿群。
巡礼者たちは声を荒げることなく、静かに列を作って歩いている。
静かすぎる、と思った。
「きれいです」
アリアが言うと、隣を歩く真白は少しだけ笑った。
「きれいなものほど、壊れやすい」
真白は黒い服に黒いロングコートだった。
白い都市の中で、その黒だけが妙に現実の色をしている。
「ここは、何をしている国なんですか」
「神を信じている国じゃないよ。神を扱っている国だ」
アリアは少しだけ首を傾げた。
「扱う……?」
「神託、封印、結界、奇跡。
全部、昔の技術だ。
ここは、それを宗教って形で管理してる」
神を信じているのではなく、神を運用している。
そういう国だった。
門が見えてきた。
巨大な白金の門。
その前に、巡礼者と聖騎士の列。
そして、少しだけ騒がしい一角があった。
担架がひとつ、地面に降ろされている。
担架の上の男は、全身を拘束具で巻かれていた。
その隙間から、黒い脈のような汚染が見えている。
周囲の人々は距離を取っていた。
近づかない。
けれど、目は離さない。
誰かが小さな声で言った。
「封印区から搬送されたらしい」
「神託が出たって」
「助けるなって……」
「でも、まだ生きてる」
アリアは、その中心に立つ人物を見て、足を止めた。
白と金の礼装。
青い細い差し色。
真っ直ぐに立つ姿勢。
フィリアだった。
その少し後ろに、レオニスが立っている。
位置関係だけでわかる。
この場で決めるのは、フィリアの方だ。
フィリアが言った。
「門は開けません」
アリアは少し驚いた。
助ける側の言葉ではないと思ったからだ。
だがフィリアは続けた。
「市街には入れません。ここで隔離し、ここで治療を行います」
周囲がざわつく。
レオニスが低い声で言った。
「……それは最悪だ」
フィリアは振り返らない。
担架の男を見たまま言う。
「理由を」
短い言葉だった。
だが、説明を求める側の声だった。
「封印区由来の汚染は性質が読めない。ここで治療を始めれば、門前の人員も巻き込まれる可能性がある」
「市街に入れれば、なお危険です」
「だから言っている。助けるなら場所を選べ」
フィリアは静かに答えた。
「選んでいます。ここが最も被害を限定できます」
レオニスはわずかに眉を寄せた。
理想論ではなく、判断として返ってきたからだ。
それでも彼は退かない。
「限定できる、で止めるな。限定しきれなかった時、誰が責任を負う」
フィリアは即答した。
「私です」
その場にいた何人かが息を呑んだ。
軽く言ったのではない。
本当に自分が負うつもりの声だった。
レオニスは言う。
「ひとりで負える責任じゃない」
「ええ。ですから、私の名で命じます」
空気が止まった。
命令だった。
聖騎士たちが一斉に膝をつく。
神官たちが頭を垂れる。
フィリアは担架の男を見下ろしたまま言った。
「この者は救命を優先します。裁きはその後です。
罪と治療は分けなさい。
死なせてから秩序を語ることを、私は認めません」
アリアは息を止めた。
正しいことを言っているからではない。
正しいと思うことを、命令として引き受けているからだ。
レオニスだけが頭を下げなかった。
「あなたは正しい」
彼はそう言った。
「だが、正しい判断は結果まで含めて引き受けるものだ」
フィリアの目が細くなる。
「そのつもりです」
「違う」
レオニスの声が少しだけ重くなった。
「助けると決めることが正しさじゃない。
助けた結果、誰が傷つくかまで見ることが正しさだ」
フィリアはすぐには答えなかった。
そのとき、神託殿の鐘が鳴った。
白い神官が封書を持って走ってくる。
フィリアはそれを受け取り、封を切った。
少しだけ、目が止まる。
「……何と出た」
レオニスの問いに、フィリアは数秒遅れて答えた。
「『この者を救えば、多くが泣く』」
ざわめきが広がる。
「救うなって意味だ」
「神託だぞ」
「神がそう言ってる」
だがフィリアは封書を閉じた。
「それでも、救命措置を取ります」
神官たちまで顔色を変えた。
「神託に逆らうおつもりですか」
フィリアははっきり言った。
「神託は決定ではありません。未来観測は判断材料です。
決めるのは、今ここにいる私たちです」
アリアの胸が大きく打った。
この人は、正しさを神に預けない。
自分で決める側に立っている。
それは強さだった。
そして、とても重い強さだった。
担架の男が、かすかに目を開いた。
「……しに、たく……ない」
その声は、ただの人間の声だった。
罪人の声でも、汚染者の声でもない。
ただ、死にたくない者の声だった。
アリアは一歩前に出た。
「私なら、助けます」
レオニスが低く言う。
「おまえは黙ってろ」
「黙りません。
でも、助ければいいって話でもないのも、わかります」
フィリアがアリアを見る。
「では、どうするのです」
アリアは答えられなかった。
助けたい。
でも、そのせいで誰かが死ぬならどうする。
正しさはどこにある。
そのとき真白が小さく言った。
「来るよ」
次の瞬間、担架の男の身体を黒い光が走った。
拘束具の隙間から濁った光が漏れ出す。
空気がざらつく。
周囲の結界が軋む。
「マナ暴走!」
聖騎士たちが一斉に動く。
フィリアはすでに前へ出ていた。
青白い光が彼女の背後に立ち上がる。
白い羽のようなマナ構築体が静かに展開する。
光輪がいくつも重なり、足元に魔法陣が広がる。
「結界騎士、展開。市街との境界を固定します」
聖騎士たちのフレームが儀式のような動きで配置につく。
白金の光が重なり、半透明の結界ドームが形成される。
だが、暴走は止まらない。
結界の表面にひびのような光が走る。
レオニスが言う。
「間に合わない。切り捨てろ」
「まだです」
「今止めなければ、外にいる全員が危険だ」
「それでも、まだ助けられる」
レオニスの声が初めて強くなる。
「あなたの正しさで、何人巻き込むつもりだ!」
その言葉に、フィリアの表情が一瞬だけ歪んだ。
だが、退かなかった。
アリアはその顔を見て、思った。
この人は、正しさで人を殴っているんじゃない。
正しさから逃げないで、ここに立っているんだ。
結界の一部が破れ、黒い粒子が外へ飛ぶ。
アリアは反射的に走った。
灰剣を抜き、空中のマナの収束線を断ち切る。
粒子の拡散がわずかに乱れる。
レオニスは群衆の避難を優先していた。
最短の退路を作り、門前の人間を壁際へ誘導する。
フィリアは中央で、ひとり踏みとどまる。
「まだ、生かせる……!」
光輪が幾重にも重なり、暴走するマナを押さえ込む。
それは攻撃ではない。
均そうとしている。
祈るように、均そうとしている。
担架の男が、薄く目を開いた。
「……なんで」
フィリアは答えた。
「私は、人を見捨てたくありません」
「おれ……何人も……」
「知っています」
「それでも……?」
フィリアは言った。
「それでもです」
男の目から、涙が一筋落ちた。
次の瞬間、暴走が静かに止まった。
だが同時に、男の呼吸も止まった。
静寂が落ちた。
光輪が消える。
結界が消える。
誰もすぐには喋らなかった。
レオニスがフィリアの横に立った。
「……これが現実です」
フィリアはしばらく黙っていた。
それから小さく言った。
「ええ」
「それでも、同じ命令を出しますか」
少しだけ間があって、フィリアは答えた。
「出します。
見捨てることを、先に正しさにしたくない」
レオニスは何も言わなかった。
フィリアは続けた。
「ですが、このままでは足りません。
次は、これでも救える形を作ります」
それは言い訳ではなかった。
決意だった。
レオニスは短く言った。
「……なら、その正しさで守れる範囲を増やしてください」
それは否定ではなかった。
承認でもなかった。
ただの現実だった。
群衆の中から、誰かが言った。
「結局、死んだじゃないか」
フィリアの肩が、わずかに揺れた。
アリアは振り向いたが、何も言い返せなかった。
真白が静かに言った。
「死なせなかった、とは言えない。
でも、死ぬまで人として扱った」
誰も言葉を返せなかった。
人が少なくなったあと、アリアはフィリアに聞いた。
「正しいって、何なんですか」
フィリアは少し考えてから答えた。
「私にも、まだわかりません」
アリアは目を見開いた。
「わからないのに、あんなふうに決めるんですか」
「わからないからです」
フィリアは静かに言った。
「わからないから、決め続けるしかないのです」
アリアは言葉を失った。
この人は、正しさを知っている人じゃない。
正しくあろうとして、決め続ける人だ。
それは強さだった。
でも、とても苦しそうな強さだった。
帰り道、アリアは空を見上げた。
国家は、責任で決める。
では、正しさは何で決まるのか。
神託か。
結果か。
多数か。
責任か。
答えは出ない。
真白が聞いた。
「どうしたい?」
アリアは少し考えてから言った。
「私は、正しさだけでは決めたくないです」
「うん」
「でも、正しくありたいと思う人を、間違いだとも言いたくない」
真白は小さく笑った。
「それでいい」
アリアは白い都市を振り返った。
正しさは、人を救う。
でも、人を追い詰めることもある。
それでも人は、正しいと思う方へ進もうとする。
その先に、正解があるのかもしれない。
でも。
「……私は、まだ選びたい」
白い光柱が、静かに空へ伸びていた。
第8話「正しさの檻」了
正しさとは何か。
その問いに、はっきり答えられる人は、たぶんいない。
法律かもしれない。
神様かもしれない。
多数決かもしれない。
結果かもしれない。
責任かもしれない。
けれど実際には、
そのどれでもなく、
「誰かが決めている」ものなのかもしれない。
正しいからやるのではなく、
やると決めた人が、それを正しいと呼んでいるだけなのかもしれない。
正しさは、光のように見える。
けれど近づきすぎると、刃のようにも見える。
誰かを守る正しさは、
別の誰かを見捨てる正しさになることがある。
それでも人は、正しくあろうとする。
間違っていたくないから。
自分が選んだことを、間違いにしたくないから。
国家が決めるもの。
正しさが決めるもの。
そして、正解が決めるもの。
この世界には、いくつもの「決めるもの」がある。
では——
最後に決めるのは、いったい誰なのだろうか。
その問いは、まだ終わらない。
物語は、次の答えへ進む。




