【5部】第45話「戻れない一歩」
残すということは、
すべてを抱えていくことではない。
ひとつを濃くすれば、
別のひとつが薄れていく。
選んだものだけが残る。
けれど、
選ばれなかったものもまた、
なかったことにはならない。
戻れない。
その一歩から、
選択は傷になる。
白の奥へ、アリアは歩いていた。
灰剣の切っ先が、床を擦る。
細い傷が生まれる。
そこへ、血が落ちる。
白が少しだけ濃くなる。
一歩。
呼吸が揺れる。
もう一歩。
足元が残る。
背後で、何かが薄れた。
アリアは振り返らない。
振り返れば、見えてしまう。
さっきまであった線。
掌を押し当てた跡。
血でなぞった場所。
そのどれかが、もう消えかけている。
分かっていた。
進めば残る。
進めば失う。
白は、その二つを同時に起こす。
灰剣を引く。
左手を床へ下ろす。
裂けた掌が白に触れる。
赤が滲む。
足元が濃くなる。
その瞬間、背後の線が切れた。
音はなかった。
ただ、身体の奥で何かが軽くなる。
軽くなってはいけないものが、抜け落ちる。
アリアは足を止めた。
振り返る。
そこに道はあった。
だが、もう繋がっていない。
白の中に、細い傷が浮かんでいる。
さっきまで自分が歩いてきた場所。
触れて、刻んで、血を落とした場所。
けれど今は、そこだけが遠い。
数歩の距離なのに。
アリアは一歩、戻ろうとした。
足裏が沈む。
床が受け止めない。
白が、足首の形を曖昧にする。
アリアは灰剣を突き立てた。
刃が白へ食い込む。
そこへ左手を押しつける。
血が落ちる。
沈みかけた足元が、かろうじて戻る。
アリアは背後の線へ手を伸ばした。
届く。
指先が触れる。
だが、感触がない。
そこにあったはずの傷は、ただ白の表面に残った影になっていた。
アリアは爪を立てる。
血が滲む。
傷をなぞる。
もう一度、繋ごうとする。
白が濃くなる。
けれど、道には戻らない。
そこはもう、通ってきた場所ではなかった。
過去の形をした、別の傷だった。
アリアは手を止めた。
呼吸が浅い。
右肩が熱い。
左手の痛みが、指の奥まで広がっている。
戻せない。
繋げない。
けれど、消えたわけではない。
傷としてだけ、残る。
アリアはゆっくり顔を上げた。
前方に、白い道がある。
傷のない道。
血のいらない道。
最初から濃く、揺れず、沈まない道。
そこへ行けば、戻らなくていい。
繋がなくていい。
失った場所を見なくていい。
痛みが少し遠のく。
左手の熱が薄れる。
肩の重さが軽くなる。
身体が、そちらへ傾きかけた。
アリアは白い道を見る。
その上には、何もなかった。
傷もない。
血もない。
手形もない。
誰かが通った形も、自分が残る余地もない。
何も失わない道は、何も残さない。
アリアは視線を戻した。
自分の足元。
細い傷。
濡れた赤。
震える線。
弱い。
すぐ消える。
けれど、自分が触れた形だった。
アリアは灰剣を握り直す。
「……戻さない」
声は小さかった。
白に吸われかける。
それでも、消えない。
「戻れないなら」
左手を床へ押し当てる。
血が広がる。
足元が濃くなる。
「……残す」
灰剣を引く。
新しい傷が生まれる。
その瞬間、背後の掌の跡が消えた。
指の形がほどける。
赤が白へ沈む。
輪郭がなくなる。
アリアは振り返らなかった。
振り返れば、戻そうとする。
戻そうとすれば、前が消える。
前を残せば、後ろが消える。
全部は残せない。
それでも、何も残らない道へは行かない。
アリアは歩いた。
一歩ごとに、白が揺れる。
一歩ごとに、血が落ちる。
一歩ごとに、背後のどこかが薄れる。
足跡。
手形。
浅い傷。
呼吸の跡。
ここにいたという順番。
それらが、少しずつ白へ沈んでいく。
消えるたびに、足元は濃くなる。
失うたびに、前が残る。
白の奥に、境目が現れた。
段差ではない。
壁でもない。
ただ、白の濃さが変わっている。
こちら側と、向こう側。
その間に、薄い線が一本だけ走っていた。
アリアは足を止める。
そこを越えれば、もう戻れない。
分かる。
白がそう示しているのではない。
身体が知っている。
背後へ触れても戻らなかった。
傷を重ねても、道にはならなかった。
なら、次はもっと戻らない。
境目の手前に、古い凹みがあった。
誰のものでもない。
形を失った跡。
手形だったのか。
足跡だったのか。
傷だったのか。
もう判別できない。
アリアはそこへ指を伸ばした。
触れる。
触れたはずなのに、指先が沈まない。
白の表面だけが、わずかに揺れる。
血が一滴、落ちた。
赤は沈まなかった。
輪郭を持たないまま、白の上に浮いた。
一瞬だけ。
白の外へ零れたように。
アリアは瞬きをする。
次の瞬間、古い凹みは消えていた。
完全に。
触れても戻らないものがある。
血を落としても、残らないものがある。
アリアは指先を見る。
血はまだある。
痛みもある。
けれど、触れたものはもうない。
アリアは息を吐いた。
境目の向こうは濃い。
こちら側は薄い。
背後には、消えかけた自分の道。
横には、白い道。
傷つかずに進める道。
戻る必要もなく、失う痛みもない道。
アリアは一瞬だけ、それを見る。
痛みが遠のく。
呼吸が軽くなる。
白い道は、静かに続いている。
ただ踏めばいい。
それだけで、揺れない。
アリアは灰剣を上げた。
白い道へ向ける。
刃の先が、濃い床に触れる。
傷は浅くしか入らない。
血のついた指を押し当てる。
赤が弾かれるように揺れる。
白い道は、少しも沈まない。
アリアはそこを踏まなかった。
刃を戻す。
自分の足元へ置く。
そして、境目に傷を引いた。
白が抵抗する。
刃が止まりかける。
アリアは力を込める。
割れた爪が柄へ食い込む。
左手の裂傷が開く。
血が落ちる。
傷が、境目を越えた。
その瞬間。
背後の道が、白に沈んだ。
全部ではない。
けれど、もう戻れない形になった。
見えている。
見えているのに、届かない。
そこへ戻っても、同じ場所には立てない。
同じ手形は残せない。
同じ線は繋がらない。
アリアは、ようやく振り返った。
白の中に、弱い赤がいくつか浮いている。
灰剣の傷も、掌の跡も、ほとんど見えない。
それでも、完全には消えていなかった。
傷として。
失ったものとして。
戻れないものとして。
そこにある。
アリアは目を閉じない。
なかったことにしない。
それから、前を向く。
境目の向こうへ、足を出した。
白が沈む。
膝が落ちる。
身体が傾く。
アリアは左手を向こう側へ叩きつけた。
血が散る。
床が戻る。
灰剣を突き立てる。
刃の傷が、赤を受ける。
白が濃くなる。
アリアは身体を引き上げた。
右肩が裂けるように痛む。
息が詰まる。
それでも、手を離さない。
境目を越えた。
その瞬間、背後の音がなくなった。
足音も。
刃の擦れる音も。
呼吸が落とした震えも。
全部、白の向こうへ沈む。
アリアは振り返る。
そこに、道はない。
ただ白がある。
けれど、何もなかったわけではない。
血が落ちた。
傷があった。
手を押し当てた。
戻せなかった。
それだけは、身体の痛みとして残っている。
アリアは立ち上がった。
新しい足元がある。
自分の血で濃くなった床。
自分の傷で開いた線。
もう後ろとは繋がっていない。
それでも、前へ続いている。
白の奥で、いくつもの道が現れた。
濃い道。
薄い道。
途中で切れた道。
触れれば残りそうな道。
触れても戻らなさそうな道。
どれも、同時に揺れている。
どれかを選べば、別のどれかは失われる。
もう、そういう場所だった。
アリアは左手を握る。
痛みが走る。
血が指の間から落ちる。
足元が少し濃くなる。
痛い。
だから、分かる。
ここにいる。
まだ、選んでいる。
アリアは灰剣を床へ当てた。
新しい線を引く。
それは背後と繋がらない線だった。
戻るための線ではない。
前を消さないための線。
アリアは小さく息を吐く。
「……ここから」
白が揺れる。
声が残る。
「……戻れない」
足元が、少しだけ強くなる。
アリアは一歩を出した。
その一歩は、前へ進むためだけのものではなかった。
戻れないことを、引き受ける一歩だった。
消えたものを、なかったことにしない一歩だった。
白が沈む。
血が落ちる。
灰剣が鳴る。
背後はもう、同じ形では戻らない。
それでも。
アリアは歩く。
失ったから進むのではない。
進むから、失われる。
それでも、残す。
戻れない一歩の先で、
まだ消えていないものを、
消さないために。
第45話「戻れない一歩」了
戻れない、ということは、
過去を捨てることではない。
戻せないまま、
失った形を抱えていくこと。
選択は、いつも何かを残す。
けれど同時に、
別の何かを取り戻せなくする。
その痛みをなかったことにしないまま、
次の足元を濃くしていく。
戻れない一歩。
それは、
失ったものの上に立つ一歩ではなく、
失ったものを消さないために進む一歩。




