表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
正解圏外 – The Outside of the Answer – 灰歴のアリア編  作者: 咲凪すず


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/50

【5部】第45話「戻れない一歩」

残すということは、

すべてを抱えていくことではない。

ひとつを濃くすれば、

別のひとつが薄れていく。

選んだものだけが残る。

けれど、

選ばれなかったものもまた、

なかったことにはならない。

戻れない。

その一歩から、

選択は傷になる。

白の奥へ、アリアは歩いていた。

灰剣の切っ先が、床を擦る。

細い傷が生まれる。

そこへ、血が落ちる。

白が少しだけ濃くなる。

一歩。

呼吸が揺れる。

もう一歩。

足元が残る。

背後で、何かが薄れた。

アリアは振り返らない。

振り返れば、見えてしまう。

さっきまであった線。

掌を押し当てた跡。

血でなぞった場所。

そのどれかが、もう消えかけている。

分かっていた。

進めば残る。

進めば失う。

白は、その二つを同時に起こす。

灰剣を引く。

左手を床へ下ろす。

裂けた掌が白に触れる。

赤が滲む。

足元が濃くなる。

その瞬間、背後の線が切れた。

音はなかった。

ただ、身体の奥で何かが軽くなる。

軽くなってはいけないものが、抜け落ちる。

アリアは足を止めた。

振り返る。

そこに道はあった。

だが、もう繋がっていない。

白の中に、細い傷が浮かんでいる。

さっきまで自分が歩いてきた場所。

触れて、刻んで、血を落とした場所。

けれど今は、そこだけが遠い。

数歩の距離なのに。

アリアは一歩、戻ろうとした。

足裏が沈む。

床が受け止めない。

白が、足首の形を曖昧にする。

アリアは灰剣を突き立てた。

刃が白へ食い込む。

そこへ左手を押しつける。

血が落ちる。

沈みかけた足元が、かろうじて戻る。

アリアは背後の線へ手を伸ばした。

届く。

指先が触れる。

だが、感触がない。

そこにあったはずの傷は、ただ白の表面に残った影になっていた。

アリアは爪を立てる。

血が滲む。

傷をなぞる。

もう一度、繋ごうとする。

白が濃くなる。

けれど、道には戻らない。

そこはもう、通ってきた場所ではなかった。

過去の形をした、別の傷だった。

アリアは手を止めた。

呼吸が浅い。

右肩が熱い。

左手の痛みが、指の奥まで広がっている。

戻せない。

繋げない。

けれど、消えたわけではない。

傷としてだけ、残る。

アリアはゆっくり顔を上げた。

前方に、白い道がある。

傷のない道。

血のいらない道。

最初から濃く、揺れず、沈まない道。

そこへ行けば、戻らなくていい。

繋がなくていい。

失った場所を見なくていい。

痛みが少し遠のく。

左手の熱が薄れる。

肩の重さが軽くなる。

身体が、そちらへ傾きかけた。

アリアは白い道を見る。

その上には、何もなかった。

傷もない。

血もない。

手形もない。

誰かが通った形も、自分が残る余地もない。

何も失わない道は、何も残さない。

アリアは視線を戻した。

自分の足元。

細い傷。

濡れた赤。

震える線。

弱い。

すぐ消える。

けれど、自分が触れた形だった。

アリアは灰剣を握り直す。

「……戻さない」

声は小さかった。

白に吸われかける。

それでも、消えない。

「戻れないなら」

左手を床へ押し当てる。

血が広がる。

足元が濃くなる。

「……残す」

灰剣を引く。

新しい傷が生まれる。

その瞬間、背後の掌の跡が消えた。

指の形がほどける。

赤が白へ沈む。

輪郭がなくなる。

アリアは振り返らなかった。

振り返れば、戻そうとする。

戻そうとすれば、前が消える。

前を残せば、後ろが消える。

全部は残せない。

それでも、何も残らない道へは行かない。

アリアは歩いた。

一歩ごとに、白が揺れる。

一歩ごとに、血が落ちる。

一歩ごとに、背後のどこかが薄れる。

足跡。

手形。

浅い傷。

呼吸の跡。

ここにいたという順番。

それらが、少しずつ白へ沈んでいく。

消えるたびに、足元は濃くなる。

失うたびに、前が残る。

白の奥に、境目が現れた。

段差ではない。

壁でもない。

ただ、白の濃さが変わっている。

こちら側と、向こう側。

その間に、薄い線が一本だけ走っていた。

アリアは足を止める。

そこを越えれば、もう戻れない。

分かる。

白がそう示しているのではない。

身体が知っている。

背後へ触れても戻らなかった。

傷を重ねても、道にはならなかった。

なら、次はもっと戻らない。

境目の手前に、古い凹みがあった。

誰のものでもない。

形を失った跡。

手形だったのか。

足跡だったのか。

傷だったのか。

もう判別できない。

アリアはそこへ指を伸ばした。

触れる。

触れたはずなのに、指先が沈まない。

白の表面だけが、わずかに揺れる。

血が一滴、落ちた。

赤は沈まなかった。

輪郭を持たないまま、白の上に浮いた。

一瞬だけ。

白の外へ零れたように。

アリアは瞬きをする。

次の瞬間、古い凹みは消えていた。

完全に。

触れても戻らないものがある。

血を落としても、残らないものがある。

アリアは指先を見る。

血はまだある。

痛みもある。

けれど、触れたものはもうない。

アリアは息を吐いた。

境目の向こうは濃い。

こちら側は薄い。

背後には、消えかけた自分の道。

横には、白い道。

傷つかずに進める道。

戻る必要もなく、失う痛みもない道。

アリアは一瞬だけ、それを見る。

痛みが遠のく。

呼吸が軽くなる。

白い道は、静かに続いている。

ただ踏めばいい。

それだけで、揺れない。

アリアは灰剣を上げた。

白い道へ向ける。

刃の先が、濃い床に触れる。

傷は浅くしか入らない。

血のついた指を押し当てる。

赤が弾かれるように揺れる。

白い道は、少しも沈まない。

アリアはそこを踏まなかった。

刃を戻す。

自分の足元へ置く。

そして、境目に傷を引いた。

白が抵抗する。

刃が止まりかける。

アリアは力を込める。

割れた爪が柄へ食い込む。

左手の裂傷が開く。

血が落ちる。

傷が、境目を越えた。

その瞬間。

背後の道が、白に沈んだ。

全部ではない。

けれど、もう戻れない形になった。

見えている。

見えているのに、届かない。

そこへ戻っても、同じ場所には立てない。

同じ手形は残せない。

同じ線は繋がらない。

アリアは、ようやく振り返った。

白の中に、弱い赤がいくつか浮いている。

灰剣の傷も、掌の跡も、ほとんど見えない。

それでも、完全には消えていなかった。

傷として。

失ったものとして。

戻れないものとして。

そこにある。

アリアは目を閉じない。

なかったことにしない。

それから、前を向く。

境目の向こうへ、足を出した。

白が沈む。

膝が落ちる。

身体が傾く。

アリアは左手を向こう側へ叩きつけた。

血が散る。

床が戻る。

灰剣を突き立てる。

刃の傷が、赤を受ける。

白が濃くなる。

アリアは身体を引き上げた。

右肩が裂けるように痛む。

息が詰まる。

それでも、手を離さない。

境目を越えた。

その瞬間、背後の音がなくなった。

足音も。

刃の擦れる音も。

呼吸が落とした震えも。

全部、白の向こうへ沈む。

アリアは振り返る。

そこに、道はない。

ただ白がある。

けれど、何もなかったわけではない。

血が落ちた。

傷があった。

手を押し当てた。

戻せなかった。

それだけは、身体の痛みとして残っている。

アリアは立ち上がった。

新しい足元がある。

自分の血で濃くなった床。

自分の傷で開いた線。

もう後ろとは繋がっていない。

それでも、前へ続いている。

白の奥で、いくつもの道が現れた。

濃い道。

薄い道。

途中で切れた道。

触れれば残りそうな道。

触れても戻らなさそうな道。

どれも、同時に揺れている。

どれかを選べば、別のどれかは失われる。

もう、そういう場所だった。

アリアは左手を握る。

痛みが走る。

血が指の間から落ちる。

足元が少し濃くなる。

痛い。

だから、分かる。

ここにいる。

まだ、選んでいる。

アリアは灰剣を床へ当てた。

新しい線を引く。

それは背後と繋がらない線だった。

戻るための線ではない。

前を消さないための線。

アリアは小さく息を吐く。

「……ここから」

白が揺れる。

声が残る。

「……戻れない」

足元が、少しだけ強くなる。

アリアは一歩を出した。

その一歩は、前へ進むためだけのものではなかった。

戻れないことを、引き受ける一歩だった。

消えたものを、なかったことにしない一歩だった。

白が沈む。

血が落ちる。

灰剣が鳴る。

背後はもう、同じ形では戻らない。

それでも。

アリアは歩く。

失ったから進むのではない。

進むから、失われる。

それでも、残す。

戻れない一歩の先で、

まだ消えていないものを、

消さないために。


第45話「戻れない一歩」了

戻れない、ということは、

過去を捨てることではない。

戻せないまま、

失った形を抱えていくこと。

選択は、いつも何かを残す。

けれど同時に、

別の何かを取り戻せなくする。

その痛みをなかったことにしないまま、

次の足元を濃くしていく。

戻れない一歩。

それは、

失ったものの上に立つ一歩ではなく、

失ったものを消さないために進む一歩。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ