【5部】第44話「続けるしかない」
選んだものは、
選んだ瞬間に終わらない。
触れる。
刻む。
残す。
離さない。
それをやめた場所から、
静かに、輪郭は薄れていく。
白の奥へ、道は続いていた。
細い。
あまりにも細い。
灰剣で刻んだ傷。
血でなぞった線。
掌を押し当てた跡。
その三つだけが、白の床にかろうじて残っている。
アリアは、その上を歩いていた。
右肩が熱い。
裂けたところが、呼吸のたびに脈打つ。
左手の割れた爪は、灰剣を握るたびに柄へ食い込み、鈍い熱を返してくる。
手の甲の裂傷は、乾きかけてはまた開く。
血が、まだ温かい。
息を吸う。
足元の端が薄れる。
吐く。
足の裏だけ、少し戻る。
一歩。
白が揺れる。
もう一歩。
背後の線が、細くなる。
振り返る。
さっきまで通ってきた道が、もう消えかけていた。
血の点は滲み、
灰剣の傷は白に埋まり、
掌の跡は輪郭を失っていく。
アリアは足を止めた。
その瞬間。
床が抜けた。
沈む。
音もなく。
立っている場所だけが、存在をやめようとする。
アリアは膝をついた。
左手を床へ押しつける。
裂傷が開く。
赤が落ちる。
白が濃くなる。
手の下だけ、床が戻る。
肩が震える。
膝が冷たい。
白は静かだった。
ただ、待っている。
離せば消える。
止まれば薄れる。
進めば、後ろが消える。
アリアは灰剣を床へ当てた。
切っ先を引く。
細い傷が生まれる。
血でなぞる。
線になる。
けれど、その線はすぐに揺れた。
前方に、別の道が現れる。
まっすぐな道だった。
傷がない。
血がない。
手形もない。
ただ、そこだけ白が濃い。
揺れない。
薄れない。
踏まれる前から、残っている。
灰剣はいらない。
血もいらない。
触れ続ける必要もない。
ただ、歩けばいい。
それだけで、続く。
アリアの呼吸が少し楽になる。
肩の熱が遠のく。
左手の痛みが薄れる。
脚の重さが軽くなる。
身体が、そちらへ傾きかける。
楽だ、と身体が先に知る。
アリアは白い道を見る。
その瞬間。
背後の音が消えた。
振り返る。
自分の線が薄れていた。
血の跡が白へ沈む。
灰剣の傷が埋まる。
掌の跡が消えかける。
自分が通った形が、なくなる。
アリアは白い道へ出しかけた足を止めた。
肩が熱を取り戻す。
左手が痛む。
呼吸が苦しくなる。
けれど、それでよかった。
アリアは足を戻した。
自分の細い線の上へ。
床が揺れる。
沈みかける。
左手を押しつける。
血が落ちる。
少し戻る。
灰剣を引く。
傷を重ねる。
一度。
まだ薄い。
二度。
まだ弱い。
三度。
ようやく線になる。
血でなぞる。
指先が震える。
呼吸が乱れる。
白い道は横にある。
今も濃い。
今も静かだ。
アリアは見ない。
消えかけた自分の跡を、なぞり続ける。
「……消さない」
掠れた声。
白に吸われそうになりながら、残る。
アリアは立ち上がる。
脚が震える。
右肩が重い。
左手が熱い。
背後の線は細い。
すぐに消えそうだ。
でも、ある。
一歩。
白が揺れる。
吐く。
足元が残る。
もう一歩。
背後が薄れる。
灰剣を後ろへ引く。
傷を刻む。
血が落ちる。
線が続く。
その先に、小さな円があった。
中央にだけ、濃い場所がある。
そこへ足を乗せる。
白の中に、いくつもの手形が浮かんだ。
どれも薄い。
ほとんど消えている。
触れる。
一瞬だけ濃くなる。
すぐ薄れる。
また消えかける。
残そうとしても、残りきらない。
白は、そういう場所だった。
アリアは掌を重ねる。
血が広がる。
古い跡と、新しい跡が重なる。
少しだけ濃くなる。
けれど、その赤だけが沈まない。
白の上に、淡く浮く。
輪郭を持たない。
指先で触れているはずなのに、そこだけ触れた感触が曖昧になる。
ざらつく空白。
すぐに消える。
アリアは瞬きをした。
戻る。
でも、少しだけ違う。
そこだけが、白の外側へこぼれ落ちたように薄い。
アリアは手を離さない。
円の端が崩れ始める。
手形がまた薄れる。
前を濃くすると、後ろが消えかける。
一つ残すと、別の一つが薄れる。
全部は残せない。
全部を支える力はない。
手が震える。
掌が剥がれかける。
その瞬間。
足元の線が切れた。
身体が傾く。
落ちる。
アリアは左手を伸ばした。
掴んだのは、自分が刻んだ細い傷。
割れた爪を立てる。
さらに裂ける。
鋭い痛み。
赤が落ちる。
線が戻る。
アリアはそこへしがみついた。
吐く。
少し戻る。
吸う。
また薄れる。
吐く。
少し残る。
完全には戻らない。
でも、残る。
震える膝で立つ。
横には、まだ白い道がある。
痛まない道。
傷つかない道。
残さなくても続く道。
きっと、正しい道。
でも。
アリアは背後を見る。
細い線がある。
血がある。
傷がある。
触れた跡がある。
自分が、ここを通った形がある。
それは弱い。
すぐ消える。
それでも、自分のものだった。
アリアは灰剣を白い道へ当てる。
引く。
表面に細い灰色の傷が残る。
そこへ血のついた指を押し当てる。
赤が混じる。
揺れない道が、わずかに揺れる。
アリアはその上を歩かない。
その横を歩く。
自分でつけた傷の縁を踏む。
一歩。
沈む。
吐く。
戻る。
もう一歩。
背後が薄れる。
灰剣を引く。
血が落ちる。
線が続く。
何も解決していない。
何も安定していない。
白は広い。
道は細い。
痛みは消えない。
痕跡はすぐ薄れる。
それでも。
アリアは左手を床へ押し当てた。
血の手形。
灰剣の傷。
落ちる呼吸。
残る輪郭。
アリアは小さく言う。
「……まだ、ここだ」
足元が、少し濃くなる。
背後の細い道が、かろうじて繋がる。
前方に、次の揺らぎが開く。
アリアは歩く。
消えかけたら、また触れる。
薄れたら、また血を落とす。
切れたら、またつなぐ。
止まれば消える。
だから止まらない。
選んだからではない。
選び続けなければ、残らないから。
灰剣を引く。
血が落ちる。
呼吸が続く。
白の奥へ。
まだ消えていないものを、
消さないために。
第44話「続けるしかない」了
残るものは、強いものではない。
細く、弱く、
消えそうで。
それでも何度も触れ、
何度も残し、
何度も繋ぎ直したものだけが、
静かに、そこに在り続ける。
まだ、ここだ。
その小さな輪郭の先へ、
また一歩。




