【5部】第43話「存在を選ぶ」
消えなかったものがある。
傷。
血。
痛み。
握り続けた冷たさ。
失わなかったのではない。
失った先にも、
なお残ったもの。
それだけが、
静かに、ここにいた。
白の奥へ、細い道が続いていた。
一本の傷跡のような道だった。
灰剣の刻み。
血の沈んだ痕。
触れ続けた指の跡。
そこだけが、かろうじて白の中に残っている。
アリアは、その細い上に立っていた。
肩が熱い。
左手の爪が脈打つ。
手の甲の裂傷が、握るたびに開く。
息は浅い。
けれど、まだある。
アリアは足を出した。
床が薄れる。
吐く。
少し戻る。
吸う。
端が消える。
血が落ちる。
その一点だけ、白が濃くなる。
アリアは灰剣の切っ先を下ろした。
細い傷が残る。
血でなぞる。
線になる。
細い。
弱い。
すぐに消えそうで、それでもまだ残る。
アリアはその上を進む。
前方に、人影があった。
静かに立っている。
近づく。
そこにいたのは――アリアだった。
傷のないアリア。
肩は裂けていない。
手も赤くない。
呼吸も乱れていない。
足元の道は濃い。
揺れない。
消えない。
迷いもない。
そのアリアが一歩進む。
床が生まれる。
次の一歩。
残る。
さらに一歩。
確かに続く。
アリアの足元が薄れる。
傷のない自分の道だけが、白く濃く伸びる。
声はない。
ただ、その背中だけが語っていた。
――まだ失わずに進める。
アリアは見つめた。
胸の奥がわずかに揺れる。
もし。
裂けずに済んだなら。
血を流さずに済んだなら。
何も失わず、ここまで来られたなら。
その背中を選べたかもしれない。
そのとき。
腰のポーチが、小さく鳴った。
乾いた金属音。
一度。
今ここ。
アリアはポーチを押さえる。
身体の横。
冷たい重み。
今の自分に触れるもの。
アリアは息を吐いた。
「……違う」
傷のないアリアが、薄く揺れる。
アリアは左手を床へ押しつけた。
裂傷が開く。
赤が落ちる。
痛みが走る。
足元が濃くなる。
傷のないアリアの道が、少し白へ沈む。
アリアは前へ出る。
その背中を追わない。
今の足で進む。
白が揺れる。
次に現れたのは、鏡だった。
水面のようで、金属のようで、ただの白の膜にも見える。
そこに映っていたのは、軽いアリアだった。
灰剣を持っていない。
ポーチもない。
傷もない。
血もない。
ただ、静かに立っている。
軽そうだった。
呼吸すら浅くない。
何も背負っていない輪郭。
そのアリアが手を伸ばす。
触れれば、痛みが消えそうだった。
肩の熱が薄れる。
手の傷が遠のく。
膝の重さが抜ける。
楽になる。
アリアの指先が、白い膜へ近づく。
あと少しで触れる。
その瞬間。
背後で、かすかな足音が鳴った。
乾いた音。
遠くへ届かない音。
そして、浅く途切れる呼吸。
姿はない。
けれど、音だけが残っている。
届かなかった歩み。
立ち上がれなかった息。
その先に、今の自分がいる。
アリアは伸ばしかけた手を止めた。
右手で左手の裂傷を握る。
痛みが戻る。
熱が戻る。
重さが戻る。
アリアは小さく言った。
「……消さない」
白い膜が揺れる。
軽いアリアが、少し悲しそうに見えた。
けれど、怒ってはいなかった。
ただ、遠ざかる。
薄く、白へ沈む。
アリアは灰剣を床へ下ろした。
細い傷を刻む。
一つ。
また一つ。
血でなぞる。
呼吸を合わせる。
吸う。
薄れる。
吐く。
残る。
吸う。
揺れる。
吐く。
残る。
その繰り返しだけで、足元が繋がる。
前へ。
さらに前へ。
白の奥に、境目が現れた。
線のように細い壁。
向こう側が見えない。
そこへ向かって歩く。
だが、その前にもうひとつの自分が立っていた。
背中だけが見える。
血がついている。
肩も裂けている。
灰剣もある。
腰のポーチも揺れている。
今の自分と同じだった。
違うのは、一つだけ。
そのアリアは、何も残していない。
振り返らず、通った場所を置き去りにして進んでいく。
血も跡にならない。
灰剣の傷も残らない。
触れた場所も白へ戻る。
ただ前へ進むだけ。
それでも、その歩みは速い。
迷いもない。
背後を抱えない分だけ、軽く進める。
アリアの足元が揺れる。
背後の線が薄れる。
今まで残してきた道が消えかける。
アリアは振り返った。
血の跡。
灰剣の傷。
触れた場所。
全部、細く、弱く、今にも消えそうだ。
けれど。
確かに自分が通った形だった。
なかったことにはならない。
アリアは膝をついた。
血のついた掌を床へ押し当てる。
赤い手形が残る。
灰剣を突き立てる。
細い傷が増える。
息を吐く。
傷が濃くなる。
肩が裂ける。
膝が震える。
視界が白く滲む。
それでも、手を離さない。
前だけを見る自分が止まる。
白の向こうで、静かに立ち止まる。
アリアは言った。
「ここを」
息を吐く。
白が少し残る。
「通った」
血が沈む。
傷が繋がる。
「消さない」
前だけを見るアリアが、ゆっくり薄れていく。
白へ溶ける。
消えたのではない。
今の自分の奥へ戻る。
肩が重くなる。
脚がさらに重くなる。
呼吸が深く乱れる。
全部、引き受けた重さだった。
アリアは立ち上がる。
境目の前へ行く。
指先で触れる。
冷たい。
硬い。
ある。
アリアは灰剣を添えた。
切っ先が白へ沈む。
腰のポーチが鳴る。
乾いた音。
同時に胸が鳴る。
肩の痛みが鳴る。
足裏の感触が鳴る。
全部が、今ここにある。
アリアは血のついた手を境目へ押し当てた。
赤い手形。
白の壁が薄れる。
足元の線が濃くなる。
背後の道がかろうじて残る。
前と後ろが、一本の細い傷で繋がる。
アリアは息を吸った。
吐く。
一歩、踏み込む。
白の向こうへ身体が入る。
その瞬間。
肩の痛みが消えかける。
血の重みが薄れる。
灰剣が軽くなる。
アリアは左手の割れた爪を、裂けた右手へ食い込ませた。
鋭い痛み。
熱。
赤。
全部が戻る。
アリアは立った。
白の向こう側に。
そこは静かな円の床だった。
中央に白い水面がある。
揺れている。
その中に、いくつものアリアが映る。
傷のない自分。
軽い自分。
前だけを見る自分。
そして、届かなかった歩みと、立ち上がれなかった息の残響。
すべてが、水面の奥で揺れる。
ゆっくり沈む。
今のアリアの輪郭へ戻ってくる。
肩が重い。
脚が震える。
息が荒い。
血が温かい。
灰剣が冷たい。
ポーチが鳴る。
全部、残っている。
アリアは水面へ触れた。
赤が広がる。
白い円が、少し濃くなる。
床が残る。
アリアはその揺れる自分を見た。
綺麗じゃない。
正しくもない。
軽くもない。
間違いも、痛みも、失ったものもある。
けれど。
これが、自分だ。
アリアは小さく息を吐いた。
そして言う。
「……私で行く」
白の円が、静かに鳴った。
消えない。
まだ。
その先へ、また細い道が生まれる。
血の跡。
灰剣の傷。
触れた手の跡。
アリアは歩き出す。
今の自分を残したまま。
選んだ自分で。
白の奥へ。
第43話「存在を選ぶ」了
白の中に残るのは、
正しかった形ではない。
選び、傷つき、失い、
それでも手放さなかった輪郭だけ。
細く、弱く、消えそうで。
だからこそ――
それは確かに、自分だった。




