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正解圏外 – The Outside of the Answer – 灰歴のアリア編  作者: 咲凪すず


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43/50

【5部】第43話「存在を選ぶ」

消えなかったものがある。

傷。

血。

痛み。

握り続けた冷たさ。

失わなかったのではない。

失った先にも、

なお残ったもの。

それだけが、

静かに、ここにいた。

白の奥へ、細い道が続いていた。

一本の傷跡のような道だった。

灰剣の刻み。

血の沈んだ痕。

触れ続けた指の跡。

そこだけが、かろうじて白の中に残っている。

アリアは、その細い上に立っていた。

肩が熱い。

左手の爪が脈打つ。

手の甲の裂傷が、握るたびに開く。

息は浅い。

けれど、まだある。

アリアは足を出した。

床が薄れる。

吐く。

少し戻る。

吸う。

端が消える。

血が落ちる。

その一点だけ、白が濃くなる。

アリアは灰剣の切っ先を下ろした。

細い傷が残る。

血でなぞる。

線になる。

細い。

弱い。

すぐに消えそうで、それでもまだ残る。

アリアはその上を進む。

前方に、人影があった。

静かに立っている。

近づく。

そこにいたのは――アリアだった。

傷のないアリア。

肩は裂けていない。

手も赤くない。

呼吸も乱れていない。

足元の道は濃い。

揺れない。

消えない。

迷いもない。

そのアリアが一歩進む。

床が生まれる。

次の一歩。

残る。

さらに一歩。

確かに続く。

アリアの足元が薄れる。

傷のない自分の道だけが、白く濃く伸びる。

声はない。

ただ、その背中だけが語っていた。

――まだ失わずに進める。

アリアは見つめた。

胸の奥がわずかに揺れる。

もし。

裂けずに済んだなら。

血を流さずに済んだなら。

何も失わず、ここまで来られたなら。

その背中を選べたかもしれない。

そのとき。

腰のポーチが、小さく鳴った。

乾いた金属音。

一度。

今ここ。

アリアはポーチを押さえる。

身体の横。

冷たい重み。

今の自分に触れるもの。

アリアは息を吐いた。

「……違う」

傷のないアリアが、薄く揺れる。

アリアは左手を床へ押しつけた。

裂傷が開く。

赤が落ちる。

痛みが走る。

足元が濃くなる。

傷のないアリアの道が、少し白へ沈む。

アリアは前へ出る。

その背中を追わない。

今の足で進む。

白が揺れる。

次に現れたのは、鏡だった。

水面のようで、金属のようで、ただの白の膜にも見える。

そこに映っていたのは、軽いアリアだった。

灰剣を持っていない。

ポーチもない。

傷もない。

血もない。

ただ、静かに立っている。

軽そうだった。

呼吸すら浅くない。

何も背負っていない輪郭。

そのアリアが手を伸ばす。

触れれば、痛みが消えそうだった。

肩の熱が薄れる。

手の傷が遠のく。

膝の重さが抜ける。

楽になる。

アリアの指先が、白い膜へ近づく。

あと少しで触れる。

その瞬間。

背後で、かすかな足音が鳴った。

乾いた音。

遠くへ届かない音。

そして、浅く途切れる呼吸。

姿はない。

けれど、音だけが残っている。

届かなかった歩み。

立ち上がれなかった息。

その先に、今の自分がいる。

アリアは伸ばしかけた手を止めた。

右手で左手の裂傷を握る。

痛みが戻る。

熱が戻る。

重さが戻る。

アリアは小さく言った。

「……消さない」

白い膜が揺れる。

軽いアリアが、少し悲しそうに見えた。

けれど、怒ってはいなかった。

ただ、遠ざかる。

薄く、白へ沈む。

アリアは灰剣を床へ下ろした。

細い傷を刻む。

一つ。

また一つ。

血でなぞる。

呼吸を合わせる。

吸う。

薄れる。

吐く。

残る。

吸う。

揺れる。

吐く。

残る。

その繰り返しだけで、足元が繋がる。

前へ。

さらに前へ。

白の奥に、境目が現れた。

線のように細い壁。

向こう側が見えない。

そこへ向かって歩く。

だが、その前にもうひとつの自分が立っていた。

背中だけが見える。

血がついている。

肩も裂けている。

灰剣もある。

腰のポーチも揺れている。

今の自分と同じだった。

違うのは、一つだけ。

そのアリアは、何も残していない。

振り返らず、通った場所を置き去りにして進んでいく。

血も跡にならない。

灰剣の傷も残らない。

触れた場所も白へ戻る。

ただ前へ進むだけ。

それでも、その歩みは速い。

迷いもない。

背後を抱えない分だけ、軽く進める。

アリアの足元が揺れる。

背後の線が薄れる。

今まで残してきた道が消えかける。

アリアは振り返った。

血の跡。

灰剣の傷。

触れた場所。

全部、細く、弱く、今にも消えそうだ。

けれど。

確かに自分が通った形だった。

なかったことにはならない。

アリアは膝をついた。

血のついた掌を床へ押し当てる。

赤い手形が残る。

灰剣を突き立てる。

細い傷が増える。

息を吐く。

傷が濃くなる。

肩が裂ける。

膝が震える。

視界が白く滲む。

それでも、手を離さない。

前だけを見る自分が止まる。

白の向こうで、静かに立ち止まる。

アリアは言った。

「ここを」

息を吐く。

白が少し残る。

「通った」

血が沈む。

傷が繋がる。

「消さない」

前だけを見るアリアが、ゆっくり薄れていく。

白へ溶ける。

消えたのではない。

今の自分の奥へ戻る。

肩が重くなる。

脚がさらに重くなる。

呼吸が深く乱れる。

全部、引き受けた重さだった。

アリアは立ち上がる。

境目の前へ行く。

指先で触れる。

冷たい。

硬い。

ある。

アリアは灰剣を添えた。

切っ先が白へ沈む。

腰のポーチが鳴る。

乾いた音。

同時に胸が鳴る。

肩の痛みが鳴る。

足裏の感触が鳴る。

全部が、今ここにある。

アリアは血のついた手を境目へ押し当てた。

赤い手形。

白の壁が薄れる。

足元の線が濃くなる。

背後の道がかろうじて残る。

前と後ろが、一本の細い傷で繋がる。

アリアは息を吸った。

吐く。

一歩、踏み込む。

白の向こうへ身体が入る。

その瞬間。

肩の痛みが消えかける。

血の重みが薄れる。

灰剣が軽くなる。

アリアは左手の割れた爪を、裂けた右手へ食い込ませた。

鋭い痛み。

熱。

赤。

全部が戻る。

アリアは立った。

白の向こう側に。

そこは静かな円の床だった。

中央に白い水面がある。

揺れている。

その中に、いくつものアリアが映る。

傷のない自分。

軽い自分。

前だけを見る自分。

そして、届かなかった歩みと、立ち上がれなかった息の残響。

すべてが、水面の奥で揺れる。

ゆっくり沈む。

今のアリアの輪郭へ戻ってくる。

肩が重い。

脚が震える。

息が荒い。

血が温かい。

灰剣が冷たい。

ポーチが鳴る。

全部、残っている。

アリアは水面へ触れた。

赤が広がる。

白い円が、少し濃くなる。

床が残る。

アリアはその揺れる自分を見た。

綺麗じゃない。

正しくもない。

軽くもない。

間違いも、痛みも、失ったものもある。

けれど。

これが、自分だ。

アリアは小さく息を吐いた。

そして言う。

「……私で行く」

白の円が、静かに鳴った。

消えない。

まだ。

その先へ、また細い道が生まれる。

血の跡。

灰剣の傷。

触れた手の跡。

アリアは歩き出す。

今の自分を残したまま。

選んだ自分で。

白の奥へ。


第43話「存在を選ぶ」了

白の中に残るのは、

正しかった形ではない。

選び、傷つき、失い、

それでも手放さなかった輪郭だけ。

細く、弱く、消えそうで。

だからこそ――

それは確かに、自分だった。

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