【5部】第42話「揺らぎの中で」
あるはずのものが、薄れる。
ないはずのものが、触れる。
残った痛みだけが、
ここにいたことを知っている。
まだ、足は前を向いていた。
白い静寂の中を、アリアは歩いていた。
一歩。
床が生まれる。
もう一歩。
背後が消える。
それだけを繰り返していた。
呼吸は浅い。
肩は重い。
腰のポーチが、歩くたびに小さく揺れる。
灰剣の柄は、手の中で冷えていた。
アリアは足を出す。
床がある。
体重を乗せる。
床が消えた。
足首が沈む。
膝が落ちる。
身体が前へ倒れる。
アリアは左手を伸ばした。
何もない。
指が空を掻く。
爪の先に、冷たい硬さが触れた。
アリアはそれを掴んだ。
白い縁。
見えない。
けれど、ある。
腕に体重がかかる。
肩の奥が軋む。
歯の間から息が漏れる。
次の瞬間、膝に衝撃が来た。
アリアは立っていた。
落ちていない。
掴んだはずの縁もない。
沈んだはずの足元もない。
ただ、左手の爪だけが割れていた。
血がにじむ。
アリアは手を見る。
赤い。
床を見る。
白い。
何も落ちていない。
何も掴んでいない。
それでも、爪だけが割れている。
アリアは息を吐いた。
右肩に熱が走った。
裂ける。
血が落ちる。
アリアは指で触れた。
傷はない。
指先だけが赤かった。
まばたき。
肩が裂けている。
血が腕を伝う。
まばたき。
傷は浅い。
まばたき。
傷はない。
まばたき。
痛みだけが残る。
アリアは灰剣を握り直した。
前へ進む。
白い空間の奥に、細い光が揺れていた。
近い。
遠い。
足元にある。
頭上にある。
背後で脈を打つ。
アリアは振り返らなかった。
足を出す。
床がない。
そのまま踏む。
靴底が空を抜ける。
膝が沈む。
だが、足は戻さない。
前へ。
硬さが遅れて生まれた。
白い床が、靴底の形に沈む。
アリアはその上に立つ。
床が震える。
足も震える。
アリアはもう一歩出した。
床が生まれる。
すぐに薄れる。
もう一歩。
床が砕ける。
砕けた破片が、落ちずに宙へ浮いた。
破片の一つに、足跡が残っていた。
アリアの足跡。
まだ踏んでいない場所に。
アリアはそれを見た。
足跡はゆっくり薄くなり、消えた。
次の瞬間、足裏に冷たさが走る。
見下ろす。
今踏んでいる床に、足跡はない。
白いだけ。
何も残らない。
アリアは唇を結んだ。
進む。
五歩。
十歩。
三歩。
距離が縮む。
伸びる。
同じ白が続く。
息の数が合わない。
左肩で一度呼吸したような痛みが走り、右脚に遅れて疲労が落ちる。
身体の時間だけが、ばらばらに動いている。
アリアは止まらなかった。
止まった瞬間、どこに立っていたことになるのか分からない。
前へ。
前へ。
白い線が走った。
アリアは身を沈める。
遅れて、頭上の空間が裂ける。
血は出ない。
代わりに、髪が数本、宙で切れた。
切れた髪が落ちる前に、頬に細い傷が生まれた。
痛みが先に来る。
傷が後から追いつく。
アリアは灰剣を振った。
刃は白い線を抜ける。
触れない。
けれど、線は曲がった。
灰剣が通った場所だけ、白い線の形が変わっていた。
その隙間を、アリアは抜ける。
床が生まれる。
消える。
生まれる。
消える。
足を止める暇はない。
前方に、アリアがいた。
膝をついている。
同じ髪。
同じ灰剣。
同じ腰のポーチ。
肩から血が落ちている。
そのアリアは立ち上がろうとして、立てなかった。
白い床に手をつく。
手が沈む。
身体が傾く。
それでも、顔だけはこちらを向いた。
声はない。
呼吸だけがあった。
浅く、荒く、途切れそうな呼吸。
アリアの胸の奥で、同じ音が鳴った。
右側に、別のアリアが走っていた。
傷はない。
灰剣を背に流し、白い光へ向かって走っている。
速い。
迷いがない。
足元に床はない。
それでも走っている。
けれど、近づいていない。
白い光は、そのアリアの前で同じ距離を保っていた。
足音だけが増えていく。
乾いた音。
空を踏む音。
どこにも届かない音。
アリアは二人を見た。
倒れた自分。
走る自分。
どちらの息も、胸の中で鳴っている。
どちらの足音も、足裏に残っている。
アリアは灰剣を下げた。
倒れた自分へは行かない。
走る自分を追わない。
自分の足元を見る。
細い床。
白く、薄く、今にも消えそうな床。
そこに、今の足が乗っている。
アリアは息を吸った。
白い床が薄れる。
息を吐く。
床が少し濃くなる。
もう一度、吸う。
床が震える。
吐く。
震えが止まる。
アリアは小さく言った。
「ここ」
それだけだった。
膝をついていたアリアが、薄くなる。
血だけが床に残った。
走っていたアリアが、薄くなる。
足音だけが背後へ流れた。
血はアリアの肩へ戻る。
足音はアリアの足裏へ戻る。
肩が重くなる。
脚が震える。
アリアはそれを受けた。
前へ歩く。
一歩。
床が残る。
二歩。
背後が消える。
三歩。
一歩目が戻ってくる。
アリアは止まる。
背後のはずの床が、前にあった。
今踏んだはずの場所が、遠くにある。
腰のポーチが揺れる。
中で、小さな金属片が鳴った。
その音だけが、真っ直ぐだった。
アリアは音を聞いた。
一度。
二度。
歩くたびに、同じ位置で鳴る。
身体の横。
腰の近く。
今ここ。
アリアはポーチの紐を押さえた。
足を出す。
金属片が鳴る。
床が生まれる。
もう一歩。
鳴る。
床が残る。
さらに一歩。
音が遅れる。
床が薄れる。
アリアは足を止めた。
戻る。
違う。
戻らない。
アリアはポーチを強く押さえた。
中の金属片が、手の下で冷たく触れた。
今ここにあるもの。
それだけを頼りに、足を出す。
音が鳴る前に踏む。
床が生まれた。
音が後から追いつく。
アリアは歩いた。
音。
足。
床。
呼吸。
血。
灰剣。
順番は崩れる。
けれど、全部、まだある。
白い空間が広がった。
広場のようにも見える。
穴のようにも見える。
水面のようにも見える。
中央に、扉があった。
半透明の扉。
開いている。
閉じている。
傾いている。
砕けている。
まだ枠だけ。
まだ影だけ。
アリアは近づいた。
扉まで、十歩。
三歩。
二十歩。
半歩。
アリアは、数えるのをやめた。
足を出す。
床がある。
次。
床がない。
次。
床がある。
右肩から血が落ちる。
血は床に触れた瞬間、赤いまま白へ沈んだ。
その場所だけ、床が少し濃くなる。
アリアは見た。
血の跡が道のように続いている。
自分が歩いてきた場所へ。
これから歩く場所へ。
両方へ。
白い線が走る。
アリアは避けない。
血の跡の上を進む。
線が肩を裂く。
痛みが重なる。
傷がある。
ない。
深い。
浅い。
血が出る。
乾く。
また出る。
アリアは足を止めない。
扉の前に立つ。
手を伸ばす。
指がすり抜ける。
手の甲が裂ける。
扉が背後に回る。
アリアは振り返らない。
前へ手を伸ばしたまま、踏み込む。
胸に衝撃。
扉にぶつかった。
次の瞬間、扉は開いている。
アリアは倒れこむ。
床がない。
落ちる。
落ちない。
身体が宙に止まる。
白い空間の中で、扉だけが音を立てた。
開く音。
閉じる音。
壊れる音。
作られる音。
全部が重なる。
アリアは宙に浮いたまま、灰剣を握った。
斬らない。
押さない。
開けない。
灰剣を床へ向ける。
床はない。
それでも、切っ先を下ろす。
白い一点に触れる。
小さな硬さが生まれる。
アリアはそこへ足を乗せた。
一点。
それだけ。
足裏の半分も乗らない。
アリアはその一点に体重を預ける。
膝が震える。
肩の傷が開く。
手の甲から血が落ちる。
血は落ちず、白い一点の周りを漂った。
アリアはもう片方の足を前へ出す。
何もない。
だが、戻さない。
足先に、次の一点が生まれる。
そこへ乗る。
一点。
また一点。
扉の形が揺らぐ。
開いている。
閉じている。
壊れている。
未だない。
アリアはそのどれも見なかった。
一点。
一点。
一点。
扉の向こうへ進む。
身体が白い光を抜ける。
背後で、扉が閉じる。
閉じた扉が砕ける。
砕けた扉が、まだ開いている。
開いた扉が、最初からなかったものになる。
音だけが残った。
アリアは床に膝をついた。
広い床だった。
今までより長く、白が続いている。
消えない。
すぐには。
アリアは手をつく。
硬い。
冷たい。
ある。
息を吐く。
肩が痛む。
頬が痛む。
手の甲が痛む。
左手の爪が割れている。
全部、残っている。
アリアはゆっくり立ち上がった。
床が揺れる。
だが、消えない。
白い光の奥で、細い段が現れた。
階段ではない。
線でもない。
一段だけの高さ。
そこへ向かって歩く。
床は残っている。
一歩。
残る。
二歩。
残る。
三歩。
一歩目が薄れる。
アリアは振り返る。
足跡が消えかけていた。
床も一緒に薄れている。
アリアは息を止めた。
前を見る。
一段の先に、さらに白がある。
後ろを見る。
立っていた場所が薄れている。
足元を見る。
今いる床も、少しずつ透けている。
アリアは動かない。
床が薄くなる。
肩の血が落ちる。
赤が白に沈む。
その場所だけ、床が濃くなる。
アリアは血の跡を見る。
小さな赤。
すぐに薄れる。
アリアは右手を握った。
手の甲の傷が開く。
血がにじむ。
アリアはその手を床へ押し当てた。
白い床に、赤い手形が残る。
床が少しだけ濃くなる。
消えない。
まだ。
アリアは手を離した。
手形が揺れる。
薄れる。
アリアはもう一度押し当てる。
痛みが走る。
床が残る。
息が荒くなる。
白い空間の奥で、細い段が震えている。
進まなければ、届かない。
離れれば、足元が消える。
アリアは血のついた手を見た。
灰剣を見る。
ポーチを見る。
自分の足を見る。
そして、前へ出した。
一歩。
床が生まれる。
アリアは振り返らず、左手を後ろへ伸ばした。
指先が、さっきまで立っていた床へ触れる。
触れた場所が、かろうじて残る。
前へ一歩。
後ろへ手。
前へ一歩。
後ろへ血。
足で進みながら、手で今までを押さえる。
肩が軋む。
腰が引かれる。
呼吸が乱れる。
前の床が薄れる。
後ろの床も薄れる。
アリアは歯を食いしばる。
灰剣を床へ突き立てた。
切っ先が白に触れる。
硬さが広がる。
細い線が、足元から背後へ伸びた。
長くはない。
弱い。
すぐに薄れる。
それでも、残る。
アリアは灰剣を抜いた。
一歩進む。
また突き立てる。
白い線が残る。
もう一歩。
また突き立てる。
線がつながる。
細い。
頼りない。
けれど、消えきらない。
アリアはその線の上を歩いた。
血が落ちる。
線が赤くなる。
赤はすぐに白へ沈む。
白い線だけが、少し太くなる。
アリアは段の前に着いた。
一段だけの白。
それは上へ続いていない。
ただ、そこにある。
アリアは足を乗せる。
段が消えかける。
灰剣を突き立てる。
段が戻る。
血が落ちる。
段が濃くなる。
アリアは息を吐いた。
「……残れ」
声は白に吸われた。
段は残った。
長くはない。
永遠でもない。
ただ、今だけ。
アリアはその一段を越えた。
細い線。
血の跡。
灰剣の傷。
そこだけが、道になっていた。
背後で、白い線が震えている。
消えそうで、消えない。
アリアは肩で息をした。
傷はある。
血もある。
痛みもある。
床もある。
今は。
アリアは灰剣を握り直した。
通路の奥で、白い脈動がもう一度鳴る。
さっきより、近い。
けれど、安定していない。
アリアは歩き出す。
一歩。
床が鳴る。
二歩。
背後の線が震える。
三歩。
足元が薄れる。
アリアは灰剣を軽く下ろした。
切っ先が床を叩く。
小さな音。
床が戻る。
アリアはもう一度、前を見た。
手の痛み。
血の跡。
白い床の震え。
触れていた場所だけが、まだ残っている。
アリアは小さく息を吸う。
「次」
声は低く、短く、白の奥へ落ちた。
そして、アリアは揺らぎの中を進んだ。
第42話「揺らぎの中で」了
消えた床の感触は、
足裏の奥にだけ残っている。
乾いたはずの血は、
まだ肩を濡らしていた。
白の奥で、
次の一歩だけが、まだ生きていた。




