【5部】第41話「境界に触れる」
正しい道は、もうない。
けれど、足を出さなければ、
道は生まれない。
選ばなかったものは、残らない。
それでも、
手に残るものだけを持って、進む。
ゼロ塔の入口は、白く裂けていた。
扉ではない。
穴でもない。
世界に入った、細い傷。
その前で、NOMADは膝をついていた。
もう動かない。
胸部の灯は消えている。
関節の奥に残っていた熱も、今はない。
砂と灰に汚れた装甲だけが、静かに白い光を受けていた。
アリアは、その前に立っていた。
長いあいだ、動かなかった。
風はない。
音もない。
それでも、どこかで軋みが聞こえる気がした。
左肩の裂傷。
右脚の補強板。
胸部装甲の焼け跡。
外縁で拾った部品を継ぎ足した背面フレーム。
全部、知っている。
アリアは腰のポーチから工具を出した。
外れかけていた装甲爪を押し込む。
曲がった固定具を戻す。
裂けた接続索を、もう一度だけ巻き直す。
直るわけではない。
それでも、手は止まらなかった。
最後に、コクピットの縁へ触れた。
何度も掴んだ場所。
乗り込む時。
逃げる時。
戻ってきた時。
迷った時。
指先が、ほんの少しだけ沈む。
そこにはもう、応答がない。
アリアは手を離した。
小汚い袋を背負い直す。
中には水、布、包帯、古い工具、少しの食料。
腰には小さなポーチ。
手には灰剣。
それだけ。
アリアはNOMADを見上げた。
言葉は出さなかった。
ただ、ほんの少しだけ頭を下げた。
そして、背を向けた。
白い裂け目へ歩く。
一歩目。
床はあった。
二歩目。
床はなかった。
身体が落ちる。
アリアは灰剣を振った。
刃は空を裂いた。
けれど、何も起きなかった。
白い空間が、ただ上へ流れていく。
アリアは左手を伸ばした。
何もない。
それでも、掴む。
指先に硬さが生まれた。
白い縁。
爪が割れる。
腕が伸びる。
肩の筋が悲鳴を上げる。
アリアは身体を引き上げた。
靴底が空を踏む。
一歩分だけ、床が生まれた。
背後を見る。
入口は遠い。
NOMADは白い霧の奥に沈んでいる。
戻る道はなかった。
アリアは前を向いた。
細い線が浮かんでいる。
道にも見える。
傷にも見える。
まだ決まっていないものにも見える。
アリアは足を出す。
床が生まれる。
次の足を出す。
空を踏む。
落ちる前に身体をひねる。
袋が肩からずれた。
腰のポーチが脇腹を打つ。
アリアは袋の紐を噛んで引き戻し、左足を前へ投げた。
着地する。
そこに床ができる。
遅れて、衝撃が膝に来た。
立ち止まる暇はない。
右肩が裂けた。
何かが斬ったわけではなかった。
先に、裂けていた。
血が浮く。
遅れて、白い空間に細い刃の形が現れる。
結果のあとに、攻撃が来た。
アリアは歯を食いしばる。
次。
脇腹に冷たさ。
斬られる前に、身を沈める。
刃はまだない。
だが、沈んだ瞬間、頭上に白い線が走った。
遅れて空間が割れる。
アリアは転がる。
床が途中で消える。
手をつく。
手の下に何もない。
肘から落ちる。
灰剣を床へ突き立てる。
床は、ない。
刃が空を抜ける。
アリアは息を止めた。
違う。
突き立てる場所を探すな。
決める。
ここで止まる。
灰剣の切っ先が白い一点に触れた。
硬さが生まれる。
アリアの身体が止まる。
腕が痺れた。
背中の袋が前へ跳ね、紐が肩に食い込む。
中で工具が鳴った。
その音だけが、やけに近い。
アリアは立ち上がる。
白い刃が三つ、生まれていた。
一つはもう斬った後だった。
一つはまだ斬っていない。
一つは、斬るかどうかも決まっていない。
アリアは避ける。
一つ目は避けられた。
二つ目は避けた先に現れた。
灰剣で払う。
弾けない。
刃は灰剣をすり抜ける。
アリアは手首を返す。
払うのをやめる。
刃の内側へ入る。
斬られる位置から、自分で外れる。
刃は通り過ぎた。
三つ目は動かない。
アリアも動かない。
白い刃と向き合う。
息が浅い。
肩から血が落ちる。
袋の紐が濡れる。
動けば斬られる。
動かなければ、足元が消える。
アリアは左手で袋の紐を掴んだ。
右手で灰剣を下げる。
斬らない。
避けない。
進む。
一歩。
刃が消えた。
足元に床が生まれる。
背後の床が消える。
アリアは走った。
道は残らない。
踏んだ場所だけが、遅れて現れる。
離れた場所から、先に消える。
白い空間の奥に、半分だけの階段があった。
右側だけある。
左側はない。
アリアは右へ寄る。
右側が消える。
左側が現れる。
舌打ちはしない。
身体を倒す。
左へ跳ぶ。
足が空を切る。
成立しない。
落ちる。
背中の袋が引っかかった。
どこにもないはずの角に、紐だけが引っかかっている。
アリアの身体が吊られた。
肩が抜けそうになる。
袋の中身が揺れる。
水。
包帯。
食料。
工具。
NOMADを整えた工具。
アリアは振り返った。
白い角は見えない。
袋だけが、宙に固定されている。
前方では、階段が細く震えていた。
今なら届く。
袋を外している間に、消える。
アリアは左手を伸ばした。
袋の紐を掴む。
引く。
外れない。
もう一度、引く。
紐が食い込む。
肩の傷が開く。
血が腕を伝って落ちる。
階段が薄くなる。
アリアは歯を食いしばる。
袋の中で、工具がまた鳴った。
小さな音。
何度も聞いた音。
夜の整備場。
砂の中。
逃げた先の廃屋。
NOMADの足元。
音だけが、全部を連れてくる。
アリアは目を閉じなかった。
灰剣を持ち上げる。
紐へ刃を当てる。
一瞬、手が止まる。
袋は小さい。
重くもない。
けれど、ここまで持ってきたものだった。
アリアは息を吐く。
刃を引いた。
紐が切れる。
袋が白い底へ落ちていく。
水も、包帯も、食料も、工具も。
一緒に落ちていく。
アリアは見ていた。
最後まで。
音はしなかった。
袋は、途中で存在しなくなった。
アリアは左肩を軽く回す。
残ったのは、腰のポーチと灰剣だけ。
階段は、まだ消えきっていない。
アリアは跳んだ。
着地。
白い段が砕ける。
次の段へ。
砕ける。
また次へ。
足裏の感覚だけで、まだある場所を選ぶ。
踏む。
崩れる。
踏む。
生まれる。
踏む。
消える。
最上段に、扉があった。
半分だけの扉。
右半分は白い板。
左半分は空白。
アリアは手を伸ばす。
触れた瞬間、扉は消えた。
同時に、足元も消える。
落ちる。
アリアは手を戻さない。
触れるのではない。
開けるのでもない。
越える。
そのために、ここまで来た。
アリアは空中で身体を前へ倒した。
手を伸ばす。
何もない。
それでも前へ。
腰のポーチが揺れる。
灰剣が背に当たる。
失った袋の軽さが、肩に残っている。
一歩。
白い床が生まれる。
もう一歩。
扉が背後に現れ、閉じた。
振り返らない。
前には、細い光が脈打っていた。
道ではない。
まだ道になる前のもの。
アリアは肩の血を手の甲で拭った。
ポーチの紐を確かめる。
灰剣を握り直す。
持っていけなかったものは、もうない。
持っていくと決めたものだけが、残っている。
アリアは歩き出す。
一歩ごとに、足元が生まれる。
一歩ごとに、背後が消える。
白い静寂の中で、現実が細く続いていた。
アリアは小さく息を吐く。
「……行く」
次の一歩を、選んだ。
第41話「境界に触れる」了
選ばなかった道は、残らない。
置いてきたものは、戻らない。
それでも、手に残ったものがある。
刃。
傷。
呼吸。
まだ前へ出せる足。
正しいから続くのではない。
選ぶから、続いている。
白い静寂の奥で、
まだ名前のない現実が、かすかに脈を打っていた。




