【5部】第46話「間違いのまま」
正しい形だけが、
残るわけじゃない。
欠けたままのもの。
歪んだままのもの。
繋がらないままのもの。
触れたはずなのに、
触れられなかったもの。
残したはずなのに、
残り方を選べなかったもの。
それでも。
間違った形のまま、
足元になるものがある。
完全ではないから消えるのではなく、
完全ではないまま残る。
その不確かな上に、
次の一歩は置かれる。
白の奥で、アリアは立ち止まっていた。
足元には、傷がある。
けれど道ではない。
灰剣で刻んだ線。
左手の血で濃くした跡。
押し当てた掌の崩れた形。
そのどれもが残っている。
そのどれもが、繋がっていない。
白の中に、断片だけが浮いていた。
短い線。
半分だけ沈んだ赤。
親指の跡だけ濃く残った手形。
中央が白く抜け落ちた掌の輪郭。
足跡だったはずの凹み。
どれも自分が触れた形。
どれも、自分が残し損ねた形。
アリアは静かに息を吐いた。
右肩の奥が熱い。
左掌は開くたびに裂ける。
割れた爪の隙間から、新しい赤が滲む。
その赤が、白へ落ちた。
落ちるはずだった。
けれど落ちない。
赤は宙で止まった。
次の瞬間。
一滴が、三つに割れた。
ひとつは沈む。
ひとつは白の表面に浮く。
ひとつは輪郭を持たないまま、白の外へ零れるように揺れる。
アリアは見ていた。
同じ血。
同じ痛み。
同じ一滴。
なのに、残り方が違う。
ひとつの選択が、ひとつの形に決まらない。
アリアは灰剣を引いた。
刃が白を裂く。
細い傷が走る。
その傷も、一本では終わらなかった。
途中で枝分かれする。
右へ逃げる線。
沈んで消えかける線。
濃く残る線。
そして、傷がなかったはずの場所にだけ、触れた感触が残る。
見えない線。
アリアの足裏だけが、それを踏んでいる。
白が沈む。
身体が傾く。
アリアは左手をついた。
掌が裂ける。
赤が散る。
その瞬間。
足元が、ひとつに決まらなかった。
傷として残る足元。
崩れた手形として残る足元。
輪郭を持たない赤として浮く足元。
何もない白として、触れた感触だけ残る足元。
同じ場所に、同時にある。
重なっている。
ずれている。
どれも、本物だった。
どれも、成立していた。
アリアは息を呑む。
見えている。
触れている。
でも、一つではない。
ひとつの足元が、いくつもの形で残っている。
完全に繋がらない。
完全に決まらない。
けれど、落ちない。
アリアはそこへ、もう一歩を置いた。
足裏が触れる。
傷を踏む感触。
血を踏む冷たさ。
掌の跡の柔らかさ。
何もない白を踏む空白。
四つが同時にある。
ひとつの足で、四つを踏んでいる。
膝が震える。
視界が揺れる。
呼吸が浅くなる。
それでも、身体はそこに立っている。
アリアは灰剣を握り直した。
刃を振る。
新しい傷を入れる。
その傷は真っ直ぐ走り、途中で曲がり、二つに割れ、最後は何も残さなかった。
けれど、アリアの腕には確かな重みが残る。
斬った感触だけがある。
結果だけが、複数になる。
行為はひとつ。
残り方が、ひとつではない。
白の奥で、傷のない道が現れる。
白い道。
沈まない道。
欠けない道。
最初から濃く、揺れない道。
その表面に、細い赤が走っていた。
ほんのわずか。
アリアが触れた輪郭のない赤に似ている。
そして、その下にごく浅い線がある。
傷だった。
完全なはずの道に、不完全が混じっている。
アリアは見る。
白い道は、まだ強い。
そこへ行けば、沈まない。
痛みも減る。
繋がらない線に悩まなくていい。
欠けた掌を見なくていい。
多層に揺れる足元へ、体重を預けなくていい。
ひとつに決まった場所だけを踏める。
アリアの身体が、少しだけそちらへ傾く。
呼吸が楽になる。
左手の熱が引く。
右肩の痛みが遠のく。
そこへ行けばいい。
正しく残る方へ。
決まる方へ。
揺れない方へ。
アリアは灰剣を向ける。
刃先が白い道へ触れる。
細い音。
完全な表面に、傷が入る。
その瞬間。
一本の傷が、三つに分かれた。
ひとつは綺麗な線。
ひとつは赤を帯びた線。
ひとつは途中で消える線。
完全な道の中でも、残り方が分かれた。
もう、そこも一つではない。
アリアは刃を止めた。
白い道も、不完全になり始めている。
正しいものの中にも、揺らぎが混じる。
完全なものにも、傷は残る。
アリアは刃を引いた。
自分の足元へ戻す。
欠けた線。
歪んだ傷。
崩れた手形。
浮いた赤。
何もないのに触れた感触だけ残る白。
全部が重なっている。
全部が、自分が残したものだった。
アリアはそこへ左手を押し当てる。
血が落ちる。
赤はまた三つに割れる。
沈む赤。
浮く赤。
零れる赤。
今度は、その三つが同じ場所に残った。
混ざらない。
分かれたまま、同時にある。
アリアはそこへ灰剣で傷を入れる。
傷も三つになる。
濃い線。
薄い線。
見えない線。
三つが重なる。
そこへ足を置く。
三つとも踏む。
足元が濃くなる。
ひとつの濃さではない。
幾層もの濃さが重なる。
白の中に、いくつもの現実が折り重なる。
アリアはようやく理解しないまま掴む。
完全ではない。
間違っている。
繋がらない。
決まらない。
それでも。
ひとつに繋がらないまま、
いくつもの形で足元になる。
アリアは息を吐いた。
「……これでいい」
声が落ちる。
足元の層が揺れる。
傷が濃くなる。
赤が浮く。
白が触れ返す。
全部が同時に応える。
「……間違いのままで」
左手を離す。
掌の跡が残る。
崩れた形。
白く抜けた穴。
輪郭を持たない赤。
触れた感触だけの空白。
四つが重なった掌の跡。
完全ではない。
綺麗でもない。
でも消えない。
アリアはそこから一歩を出す。
次の白へ。
そこにはすでに、いくつもの足元が重なって見えていた。
踏む前から、複数ある。
触れる前から、揺れている。
白の奥で、現実が重なり始めている。
濃いもの。
薄いもの。
残るもの。
残らないもの。
沈む赤。
浮く赤。
零れる赤。
傷になるもの。
手形になるもの。
何もないのに、触れた感覚だけ残るもの。
境目が曖昧になっていく。
ひとつの世界ではなくなる。
けれど、消えるわけではない。
重なりながら、成立していく。
アリアは灰剣を床へ当てる。
複数の足元へ、一本の傷を引く。
傷は一本のはずなのに、幾重にも重なる。
赤を落とす。
ひとつの血が、いくつもの残り方をする。
足を置く。
ひとつの一歩が、いくつもの現実へ触れる。
痛い。
だから、ここにいる。
揺れる。
だから、まだ決まっていない。
決まっていない。
だから、まだ選べる。
アリアは前を見る。
白の奥で、いくつもの白が重なり始めていた。
ひとつだった道が、複数の現実へ滲み合っている。
次に来るものがある。
重なり。
干渉。
混ざり合い。
それでも、歩くしかない。
アリアは小さく息を吸う。
「……残るなら」
灰剣を握る。
左手の血を、幾重もの傷へ落とす。
「……間違っていてもいい」
白が濃くなる。
一つではない濃さ。
幾重にも重なる現実の濃さ。
アリアは、その上へ一歩を置いた。
間違ったまま。
不完全なまま。
重なったまま。
それでも消えない足元の上へ。
白の奥へ、進む。
第46話「間違いのまま」了
間違いは、
正せないから価値がないのではない。
欠けたまま残るものがある。
歪んだまま繋がるものがある。
ひとつに決まらないまま、
いくつもの形で足元になるものがある。
完全ではない。
だから不安定。
だから痛い。
だから、自分で選び続けるしかない。
正しい形ではなくても。
綺麗に残らなくても。
間違いのまま、残る。
その不完全さが、
次の現実へ触れ始める。




