【1部】第4話「圏外の医者」
人は、正しいことをすれば、誰かが救われると思っている。
けれど本当は、正しいことをすればするほど、救えないものが増えていくこともある。
この街には正解がある。
正解は、間違えないためのものだ。
正解は、多くの人を救うためのものだ。
正解は、世界を続けるためのものだ。
だからきっと、正しい。
それでも。
正解が、目の前の一人を見捨てるなら。
その正解は、本当に正しいのだろうか。
これは、正解の外で生きる人の話。
そして、正解があっても、選んでしまう人の話。
外縁の朝は、都市よりも少しだけ早い。
壁の向こう、白い都市が朝の光を反射して輝いている頃、外縁ではすでに人が動き始めている。
水を運ぶ子供。錆びた荷車を引く老人。崩れかけた建物の影で、火を起こす女。
アリアは、壁にもたれて白い都市を見上げていた。
「また見てるのか」
後ろから声がした。振り返らなくても分かる声だった。
「見てます」
「好きだな、あの街」
「嫌いではないです」
「好きでもないのか」
「……分かりません」
真白はアリアの隣に立って、同じように壁の向こうを見た。
「師匠」
「なんだ」
「私は、あっちで生きた方がよかったんでしょうか」
真白は少しだけ考えた。
「どうだろうな」
「師匠は、どう思いますか」
「僕は、ここでお前を拾った。それだけだ」
いつもの、答えになっていない答えだった。
アリアは少し笑った。
「師匠らしいです」
「そうか?」
「はい。……でも、嫌いじゃないです」
その時、遠くで叫び声が上がった。
「誰か来てくれ! 早く!」
アリアはすぐに走り出していた。
真白はその後をゆっくり歩いてついてくる。
崩れた建物の下敷きになった男がいた。
足が潰れている。血が多すぎた。
「医者は!?」
「都市の医者なんて来るわけないだろ!」
誰かが言った。
「……先生を呼べ」
しばらくして、その医者は現れた。
年を取った男だった。
白衣ではなく、汚れた作業着。
道具箱も古く、金具は錆びている。
だが男は何も言わず、怪我人の足を見るとすぐに道具を広げた。
「酒はあるか」
「……ある」
「布をくれ。できるだけ綺麗なやつだ」
手際が良かった。
迷いがなかった。
何度もやってきた手だった。
アリアはその手元を見ながら言った。
「……都市の医者ですね」
医者は一瞬だけ手を止め、それから小さく笑った。
「分かるか」
「はい。道具の使い方が違います」
医者は処置を続けながら言った。
「元は、都市の医者だった」
「再配置、ですか」
「ああ。適性が足りない、年齢も基準外、もう都市の医者はいらないってな」
「それで、外縁に」
「そうだ」
医者は外縁の街を見回した。
「都市から見れば、ここは圏外だ」
そして少しだけ笑った。
「だから俺も、圏外の医者ってわけだ」
アリアは、その言葉を覚えておこうと思った。
「どうして、医者を続けたんですか」
医者は少しだけ黙って、それから言った。
「都市は正解を出す」
アリアは黙って聞いていた。
「でもな、現実は正解通りにはならない」
医者は血を拭き取りながら続けた。
「正解ってのはな、遠くから見た答えだ。上から見た答えだ」
そして、怪我人の足を固定しながら言った。
「ここにあるのは、現実だ」
少しの沈黙。
「ここじゃ、正解通りに生きてたら、人が死ぬんだ」
その時、低い駆動音が聞こえてきた。
全員が振り返る。
白い機体。
直線的な装甲。
背部リングの光。
アウレリア管理局のREGULUSだった。
真白が小さく言った。
「……来たな」
管理官が前に出た。
「違法医療行為の通報を受け、捜査に来た」
医者は、ゆっくり立ち上がった。
「あなたを、都市法違反で拘束する」
「そうか」
「無資格医療行為。医療資源の不正使用。非登録者への治療行為。すべて都市法違反だ」
「そうだろうな」
医者は抵抗しなかった。
住民の一人が叫んだ。
「この人がいなくなったら、誰が治してくれるんだ!」
管理官は静かに答えた。
「それは都市の管轄外だ」
正しい言葉だった。
正しい言葉だったから、誰も何も言えなかった。
アリアは小さな声で言った。
「……師匠」
「なんだ」
「師匠なら、どうしますか」
真白は少しだけ考えた。
「僕なら何もしない」
「……そうですか」
「でも、お前は僕じゃない」
アリアは真白を見た。
真白は続けた。
「お前は、選ぶ側の人間だ」
「正解は、もう出てる」
逮捕。
それが正解だった。
アリアは医者を見た。
住民を見た。
怪我人を見た。
そして、真白を見た。
「……師匠は、どうして私を助けたんですか」
真白は少し驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「……さあな。昔の僕に聞いてくれ」
「ずるいです」
「そうかもな」
少しの沈黙。
アリアは前を向いた。
そして決めた。
「……走ってください」
医者が目を見開いた。
「何を――」
「早く!」
その瞬間、真白が前に出た。
REGULUSの前に立つ。
管理官が言った。
「どいてもらえるか」
真白は少しだけ笑った。
「悪いけど、少しだけ待ってくれ」
「なぜだ」
真白は少しだけ考えて、それから言った。
「……弟子のわがままだ」
REGULUSが前に出ようとする。
その瞬間、真白の声が少しだけ低くなった。
「——これくらい、俺が止める」
ほんの数秒。
ほんの少しだけ、REGULUSの動きが遅れた。
その隙に、医者は走った。
住民たちが道を開けた。
誰も声を出さなかった。
ただ、道を開けた。
やがて、医者の姿は外縁の建物の向こうへ消えた。
静寂が残った。
管理官はアリアを見た。
「……今の行動は、都市法違反だ」
「はい」
「なぜ、あの男を逃がした」
アリアは答えた。
「選んだからです」
管理官は何も言わなかった。
ただ、記録端末に何かを入力した。
REGULUSが向きを変え、都市の方へ戻っていく。
白い機体が遠ざかっていくのを、外縁の人々は黙って見ていた。
やがて、怪我をした男が言った。
「……あんた、都市の人間か」
「違います」
「そうか」
男は少し笑った。
「ここじゃな、正解より、医者が必要なんだ」
アリアは遠くの白い都市を見た。
「師匠」
「なんだ」
「……私、間違えましたか」
真白は少しだけ空を見て、それから言った。
「間違いかどうかは、未来が決める」
「冷たいです」
「そうか?」
「はい」
少しの沈黙。
それから真白は、少しだけ優しい声で言った。
「でもな、アリア」
「はい」
「お前が選んだなら、それでいい」
アリアは少しだけ笑った。
「……はい」
遠くで、白い都市が光っていた。
正解はあった。
でも、私は選んだ。
ここが正しい場所かは分からない。
この選択が正しいかも分からない。
それでも私は、選んだ。
――ここは、正解の外だから。
第4話 「圏外の医者」了
正解は、いつも正しい。
それは多分、間違っていない。
正解があるから、世界は大きく間違えずに済む。
正解があるから、多くの人が助かる。
けれど、正解は「多く」を救うもので、
「目の前の一人」を救うとは限らない。
多くを救う正解と、
目の前の一人を救う選択。
どちらが正しいのかは、分からない。
もしかしたら、どちらも正しいのかもしれない。
それでも人は、時々選んでしまう。
正解ではない方を。
間違っているかもしれない方を。
それでも、自分で選んだ方を。
ここは正解の外。
だからきっと、選ぶ人が必要なのだ。




