【1部】第2話「守られた約束」
正しいことは、誰かを救うことがある。
正しい判断。
正しい配置。
正しい選択。
この街は、いつも正しい。
だから多分、間違えない。
だから多分、多くの人を助ける。
それでも。
正しさが、誰かの大事なものを置いていくことがある。
それは間違いではない。
でも、失われたものは、間違いのように痛む。
もし正解が、結果を決めるものだとしたら。
人が選ぶことは、何を決めるのだろう。
これは、約束の話だ。
守られなかった約束と、
守られた約束の話。
朝の下層は、いつも少しだけ寒い。
空は灰色で、光は届いているのに、どこか薄暗い。
建物は古く、壁は汚れ、道はひび割れている。
それでも人は生きていて、列に並び、配給を待ち、今日を続けている。
アリアは、昨日と同じ場所に立っていた。
壊れた配給端末。
壁の傷。
少女と指切りをした場所。
そこに、少女はいなかった。
「……いない」
小さく呟く。
少し後ろに、真白が立っている。
いつも通り、半歩後ろ。何も言わず、ただそこにいる。
「分かってた」
アリアはそう言って、端末の傷を指でなぞった。
昨日、少女が困っていた場所。
あの時、自分はここに立って、「明日、一緒に行こう」と言ったのだ。
約束した。
「守れなかった」
アリアは言う。
真白は、少しだけ間を置いてから言った。
「……そう思ってるんだね」
「思ってる、じゃない。守れてない」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
行っても、もういないかもしれない。
会えたとしても、何も変わらないかもしれない。
謝って、それで終わりかもしれない。
それでも。
「……それでも、行く」
真白は小さく頷いた。
「そう」
それだけ言って、先に歩き出す。
アリアは少し遅れて、その背中を追いかけた。
下層から中層へ向かう通路は、白くて、静かだった。
壁も、床も、光も、全部が均一で、清潔で、無機質だった。
人々は列になって歩き、誰も大きな声を出さない。
まるで、街全体が一つの装置みたいだった。
大型表示板に、光る文字が流れている。
『区域再配置により、生活効率が向上しました』
『医療区画への移送対象者は案内に従ってください』
『最適な配分は、すべての市民のために』
アリアはその表示を見上げた。
「……気持ち悪い」
「うん」
真白が答える。
「でも、間違ってる感じもしない」
「うん」
「余計に気持ち悪い」
真白は少しだけ笑った。
その時、横を白い運搬ユニットが通り過ぎた。
担架のような装置の上に、小さな子供が横たわっている。顔色が悪い。
その横を、母親らしい女性が必死に歩いていた。
「お願いします、お願いします……」
「落ち着いてください。処置はすでに始まっています」
医療スタッフが淡々と答える。
アリアは、何も言わず、その光景を目で追った。
中層の医療区画は、白く、静かで、匂いさえ無機質だった。
先ほどの母親が、廊下の椅子に座っていた。
手を握りしめ、俯いたまま、ほとんど動かない。
アリアは少し迷ってから、声をかけた。
「……大丈夫ですか」
母親は顔を上げ、少し驚いたようにアリアを見る。
「え……あ、はい」
「さっきの子……」
「娘です」
短い言葉だった。
「下層にいたんです。でも、あっちじゃ治療設備が足りなくて」
母親は、疲れたように笑った。
「何度も申請して、ずっと順番待ちで」
アリアは何も言わない。
「でも、昨日の再配置で、中層医療区画に移送になって」
「再配置で……」
「急変の可能性が高いからって。今朝、突然通達が来て」
母親は、自分の手を見つめた。
「全部、勝手に決められました。部屋も、仕事も、住む場所も」
少し間を置いて、続ける。
「下層での暮らしも、終わりだそうです」
アリアは、小さく息を呑んだ。
「それでも」
母親は言う。
「この子の命は、助かるかもしれない」
沈黙が落ちる。
「私は、この街に何度も腹を立ててきました」
母親は、ゆっくりと言葉を選ぶように話した。
「でも、この子が助かるなら」
「私は、正しいって思ってしまう」
母親は少し笑った。泣きそうな顔で。
「だって、母親ですから」
その時、白い扉が開いた。
「処置が安定しました」
医療スタッフが言う。
「まだ予断はありませんが、初期危険域は越えています」
母親はその場で崩れるように泣いた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
アリアは、その光景を、ただ見ていた。
命が助かった。
再配置が、この街の正解が、あの子の命を助けた。
「……命を助けた」
医療区画を出たあと、アリアは呟いた。
「うん」
「昨日の再配置が」
「うん」
「じゃあ、間違ってない」
真白は少しだけ間を置いた。
「そうかもしれない」
「かもしれない、じゃなくて」
アリアは言う。
「助かったんだよ。だったら、正しいじゃん」
真白は答えない。
「私、昨日、あの子のことしか見えてなかった」
アリアは続ける。
「でも、この街は違う。一人じゃなくて、たくさん見てる」
「そう」
「だから、正解を出せる」
「そう」
「じゃあ、私より正しい」
真白は少しだけ考えてから言った。
「そうかもしれない」
アリアは立ち止まった。
「……それでも、嫌なんだよ」
真白は何も言わず、少し前を歩いた。
中層の居住区は、同じ形の建物が並んでいた。
窓の大きさも、扉の位置も、全部同じ。
人間が住む箱というより、箱の中に人間が収まっているみたいだった。
「同じ顔の箱ばっかり」
アリアが言う。
「住みやすさは高いかもしれない」
真白が答える。
その時。
「あ」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、少女が立っていた。
昨日より少しだけ綺麗な服。
手には新しい配給カード。
「お姉ちゃん」
アリアは、一瞬言葉を失った。
「……いた」
少女は少し笑った。
「いたよ」
アリアは、何から言えばいいのか分からなかった。
謝る言葉は用意していたはずなのに、うまく出てこない。
「……ごめん」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「連れていけなかった」
少女は首を傾げた。
「約束、守れなかった」
少し間があってから、少女は言った。
「でも、守られたと思ってるよ」
アリアは顔を上げた。
「……守れてないよ」
「来てくれたでしょ」
少女は言う。
「昨日。扉が閉まる前、走ってきてくれた」
アリアは何も言えなかった。
「私ね、ちょっと怖かった」
少女は続ける。
「どこ行くのか分かんないし、知らない人ばっかりだし」
「私だけ置いてかれるみたいで」
少し間。
「でも、お姉ちゃん来てくれたから」
「一人じゃないって思えた」
遠くで都市音声が流れている。
『本日の居住区再配置は、すべて完了しました』
「ここ、前よりきれいだし、ごはんもちゃんと出るし」
少女は配給カードを見せた。
「だから、ここに来たことは、多分よかったんだと思う」
アリアは黙って聞いていた。
「でも」
少女は言う。
「それと、お姉ちゃんが来てくれたことは、別」
長い沈黙。
「私のこと、移送番号じゃなくて」
「ちゃんと見てくれた」
「だから、約束は守られた」
アリアは小さく首を振った。
「……私、連れていくって」
「ううん」
少女は少し笑った。
「たぶんね」
「一人にしないって約束だったんだと思う」
アリアは言葉を失った。
「違った?」
「……分かんない」
「私も分かんない」
少女は言った。
「でも、そう思ったの」
「だから、守られた」
沈黙。
「ありがとう」
少女はそう言って、手を振って、同じ形の建物の間へ走っていった。
アリアは、その背中が見えなくなるまで、動けなかった。
帰り道。
人の流れの外れで、アリアは立ち止まった。
「……守れてない」
「うん」
「結果は、何も変わってない」
「そうだね」
「正解が、あの子をここに連れてきた」
「そう」
「私は、何もしてない」
真白は少しだけ考えてから言った。
「走った」
「それで何か変わった?」
「彼女の中では」
アリアは息を止めた。
「変わったみたいだ」
長い沈黙。
「……それだけ?」
「それだけ」
アリアは俯いた。
「それだけで、約束って言えるの」
真白は静かに言った。
「正解は、結果を決める」
アリアは黙って聞いている。
「選択は、意味を決める」
「意味……」
「昨日の結果を決めたのは、この街だ」
真白は言う。
「でも、昨日が彼女にとって何だったかを決めたのは」
少し間。
「君かもしれない」
風が吹いた。
「正解は、たくさんの人を助ける」
「でも正解は、誰を助けたかまでは決めない」
「何を助けたかを決めるのが、選択だ」
アリアは、しばらく何も言わなかった。
夜。
第1話と同じ屋上。
白い塔の光が、空へまっすぐ伸びている。
上層の白。中層の灰。下層の暗さ。
その外側に、外縁の闇。
アリアは柵にもたれて、街を見下ろしていた。
「……正解は、間違えない」
真白は何も言わない。
「正解は、多分、たくさんの人を助ける」
今日見た光景を思い出す。
命が助かった母親の顔。
「だから、正しいんだと思う」
風が吹く。
「でも」
アリアは塔を見上げた。
「正解は、選ばない」
沈黙。
「誰を助けたのか」
「何を守ったのか」
「それは、正解の中にはない」
アリアは小さく息を吐いた。
「昨日、私は正しいことはできなかった」
「でも、選んだ」
「それでいいのか、まだ分からない」
「多分、これからも分からない」
長い沈黙。
それでも、アリアは言った。
「でも」
「分からないままでも、私は選ぶ」
真白は、少しだけ目を細めた。
「……そう」
塔の光が、夜空を貫いていた。
モノローグ
正解は、結果を決める。
正解は、多分、たくさんの人を助ける。
命を救うこともある。
暮らしを変えることもある。
でも——
正解は、選ばない。
誰を助けたのか。
何を守ったのか。
それを決めるのは、きっと選択だ。
正解があっても、
人は選ぶ。
第2話「守られた約束」了
正解は、多くの人を助ける。
それはきっと、間違っていない。
正しくあろうとすることは、悪いことじゃない。
けれど。
正解は、誰かの代わりに選んではくれない。
何を守りたかったのか。
誰を一人にしたくなかったのか。
それは、正解の中にはない。
だから人は選ぶ。
正しいかどうか分からなくても、
間違えるかもしれなくても、
それでも、自分で選ぶ。
正解があっても、
人は選ぶ。
そしてきっと、その選択だけが、
誰かとの約束になる。




