【1部】第1話「正解の都市」
正解があっても、
人は選ぶ。
これは、
正解の外で生きた人間の話だ。
空は、どこまでも黒かった。
その黒の中に、一本の白い光が伸びていた。
まるで空を縫い止める針のように、まっすぐに。
幼いアリアは、母の手を握りながらその光を見上げていた。
「あれ、なに?」
母は少しだけ黙って、それから答えた。
「……みんなに、正しい道を教えるところ」
「正しいなら、いいことじゃないの?」
アリアがそう言うと、母は少しだけ困ったように笑った。
その笑い方を、アリアはまだ知らなかった。
後になって、それが「諦めに似た笑い」だと知ることになる。
「正しいことが、あなたを守るとは限らない」
母はしゃがんで、アリアと同じ高さまで目線を下ろした。
「いい、アリア。あなたは間違わないでね」
「間違うってなに?」
母は少しだけ考えて、それから静かに言った。
「……自分で選ばなかったことよ」
その瞬間、世界が白くなった。
光。
音。
崩れる音。
誰かの悲鳴。
母の手が離れる。
強く突き飛ばされる。
「走って!」
それが、母の最後の言葉だった。
風が、長い髪を後ろへ流していく。
荒野の上を、小型の飛行装置が滑るように進んでいた。
操縦桿を握っているのは、十七歳になったアリアだった。
前方の地平線の向こうに、白い都市が見えてくる。
塔。
壁。
整然と並ぶ建造物。
幾何学的に配置された区画。
十年前と、何も変わっていない。
「……見えてきた」
アリアが呟くと、後ろに座っていた男が短く答えた。
「うん」
黒い服。黒いロングコート。
風の中でもほとんど揺れないその姿は、景色から少しだけ浮いて見えた。
白鷺真白。
アリアを拾い、十年間一緒に旅をしてきた男。
「戻るの、やめる?」
真白が言った。
アリアは少しだけ前を見たまま、答えた。
「やめない」
「そう」
それ以上、真白は何も言わなかった。
アウレリアの壁は、近くで見ると圧倒的だった。
白い壁面は継ぎ目が見えず、まるで一つの巨大な塊のようだった。
検問所。
フレーム機。
銃を持った兵士。
「所属」
「なし」
「出身」
ほんの少しだけ、アリアは黙った。
「……外縁」
兵士は何も言わず、端末を操作する。
「仮通行許可を発行する。問題を起こせば排除する」
「歓迎どうも」
ゲートが開く。
都市の中へ入る。
真白は、いつも通りアリアの半歩後ろを歩いていた。
壁の内側は、世界が層になっていた。
外縁に近い下層は、古い建物と配給列と、湿った空気。
少し上がると、整然と並ぶ灰色の街区。
さらに遠く、高い場所に白い区画が見える。
すべてが、整理され、配置され、管理されている。
「気持ち悪い」
アリアが言った。
「……そうだね」
「ちゃんとしすぎてる」
「うん」
真白はそれ以上何も言わなかった。
少女は、配給端末の前で立ち尽くしていた。
「……また、だめ」
画面にはエラー表示。
何度もカードをかざしているが、反応しない。
アリアは少し迷ってから、声をかけた。
「壊れてるの?」
少女は振り向いて、首を振った。
「ID、古いって。更新しないと配給出ないって」
「更新所は?」
「中層。でも通行証ないから行けない」
少女は慣れた口調でそう言った。
諦めることに慣れている声だった。
アリアは少し考えて、それから言った。
「……じゃあ、明日。私が一緒に行ってあげる」
少女は目を丸くした。
「ほんと?」
「うん。約束」
少女は少しだけ笑った。
「約束」
二人は指を絡めた。
少し離れた場所で、真白がそれを見ていた。
何も言わず、ただ見ていた。
翌日、警報が鳴った。
『区域D-12、人口再配置を実施します。対象者は誘導に従ってください』
嫌な予感がして、アリアは走った。
下層の通路を抜け、広場へ出る。
人の列。兵士。輸送車。
その中に、少女がいた。
「待って!」
アリアは叫んだが、兵士に止められた。
「再配置対象区域は立入禁止だ」
「あの子と約束してるの!」
「最適化再配置だ。全体のためだ」
全体のため。
その言葉は、この都市では絶対の言葉だった。
列の中の少女が、アリアに気付いた。
「お姉ちゃん!」
アリアは兵士の腕を振り払おうとしたが、動けない。
「明日、来てくれるって言ったよね」
少女はそう言った。
アリアは何も言えなかった。
「でも、大丈夫」
少女は続けた。
「ここ、出られるんだって」
輸送車の扉が開く。人が乗り込んでいく。
「だから——」
少女は笑った。
「約束、守ってくれたよ」
扉が閉まる。
輸送車が動き出す。
少女は窓越しに、ずっと手を振っていた。
笑っていた。
『最適化再配置、完了』
都市の放送が、静かに告げた。
アリアは、何もできずに立っていた。
後ろに、真白が立っていた。
長い沈黙のあと、アリアは言った。
「……守れなかった」
真白は少しだけ間を置いて、答えた。
「……うん」
「約束したのに」
真白は、輸送車の去った方向を見た。
「これが、この街だ」
それだけ言った。
夜。
中層の屋上から、都市が見えた。
白い上層。
灰色の中層。
暗い下層。
その中心に、空へ伸びる白い塔。
「この街、君を一度殺してる」
真白が言った。
「……うん」
「それでも行くの」
アリアはしばらく黙って、塔を見ていた。
「……行く」
「どうして」
アリアは少しだけ考えて、それから言った。
「私、まだ何も選んでない」
風が吹いた。
塔の光が、空へ伸びている。
「正解があっても——」
アリアは、塔を見上げたまま言った。
「選ぶのは、私だから」
真白は少しだけ目を細めた。
「……そう」
それだけ言った。
正解は、間違えない。
正解は、多分、たくさんの人を助ける。
でも——
約束は、守らなかった。
正解があっても、
人は選ぶ。
それが、間違いだとしても。
それでもきっと、
人は選ぶ。
第一話「正解の都市」了
正解は、間違えない。
たぶん、多くの人を助ける。
でも、正解は約束を守らない。
約束は、誰か一人のためのものだから。
正解と約束が同じとは限らない。
それでも人は、約束をする。
それでも人は、選ぶ。




