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銀燭の献血師  作者: 灰原康弘
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第肆章 〝夜に想う〟

 その日の夜、陽人は寝付くことができなかった。昼間の劇的な体験のみならず、帰ってきたとき、母からあるものを手渡されたからだ。


 ベランダに出て夜風に当たってみたが、どうも気持ちが落ち着かない。すこし迷ったが、気晴らしに夜の街を散歩することにした。時刻は午前零時を回っている。『献血師』は未成年であっても、〝パトロール〟という名目で外出は可能である。献血師學校の制服に着替え、母とムラマサを起こさないよう、静かに家を出た。

 深夜の街は人通りがすくなく閑散としている。歩きなれない時間に外出すると、いつもとおなじ道も変わって見える。


 しばらく歩いていると、公園に人影が見えた。陽人が足を止めたのは、その影の正体がよく知る人物だったからだ。一人の少女が、ブランコに腰かけていた。その近くには、彼女がいつも持っている弓が立てかけられている。

 陽人とおなじ、献血師學校の制服を着た、赤みがかった茶髪の少女……。


「深陰?」

 名前を呼ぶと、ゆっくりと顔を陽人にむけた。

「なにしてるんだ? こんな時間に」

「あんたこそ」

「僕はその……パトロールだよ。『始祖』のことが気になっちゃって」

「ずいぶん仕事熱心ね。弱いくせに」

「……」

 妙に攻撃的だ。こういうところは普段の深陰らしいといえる。ただ、いまのはなんというか、取り繕っているかのような感じがした。

「隣、座っていいかな?」

「好きにすれば?」

「じゃあ遠慮なく」


 それから二人の間には沈黙が流れた。公園に響く虫の鳴き声は、なかなか心地がいい。そういえば、深陰と一緒にいて沈黙というのも珍しい。いつもは大抵ケンカをしているから、なんだか新鮮な気分だ。

 ブランコをこぐこともせず、しばらく虫の演奏に耳を傾けていた陽人だが、

「ねえ」

 いきなり深陰に話しかけられて、陽人はすこし驚いた。

「え、なんだい?」

 しかし、しばらく答えは返ってこなかった。いったい、どうしたんだろう? と陽人が眉をひそめたとき、

「……今日、なんの話してたの?」

 と感情を押し殺した声で訊いてきた。

 たぶん、政臣とのことだろう。この反応を見るに、やはり二人の関係は良好ではないのだろうか。


「深陰がいま考えてることだよ」

 陽人はすこし考えて言った。

 深陰はまた黙った。しばらく待ってみたが、なにもしゃべる様子がないので、代わりに陽人が口を開く。

「本気なのか?」

「当然でしょ」

 深陰は即答した。

「それが、私の役目なんだから」

 それはまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。陽人は深陰の横顔を盗み見る。しかし、あたりは暗いし、髪で顔が隠れてしまってよく見えなかった。


「……深陰のお父さんは、なんて言ってるの?」

「尊重する、って言ってくれたわ」

「そっか」

 深陰の父は、いったいどんな思いでその言葉を口にしたのだろう。五年前に深陰の母……妻を失って、今度は娘まで……。

「ねえ深陰」

「今度はなに?」

「昔はさ、よく一緒に遊んでたよね」

「……いきなりなに」

「いや、その……深い意味はないんだけど……」

 陽人はちょっと言葉に詰まった。べつに見切り発車をしたわけではなく、深陰の返答があまりにそっけなくてちょっと動揺したのだ。


 あの日、あのとき、たしかに自分たちはいままでとおなじ〝日常〟を生きていた。だが、それは一瞬で崩れ去った。分かっていたはずだ。物心ついたときから、自分たちがいる世界は、『そういうもの』だと、教えこまれてきたから。

 しかし、それでも、あのときの母の横顔、深陰の表情、自分の感情……どれも忘れることができないでいる。

 だから、あのとき決めたのだ。もう、だれにも、二度と、こんな思いはさせないと。

 陽人の意識は、夜風に誘われるかのように、記憶の波に飲みこまれていった……。




 ――思えば、あのときからだった。自分の中に、一つの夢が生まれたのは。

「ねえ陽人! わたしこのあいだ、また『求血鬼』を祓ったの! すごいでしょ!?」

 深陰が言った。

「へえ、すごいね」

 お世辞でなく、心からの言葉で答えた。

「でも深陰ちゃん、外でぼくたちの仕事を言ったらだめだよ」

「大丈夫よ。わたし強いもの。陽人のことも守ったげる」

 深陰がにっこり笑う。陽人だっていちおう男だ。こう言われるとさすがにプライドが傷つく。


「いや、ぼくが、深陰ちゃんを守るよ!」

 自分が言った。

「いい! だって、わたし陽人より強いもん!」

 深陰が言った。ただ、いまの彼女ではない。これは、過去の彼女だ。

 はっきりとそう言われ、さすがに落ち込んでしまう。


 五年前。当時、陽人と深陰はともに十二歳だった。二人の家系は古くから『献血師』として活動する『純血十家』の家柄。しかし、このときから陽人と深陰の実力差は如実に表れていた。

 深陰が蘆屋家歴代最強と言われていたのに対し、陽人は決して弱くなかったが、いまいち一皮むけていない感じがあった。ありていに言うなら地味だった。

 彼らはいつも一緒に遊んでいた。学校の友達と遊ぶこともあったが、二人で一緒にいる時間のほうが長かった。


「深陰ちゃん、だから……」

「大丈夫だってば! 陽人は真面目すぎ!」

 深陰は言ってまた笑った。この頃の彼女は、自分に自信を持っていた。悪く言うなら、己の力を過信していた。それは、子供の無邪気さのなせる業だった。

 こういうやり取りは、これが初めてではなかった。いままでも何度もあった。

 深陰は『献血師』の巫女の役目を司る蘆屋家当主であり、強大な霊力を有し、『巫』と呼ばれ、敬われている。

 いままで何度も、人間に取り憑いた『求血鬼』を祓ってきた。ときには名うての『献血師』が見逃すほど巧妙に隠れている『求血鬼』すら見逃すことはなく、祓ってきた。そういった有無を言わさぬ実力と実績が、彼女に今日(こんにち)の言動を取らせているのだ。

 それが陽人には、正直羨ましく映ることが多々あった。


 特殊な環境に身を置いていたが、それでも彼らには〝日常〟がある。小学生の時は普通の学校に通っていたし、友達だっている。だから、これからもこの生活が続いていくと、無条件に思いこんでいた。

 しかし、現実は非常だった。彼らは思い知る。自分たちは、決して、普通の人間などではない。彼らとは、別世界の住人なのだと。


 陽人は父親を、深陰は母親を失った。


 強大な力を持つ『求血鬼』を再封印した。しかしそのために、山背家、蘆屋家、五条家の当主や、他にも『純血十家』の当主が犠牲となった。そう聞かされた。


 しめやかに行われた『献血師』たちの葬儀。大倉(おおくら)と名乗った『総本山』の幹部は、『彼らは立派な献血師だ』、『彼らのような者を部下にもてて私は誇らしい』、『すばらしい献血師たちだった』、『即死だったようだから、苦しみはすくなかったろう。よかったよ。不幸中の幸いだ』。

 いまでもはっきりと覚えている。そんなきれいごとを並べ立てていた。

 すばらしい? よかった? そんなはずはない。人が死んで、すばらしいとか、よかっただとか、そんなことはない。いや、あってはならない。そのときはまだ、漠然とした怒りしか持てなかった。


 それからすこしして、ようやく気持ちの整理がついた。

 この世界は、『総本山』は、『献血師』は、死に慣れすぎているのだ。常に危険に身を置いているがために、〝死〟が日常になっている。

 どうにかしなくちゃ、と思った。『献血師』である以前に、人が人であるために。死を恐れ、死者を尊重できるように、普通のことができるように。

 あれから深陰は、以前のようにふるまうことはなくなった。母の死を忘れるように、仕事に打ちこんでいった。


 最初は、深陰はよく自分のことを励ましてくれた。しかし、次第に陽人へのあたりがきつくなっていった。

 肉親の死を経験したがゆえに、自分よりも弱い力でこの世界に残ろうとする陽人を追い出そうとした、彼女なりのやさしさだと、陽人は理解している。

 あのときの深陰の顔はいまでも忘れられない。あの少女に、二度とあんな顔をさせたくない。

 だから決めたのだ。自分のため、そしてなにより、深陰を守るため、強くなってみせると。




 ふいに、なにかに引き戻されるかのように、陽人は現実に立ち返った。

 隣を見ると、深陰が立ち上がっている。その手には『妖叨』が握られており、全身が緊張に固まっているのが見て取れた。

 視線をまえに移して、そして見た。

「こんばんは。ご機嫌いかが?」

 気やすく挨拶をしてきた女がいた。金髪にスーツドレスを着た女だ。

 ――こいつは。

 陽人がその正体に思い至るのと、女が行動するのはほぼ同時だった。まるで弾丸のように、女は突進してくる。


「『不動鉄鎖』」

 低く一言、瞬時に陽人の手首から縄が伸びると、女の体を縛りつける。うつ伏せに倒し、陽人は動きを封じるようにその上に乗った。

「おまえ、『求血鬼』だな?」

 ここで吞気に問いかけたことは、甘かったと言わざるを得ない。

 女の両腕に霊力が集まっていく気配がする。ギリギリと力が籠められ、『不動鉄鎖』が破れていく……。


(くっ。……なんて、力だ……っ!)

 歯を食いしばって必死に押さえつけようとする。それでも、徐々に押し返されていき……。

「そこから離れなさい!」

 深陰の叫ぶような声が聞こえた直後、彼女の手のひらに火球が出現する。意図を察して陽人は飛びのく。瞬間、女に火球が直撃した。

 女は悲鳴をあげることもなく、骨すら残らず灰となって消えた。


「深陰……」

 見ると、彼女は息をあげていた。

 体力が尽きたからではない。いまの攻撃は、純粋な感情の塊だった。文字どおり、彼女は感情を吐き出したのだ。

「あら、なかなかやるじゃない」


 まるで近所で知り合いに会ったかのように、軽い声を放った女がいた。その声は違和感に満ちていた。声ではあるが、言葉では形容できない、まるで調律の狂ったピアノのような、およそ地球で耳にするものとは思えない、どこまでも付きまとう違和感がある。

 腰まで伸びた目を見張るほどに煌びやかな金髪は、波打つかのようにウェーブがかけられている。丈の短いスーツドレス。パンプスに包まれた足は長く、日本人離れしたスタイルをしている。肌は生まれてから一度も日の光を浴びたことがないほどに、透けるような白さだ。

 顔だちは欧米風。ただし、声同様、その見た目もまた、違和感の塊であった。存在すること自体が、おかしい。そんな奇妙な感覚がする。

 そしてその眼は、血のように紅い――。

 見間違えるはずもない。こいつは『献血師』の敵――。先日、献血師學校で会敵した――。


「『始祖』……」

 女の放つ異様な違和感と存在感が、陽人にその名を口にさせる。

「こんばんは。改めて、お会いできて光栄だわ、『純血十家』の当主さんたち。ごめんなさいね、この間は挨拶する時間もなくて」

 親愛を現すように、陽人にニコリと微笑みかけ、

「それ、下げてくれないかしら」

 声のトーンを変えることなく、弓を構える深陰に言った。それはとても恐ろしいもののように思えてならなかった。

 しかし、深陰が下げる気がないのを見て取ると、

「下げなさい」

 今度は一転して、あらゆる感情が排除された低い声で命令した。


「深陰」

 それでも下げなかった深陰だが、陽人に促され、ゆっくりと弓をおろす。

「ありがとう」

 女は何事もなかったかのように微笑みかけた。

 それを見て、陽人はゆっくりと、慎重に口を開く。

「『始祖』が、こんなところになんの用だ?」

 すると、『始祖』はフッと笑ったようだった。


「『始祖』……ええ、そうよ。私は『始祖』。自己紹介は省くわね。どうせあなたたちには、私たちの名前は発音できないから」

『求血鬼』の本当の名前は、陽人たち『献血師』――というより、人間には正確な発音ができない。〝ムラマサ〟や〝リャナンシー〟という名は、『四鬼神』としての通称に過ぎなかった。


「ここになにしに来たの?」

 深陰が訊いた。平静を装おうとしているが、緊張が隠せていない。その様子を見た『始祖』はまた笑う。

「血を吸いに来たのよ。『求血鬼』だからね」

 陽人たちは身構えた。抜刀すべくとっさに腰に手をやるも、いまはムラマサは家で寝ているところだ。歯ぎしりをする陽人を見て、『始祖』はおかしそうに笑った。

「冗談よ。だからそんなに怖がらないで」

 ぐずる子供をあやすように言われ、二人の当主は少なからず気分を害した。いくら鈍くても分かる。いま自分たちは侮辱されたのだ。

 しかし、この『始祖』にその認識がないことも見ればわかる。自分たちは、〝敵〟としてすら認識されていないのだ。


「理由は二つあるわ。まず一つ目、これを返しに来たのよ」

 そう言って、ごみでも捨てるかのように、無造作になにかを放った。

 それは、真っ二つにおられた二振りの刀だった。

「『献血師』たちが持っていた物よ。『妖叨』……っていうんだったかしら。返してあげるわ」

 真っ二つにおられた『妖叨』。それさ指し示すものはただ一つ。


「殺したのか……自分たちの仲間を……」

 陽人が震える声で言った。

「当然でしょ? いまは敵なんだもの。こうして返しに来ただけでも感謝してほしいわね」

 言って、わざとらしく肩をすくめる。

「それとも、あの教師のことが心配なのかしら? 安心なさい。彼女は生きてる。明日學校で会えるわよ」

 彼女(比屋定)は。ということは、先日といま倒した『求血鬼』は、元『献血師』……。こいつに『求血鬼』にされたのだ。

『始祖』は、口元に皮肉な笑みを浮かべた。


「それに、あなたたちだって、さっき殺したじゃない。自分たちの仲間を」

 答えず、陽人たちは『始祖』を見据えた。『始祖』は続ける。

「二つ目。こっちが本題なんだけれど、あいさつしに来たのよ。まえはちょっと失礼な形になったから」

「あいさつ……?」

 陽人は『始祖』の言葉をなぞりながら、眉をひそめた。この『始祖』がいま、ここになにしに来たのか、目的はなんなのか、真意がつかめない。

「そう、あいさつ。べつに戦いに来たわけじゃないの。ま、いまのあなた『四鬼神』を持っていないみたいだし、関係ないか。それにしても、いるのね、『四鬼神』を常備してない『献血師』なんて。しかもそれが、『純血十家』の当主とはね」

 これも、煽っているというつもりはなく、単なる感想なのだろう。


「仮に持っていたとしても、あなたたちじゃ私には……」

 そのとき、深陰が弓を引いた。一切無駄のない洗練された動き。炎の矢が、一直線に『始祖』に迫る。が、

「勝てない」

 まるで、その言葉に従うかのようだった。その矢は『始祖』に届くことなく、音もなく、淡い光とともに夜の闇に溶けこんでいった。


「なっ……」

 瞠目する深陰のまえで、『始祖』が消えた。本当に、それ以外に表現のしようがなかった。瞬きすらしていない。にもかかわらず、陽人たちの前から、『始祖』は消えた。

 その刹那、

「私には、武器さえ必要ない」

 深陰の目の前、ゼロ距離まで、『始祖』は距離を詰めていた。赤く彩られた爪が、深陰の首筋に突き立てられている。

「このまま首を掻っ切れば、それで終わり」

『始祖』は爪にすこし力を込めた。むろん、陽人にはそれは分からなかったが、反射的に駆けだしていた。


「深陰!」

「動くな」

『始祖』が低い声で鋭く一言命じる。それだけで、陽人は動きを封じられた。深陰のように直接触れられているわけでもない。なにか能力を使われているわけでもない。なのに、身動きが取れない。蛇に睨まれた蛙のように、指先一本動かすことができない。

「なってないわね」

 拍子抜けしたように『始祖』が言う。その目は、憐れんでいるかのようだった。


「『純血十家』の当主が二人もいて、相手に先手を許すなんて。嘆かわしい」

 今度は深陰に視線を移し、

「あなたも。攻撃するなら殺す気で撃たないと。まえもそうだったけど、攻撃に迷いが見える。それを断ち切らない限り、私には届かないわね」

「ふん。なら、つぎは貫いてやるわ」

『始祖』は面白そうに、唇で弧を描いた。

「あら、怖い。それは困るから、ちょっと食事でもしようかしら」

 立てていた爪を引っ込め、深陰の首筋を指先でゆっくりとなぞる。深陰が体を震わせるのを見て、『始祖』は笑みを浮かべたまま続ける。

「それとも、わたしの血を与えてみようかしら。『純血十家』の当主を『求血鬼』にするのも、面白いかもね」


 それが本気なのかどうか、本人以外には分らなかった。だが、これから起こることを想像し、深陰は体を強張らせる。そのとき、

「『不動鉄鎖』!」

 陽人が叫んだ。瞬間、彼の手首から鎖が飛び出したかと思うと、『始祖』の手首に巻き付く。勢いが衰えることなく、そのまま体までもきつく縛り上げた。

「へえ」

『始祖』は面白そうに笑う。

「霊術を詠唱無しで発動するなんて。さっきといい、この状況で、とっさの判断力と、行動力……やればできるじゃない」


 通常、霊術は詠唱を唱えてから発動させる。唱えることで、術のイメージをより具体的にし、発動させるための霊力を集めるためだ。それを簡略化すると、術の威力は落ちる。しかし、陽人は威力を落とさず、術が発動できる。それは、血反吐を吐くような修行のたまものだった。


「それはどうも」

 軽口をたたいてみたが、いま陽人に余裕がないことは明らかだった。

『不動鉄鎖』。手首に霊力を圧縮して、鎖の形として出現させる。その能力は相手の拘束だ。いまのように相手の体を直接縛ったり、どこかに縛り付けるのが基本的な使用方法だ。

 陽人の様子を見て、『始祖』は唇の端に薄い笑みを浮かべた。


「あら、あなたよく見るとかわいい顔してるわね。白い肌に大きな目……まるで女の子みたい。だからって、攻撃まで可愛らしくならなくてもいいのよ?」

 そう言うと、まるで息でもするかのように、いとも簡単に鎖の束縛から逃れる。彼女はいま、軽く腕に力を込めただけだ。すくなくとも陽人の目にはそう見えた。大きな霊力の流れは感じなかった。にもかかわらず、『不動鉄鎖』は粉々に砕け散った。


「っ!」

 驚きに目を見開いたのは、しかし一瞬。ふたたび『不動鉄鎖』を発動しようとするが、

「無駄よ」

『始祖』が一言で制した。人差し指を陽人にむけて言ったあと、唇に当てて続ける。

「何度やっても無駄。それじゃ私は捕らえられない。やめておきなさい。霊力の無駄よ」

 陽人が動けずにいるのを見て取ると、『始祖』の唇にふたたび薄い笑みが浮かんだ。


「そう、それでいいわ。いい子ね」

「私をどうする気?」

 深陰が訊いた。自分よりも頭一個分大きい『始祖』を、気丈にも睨みつける。が、『始祖』はまた笑う。

「べつにどうもしないわ。さっきの血を吸うとか、『求血鬼』にするとか、全部嘘だから。安心して」

〝安心して〟という言葉に、深陰の感情が大きく膨れ上がるのを陽人は感じた。さっきからこの『始祖』は無自覚に陽人たちを煽っている。彼女にしてみれば、ただ会話をしているだけなのだろうが、陽人たちは侮辱されているようにしか思えない。

 圧倒的な力を持つが故の〝ズレ〟なのか、長い時を生き過ぎたからなのか。


「さっきも言ったでしょ? 私はあいさつしに来たの。近く、あなたたちとは、またあの献血師學校で会うことになると思うから。みんなにもよろしく言っておいてくれる?」

「なんだって?」

「あら、聞こえなかったの? それとも『純血十家』の当主って耳が悪いことが選抜基準なの?」

 これは挑発だ。明らかに陽人を煽っている。話に来ただけと言っておいて、直後にこの態度。この『始祖』がなにを考えているのか、まったく読めない。つかみどころがなさすぎる。

「ああ、ごめんなさい。いまのは忘れて。用も済んだことだし、そろそろ失礼するわ」

 そう言って『始祖』は地面を軽くひと蹴り、二人の『献血師』から距離を取る。

「それじゃあね。安き眠りを」


 甘い声を夜風に乗せ、『始祖』は夜の闇に溶け込むようにして消えた。

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