2
私がなぜこんな思いをしてまで高校に通っているかというと、元の世界に戻るにはそうする必要があると例の女の子に言われたからだ。
「世界をつなげる難易度は、その世界同士の距離が近ければ近いほど下がる。世界をつなぐのが相棒の専門とはいえ、より確実を期するなら、元の世界とこの世界があまり離れてしまわぬよう心がけたほうが良かろう」
そこまで言って、女の子は不思議そうな顔をした。
「しかし、お前、本当に元の世界に戻りたいのか?」
そういう表情をすると、見た目通りの幼女に見えなくもない。
「この世界にいれば絶世の美少女として褒め称えられ、崇め奉られるのだぞ? 私にはよく分からぬが、それは気持ちの良いことなのではないのか? それにほら、あの幼馴染みもお前にここにいてほしいと懇願しておったではないか」
幼馴染みは今は部屋にはいない。私が元の世界に帰るつもりだと言ったとたん、泣き喚いて手がつけられない状態になったので、女の子に頼み込んで部屋から連れ出してもらったのだ。
たぶん今は神通力によって、彼女の本来の住みかである隣の部屋に閉じ込められていると思う。
「やだ。帰りたい」
私は即答した。
美醜の基準が元の世界と正反対になっていると言われても、そんなにすぐに信じられるものじゃない。これは壮大なドッキリで、私がちょっと信じた瞬間に「ドッキリでしたー。調子に乗ってんじゃねーよ」とネタばらしされるんじゃないかという疑いが拭い切れないのだ。
もしかしたら今だって隠しカメラで見られていて、おたおたしている私の様子が大画面に映し出されて、観客が笑ってるのかもしれない。それを想像するだけで動悸がして、嫌な汗がだだ漏れになる。
そんな思いをしながら美人だ何だと崇められるくらいなら、今まで通り目立たないブスとして安らかに暮らしていきたい。
ついでに、あの美少女は別に私の幼馴染みではない。だいたい初対面の幼馴染みって何だ。この短いフレーズの中でこれだけ矛盾できるのも逆にすごい。
そう思ったところで、はっと気づく。
「……元の世界に戻ったとしたら、私ってどうなるの?」
私は電車に飛び込んだ弾みでここに来た。体が電車にぶつかる衝撃を、今でもはっきり思い出せる。
もしその時点に戻るのだとしたら、どんなに頑張ったとしても爆散する末路しか待っていない。このまま美人に取り囲まれて冷や汗まみれの人生を送るのとどっちがマシか、だいぶ悩むところだ。
「さあ?」
「待って待って爆散するのはとても困る」
ちょいと肩をすくめてみせた女の子に、私はなりふりかまわずすがりつく。
「爆散? 何のことだ」
彼女は訝しげに首を傾げた。
「私、ここに来る直前に電車に飛び込んだでしょ? その瞬間に戻されても、もう死ぬしかないじゃん」
「そんなことにはならん」
私の必死の訴えを、女の子は呆れたような口調で切り捨てた。
「お前はもともとあのときに死ぬはずではなかったと言っただろう。どのように処理されるかは分からぬが、死にはしないはずだ」
微妙に不安が残る答えだったけど、とりあえず電車にぶち当たった瞬間に戻されるわけではないことが分かったので良しとしよう。
そして、それならやっぱり元の世界に戻らなければ。
「相棒さんが戻ってくるのは二ヶ月後だっけ? じゃ、それまでここでひたすら待ってればいいの?」
引きこもることになら慣れている。二ヶ月なんてあっという間だ。ただし、この世界にインターネットが存在しているなら。
けれど、女の子はあっさりと首を横に振った。
「いや、この世界のお前がやっていたように高校に通え」
「……なんで?」
女の子は、元の世界とこの世界があまり離れすぎないようにしたほうがいいと言っていた。そしてそのためには、私は高校に通うのが望ましいらしい。
「この世界にいたほうのお前と同じように生活しなければ、世界間の距離が開いてしまう可能性が高い」
女の子はやたら厳かな口調で言った。
「同じようにとはつまり、清く正しい高校生として生活するということだな」
その言葉を聞いた私は、部屋の中を見回す。山と積まれた怪しげな物、物、物。真実の口の時計が、うつろな目でこっちを見てる。
「……この世界の私が清く正しい高校生だったとは、ちょっと考えにくいんだけど」
「まあ、そこは言葉の綾というやつだ」
否定してはくれないのか。
高校生活。
私のそれには、正直いい思い出はあまりない。というか、悪い思い出も含めて、思い出そのものがあまりない。自分が高校生の頃に何をしていたのか、ほとんど思い出せないのだ。
別に私の記憶力がここ数年で急激に衰えたわけじゃなくて、そもそも何もしていなかったんだと思う。
平日は登校して、ぼーっと席に座って、帰ってひとしきりパソコンをいじって寝る。週末は起きて、ぼーっとパソコンをいじって、夜になったら寝る。
そうして三年間をどぶに捨てた。もちろん、青春なんてものは架空の存在だ。
そりゃ私だって、充実した高校生活を送りたかったと悔やまなかったわけじゃない。女子高生というブランドを全く有効活用しないまま期限切れになってしまったことに、夜な夜な枕を濡らしたこともある。嘘だけど。
だって、今の私の顔を見て分かる通り、当時から年齢不詳系ブスだったのだ。たとえ制服マジックで五割増しに見えるとしても、元がゼロならいくら割り増ししたってゼロだ。元がマイナスなら悪化する可能性すらある。
内面的にも、充実した高校生活に向いてるタイプだとはとても思えない。だって、歯医者に予約の電話をするだけで一日分のコミュ力を使い果たすくらいの人間なのだ。
そうした諸々をよく考えた結果、高校生活をやり直したいという願望は、私の中から跡形もなく消え失せたのだった。
そんなわけで、再び高校生になることには乗り気にはなれなかった。
今さら思い出を作り直すほどの熱意もないし、それ以前に私が私である以上、充実した学生生活なんて送れるわけがない。
一応そう主張してはみたけど、女の子には鼻で笑われた。
「やりたくないと言うなら別にかまわぬよ。ずっとこの世界にいればよい。幼馴染みも喜ぶぞ」
……乗り気じゃなかろうが何だろうが、こう言われてしまうと私には選択肢なんてない。
そんなわけで、幼馴染みの手を借りながら元の私が通っていた高校に行くことになったのだった。
ちなみに彼女には、やっぱりこの世界に残ることにしたと言ってある。その第一歩として、元の私と同じように高校に通いたいと。
幼馴染みは私の言葉に歓喜して、喜んで手伝うと言ってくれた。いろいろと心が痛まなくもないが、これも元の世界に帰るためだ。
こんな美少女だらけの世界にいられるか、私は帰らせてもらうぞ!
授業中、私はぼんやりと教科書を眺めていた。
この世界で使われているのがほぼ日本語だったのは心の底からありがたいけど、内容は正直よく分からない。もともとそんなに勉強が得意な方じゃなかったのに加えて、書かれていることも私のおぼろげな記憶とはだいぶ違っている気がするからだ。
ただ、全くの別物になっていたら、むしろ諦めもついたかもしれない。そうじゃなくて、私のいた世界に微妙に似ていることが混乱を招く。
特に日本史なんかがそうだ。
「高杉龍馬……西郷有朋……どっかで聞いたような、聞いてないような……」
そんな名前が教科書に並んでいて、私は頭を抱えた。
頭を抱えたのにはもうひとつ理由がある。私の教科書には、ほとんど全ページにわたって不穏な感じのする落書きがされていたのだ。
別に、編入早々豪快な嫌がらせを受けているわけじゃない。この落書きをしたのは教科書の元の持ち主、つまり入れ替わる前の私だ。