【二】展開:不在の証明
ふっと意識が浮上したとき、最初に感じたのは肩口を抜けていく冷気だった。
リビングのソファの上で、私は小さく身震いをした。膝の上から、見覚えのない地味なチェック柄の毛布が床へと滑り落ちている。
(……あ、またやっちゃった)
テレビの画面はとうに放送を終え、暗い画面に「番組は終了しました」という味気ない文字だけが寂しく明滅していた。
パートの掛け持ちを始めてから、もうすぐ一年になる。昼は近くのスーパーのレジ、夕方からは遅くまで営業している居酒屋の厨房。一人息子の蓮を育てるためには、弱音を吐いている暇なんてなかった。今日も帰宅して泥のようにソファに倒れ込み、そのままうたた寝をしてしまったらしい。
床に落ちた毛布を拾い上げ、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
私がこうしてリビングで寝落ちしてしまうと、蓮はいつも無愛想に、けれど必ずこの毛布を上から掛けておいてくれる。
高校生になってからは口数も減り、ろくに目も合わせてくれなくなったけれど、そういう優しいところは、あの子にはまだちゃんと残っている。
「蓮、もう寝たの?」
時計の針は、午前一時十五分を指していた。
いつもなら自分の部屋でスマホをいじっているか寝ている時間だ。私は毛布を抱えたまま、リビングを出て廊下の奥にある蓮の部屋へと向かった。
「蓮?」
声をかけながら、ノックをせずにドアを開ける。
――部屋は、真っ暗だった。
カーテンの隙間から街灯の薄青い光が差し込み、主のいないベッドを冷たく照らしている。シーツは、彼が朝出かけたときのままの形で、軽く波打った状態で固まっていた。
「……あれ?」
妙な違和感が、心臓の奥をちくりと刺した。
友達の家に泊まる時は、事前に必ずラインを一本入れてくる子だ。ポケットから自分のスマホを取り出し、蓮とのトーク画面を開く。最後に交わしたのは、夕方に私が送った「今夜の夕飯は冷蔵庫にあるからね」というメッセージ。それに対して、蓮が送ってきた生返事のスタンプ。それが最後だった。
電話をかけてみる。
コール音すら鳴らず、『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』という、機械的な女性の音声が耳元で流れた。
「蓮……?」
その夜、私は一睡もできなかった。
十五分おきに蓮の携帯に発信し、そのたびに冷たい拒絶のアナウンスを聞かされた。夜が明け、外が白み始め、朝のニュース番組が始まる時間になっても、蓮の部屋のドアが開くことはなかった。
学校に連絡を入れ、彼が昨日、学校を出たきり足取りが途絶えていることを知ったとき、私の足元は完全に崩れ去った。
――――
それから、どうやって警察署まで辿り着いたのか、記憶が曖昧だ。
案内された薄暗い相談室のパイプ椅子に腰掛けている私に、目の前のベテランらしい警部――城島と名乗った男は、ひどく重苦しい沈黙のあと、一枚のタブレット端末を差し出してきた。
「お母さん。……非常に、お辛い映像になりますが、覚悟して見てください」
画面が再生される。
それは、昨日の夜――蓮がいなくなった日の、とある交差点のドライブレコーダーの映像だった。
小雨が降る中、画面の奥から、青いビニール傘を差した少年が歩いてくるのが見えた。片手にはコンビニの袋。もう片方の手で、スマホの画面をじっと見つめている。フードを被っていて顔はよく見えない。けれど、その歩き方、その体型、着ているお気に入りの黒いマウンテンパーカー。
「蓮……」
声が震えた。間違いなく、私の息子だった。
次の瞬間、映像の右側から、減速しないままの巨大な中型トラックが猛スピードで滑り込んできた。
「いやっ!」
私は思わず目を背けようとした。
トラックとの衝突、蓮の身体が吹き飛ばされる――そう思った。
けれど。
「……え?」
画面の中で、何かが奇妙な弾け方をした。
トラックが蓮の身体に衝突した、まさにその刹那。
蓮の身体が、まるでデジタル映像のノイズが走ったかのように、一瞬だけ不自然にブレた。そして、次のフレームでは、トラックのバンパーだけが激しくひしゃげ、その場には誰もいなくなっていたのだ。
トラックが急ブレーキを踏み、激しく車体を揺らして停止する。画面に映っているのは、アスファルトの上に転がった青い傘と、バラバラになったコンビニの袋だけ。
蓮の姿は、どこにもなかった。
トラックの横から弾き飛ばされた様子もない。ただ、画面から「消えた」のだ。
「これ……何ですか?」
私は呆然と城島を見上げた。頭の中の歯車が、狂った音を立てて空回りしている。
「蓮は、どこに跳ね飛ばされたんですか? 病院ですか? どこにいるんですか!?」
城島警部は帽子を脱ぎ、痛々しいものを見る目で私を見つめ、静かに首を振った。
「現場からは、佐藤蓮君の遺留品……スマホと傘、買い物の袋だけが見つかっています。しかし、肝心の本人の身体が、どれだけ捜索しても、血痕一つすら、見つからないんです」
「見つからないって、どういうことですか……? 映ってるじゃない、ここに! 蓮が、ここに映ってるじゃないの!!」
私はタブレットの画面を何度も叩いた。
そこにいるのに、いない。
目の前に突きつけられたのは、息子の”死の証明”ですらなく、ただそこに人間がいないという、絶対的な”不在の証明”だけだった。
※この作品はaiちゃんとの共同作品です。




