【一】発端:雨の交差点
ザァ、とフロントガラスを叩く小雨の音が、深夜のキャビンに嫌な湿度を連れてくる。
ワイパーが左右に往復するたび、油膜で濁ったヘッドライトの光がアスファルトに不規則に反射している。
トラック運転手の佐藤はハンドルを握る両手に、じっとりとした汗を感じていた。
長距離配送のシフトが続いて、脳の芯が痺れるように疲れている。カフェインの錠剤はとうに効き目を失い、胃の奥を不快に刺激するだけの異物になっていた。
(あと二つ、交差点を過ぎればバイパスに出る……)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
車載のカーナビが「まもなく、斜め左方向です」と、緊張感のない電子音声でルートを告げた。佐藤はほんの一瞬、本当に一瞬だけ、ルートを確認するために視線を下へ落とした。
時間にして、1秒にも満たない。
視線を正面に戻した、まさにその刹那だった。
黄色から赤へと変わる瞬間の、薄暗い交差点の真ん中。
そこに、液晶の青白い光に顔を照らされた少年が立っていた。
フードを深く被り、片手にはコンビニの白いレジ袋をさげたビニール傘。もう片方の手でスマホを凝視したまま、一歩、横断歩道へ足を踏み出している。傘の青いビニール越しに、少年の無防備な横顔がヘッドライトの白い光の中に鮮明に浮かび上がった。
「――っあ!」
佐藤の脳が静止する。
右足が本能的にブレーキペダルを踏み抜いた。床板がひしゃげるほどの力で、全体重をかけて。
しかし、四トンの質量を持った鉄の塊が、濡れた路面で急に止まれるはずがなかった。タイヤが悲鳴を上げてロックし、車体が激しくスライドする。
間に合わない。
視界のすべてが、少年の目を真ん丸と見開いた驚きの顔で埋め尽くされた。
次の瞬間、フロントガラスのすぐ下で、「ドンッ」という、重く、鈍い衝撃が響いた。
それは、金属が人間の肉体と骨に衝突した時の、硬質で、しかしどこか柔らかい、最悪の感触だった。
トラックの強固なバンパーが少年の腰を砕き、そのまま車体の下へと巻き込んでいく振動。ゴゴゴ、とシートを通じて佐藤の臀部、そして背骨へと直接伝わってきた。何かが破裂し、引きちぎられる生々しい感覚が、右足のペダルを通じて脳髄にまで駆け上がる。
「あ、あ、あああああ!」
佐藤は狂ったように叫びながらハンドルを抱え込んだ。トラックは数メートル進んで、ようやく濁った音を立てて停止した。
静寂が戻る。
聞こえるのは、アイドリングの不快な振動音と、激しく鳴り響く自分の心臓の音だけだ。
手足の震えが止まらない。胃の底から酸っぱいものが込み上げてくるのを、必死で飲み込んだ。
「あ……あ……」
歯の根がガタガタと震え、言葉にならない息が漏れる。佐藤は自分が今、人生の終わりへと続く引き金を引いてしまったことを確信していた。
(人を、撥ねた。殺してしまった)
刑務所。人生の終わり。遺族の顔。
震える手でドアを開け、外へ飛び出す。冷たい雨が顔を叩いたが、そんな冷たさを感じる余裕すらない。
(頼む、生きていてくれ……!)
佐藤はトラックのフロント側に回り込んだ。
ヘッドライトの放つ白い光の中に、異常にひしゃげた鉄製のバンパーが見えた。人間の身体がまともに衝突した部分が、内側へ向かって無残に凹んでいる。これだけの衝撃だ、中の人間が無事で済んでいるはずがない。
足元には、引きちぎられたコンビニの袋。
画面が蜘蛛の巣状に割れたまま明滅しているスマートフォン。
少し離れた場所に、綺麗に開いたまま転がっている青いビニール傘。
少年の持ち物は、すべてここにある。
すべてが、1秒前にここに”人間がいた”ことを証明していた。
佐藤は泥水に膝をつき、トラックの下を覗き込んだ。前輪の裏、車体の下、タイヤに巻き込まれた無残な遺体を確認するために。
「……え?」
最初に口から出たのは、情けないほど小さな声だった。
いない。
引いてしまったはずの被害者の姿が、どこにもない。
車輪の周りにも、デフの隙間にも、何もなかった。
それどころか、あれだけの衝撃があったというのに、衣服の切れ端も、飛び散っているはずの血痕の一滴すら、どこにも付着していないのだ。
「……え、なんで?」
佐藤は四つん這いのまま、トラックの周りをぐるぐると回り始めた。
見間違いだったのか?
そんなわけはない、感触は痛いほどに残っている。
どこかに吹き飛んでしまったのか。ライトが照らす範囲を何度も何度も見回す。
だが、いない。
交差点の中心には、ただ濡れた黒いアスファルトが広がっているだけ。
「え……? あれ……?」
佐藤は震える自分の両手をまじまじと見る。
ペダルを踏み抜いた右足の裏、そしてハンドルを握っていた両手には、今もまだ、生身の人間を、骨を、肉を、四トンの車体でと踏み潰した凄惨な感触が残っている。その感覚が、その異物を、罪の重さを、確かに覚えている。
なのに、目の前には死体がない。
物だけが残されて、人間だけが、綺麗に消失している。
「なんで?? おかしいだろ、なんで??」
佐藤は割れたスマホを拾い上げ、それから自分の頭を両手で抱え込んだ。
自分が狂ってしまったのか、それとも世界が狂ってしまったのか。
雨の降る無人の交差点で、佐藤は叫ぶことすらできず、ただ現実の辻褄が合わない恐怖に、声を失ってガタガタと震え続けるしかなかった。
※この作品はaiちゃんとの共同作品です。




