第九章 湯気の向こう
最初の試行報告を読んだ山根村長は、資料の八ページ目で手を止めた。
「田中さん。温泉はどうしたんや」
役場の会議室には、美月、森下、藤井、山根の四人が集まっていた。
「温泉ですか」
「最初に、村の資源として挙げとったでしょう。森林、清流、温泉、廃校、林業技術。今回使ったんは、森林と川だけや」
美月は資料を見直した。
清澄村へ来た初日、自分で読み上げた言葉だった。
温泉についても、年間利用者数、入浴料、維持管理費を確認している。だが、資料の数字を表へ移しただけで、現地へ足を運んだことはなかった。
「第一回の試行では活動を詰め込みすぎました。温泉まで組み込めば、さらに負担が増えていたと思います」
「それは、結果を見たあとの説明やな」
山根が言った。
「はい」
「忘れとったんか」
「忘れてはいません。ただ、後回しにしていました」
「なぜや」
美月は少し考えた。
「温泉は、ほかの地域にもあるからです」
山根の表情が硬くなった。
「また、それか」
「村長」
藤井が口を挟んだ。
「田中さんの言うことも分かります。あそこは小さい。食堂もないし、土産物も売っとらん。駐車場も八台分しかない。観光バスを呼べる施設やないでしょう」
「観光バスを呼ばんでも、温泉は温泉や」
「村の人が使っとる場所です。客が増えたら、いつもの人が入れんようになります」
「今は空いとる時間の方が長いやろ」
「営業日の夕方は、高齢者で混む日もあります」
二人の言葉を聞きながら、美月は利用者の資料を思い出した。
年間利用者の八割近くが村民。年代別の記録はなかったが、回数券購入者の多くは六十五歳以上だった。
村外利用者は、年間千人にも届かない。
泉質は、アルカリ性単純温泉。
源泉温度は四十二・八度。加水も加温もせず、循環させない源泉かけ流しと記載されている。
数字だけを見れば、観光資源として十分な特徴があった。
それなのに、利用者の中心は村の高齢者で、村外にはほとんど知られていない。
「今日、見学できますか」
美月が尋ねた。
森下が手帳を開く。
「今日は木曜日なので、午後一時から八時まで営業しています」
「管理の方から、営業前にお話を伺いたいです」
「宮本さんへ確認します」
「旅館から遠いですか」
「山路館からなら、歩いて八分くらいです。川沿いの遊歩道を上流へ行ったところにあります」
美月は森下を見た。
「そんなに近いんですか」
「近いですよ」
「なぜ教えてくれなかったんですか」
「資料にも地図にも載っています」
言い返せなかった。
美月は村の地図を何度も見ている。それでも、山路館と温泉を歩いて結ぶ発想を持たなかった。
「午後、行ってきます」
美月が答えると、山根は資料を閉じた。
「まず、入ってこい」
「仕事として見学します」
「湯にも入れ。入らんと分からん」
「泉質は分析表で確認できます」
「田中さんは、食事も成分表だけ見て味を決めるんか」
山根は椅子から立ち上がった。
「入ったあとで、それでも使わんと言うなら、理由を聞く」
*
午後零時二十分、美月は山路館を出た。
澄江から教えられたとおり、赤い橋を渡らず、旅館の前から川沿いの道を上流へ歩く。
舗装された細い道だった。
左手には清澄川、右手には山の斜面が続いている。車はほとんど通らず、聞こえるのは川の流れと鳥の声だけだった。
道の途中に、木製の小さな標識が立っている。
『清澄温泉 川音の湯 この先三百メートル』
矢印の先へ進む。
川面には、山の緑が揺れていた。
初夏の木々は濃淡の違う葉を重ね、杉の深い緑の間に、明るい黄緑の広葉樹が混じっている。雨上がりの日には、川のすぐ上へ霧が下りるという。秋は楓や欅が赤や黄色に変わり、冬は向かいの山へ雪が積もる。春には山桜が、杉の間へ淡い色を浮かべる。
澄江が話した景色を、美月はまだ一つの季節しか知らない。
曲がり角の先に、灰色の瓦屋根が見えた。
清澄温泉「川音の湯」は、川と山の間の狭い土地に建っていた。
木造平屋の小さな施設だった。正面には磨かれた格子戸があり、その横に、湯気を表した白い暖簾が掛けられている。
大きな看板も、飲食店も、土産物売り場もない。
駐車場は八台分。隅には、杖を使う人が車から降りやすいよう、屋根の付いた乗降場所が設けられていた。
建物の裏手から、絶えず水の流れる音がする。
美月が入口へ近づくと、引き戸が開いた。
「まだ営業前やで」
白いポロシャツに紺色のエプロンを着けた女性が、顔を出した。
「創生都市開発の田中です。森下さんから連絡が入っていると思います」
「ああ、東京の人か」
女性は扉を大きく開けた。
「管理をしている宮本和代です。どうぞ」
「本日はありがとうございます」
美月が名刺を差し出すと、和代は両手で受け取った。
「森下さんから、温泉を観光に使いたい人が来ると聞きました」
「使うかどうかを検討するために伺いました」
「まだ決めてへんの?」
「はい」
「正直やな」
和代は名刺を受付の引き出しへしまった。
「ほんなら、何を見たいんです?」
「源泉、浴室、日々の管理作業、利用者の状況です。営業開始後、入浴もさせていただきます」
「先に仕事してから風呂か」
「その方が落ち着いて入れますので」
「東京の人は、風呂へ入るのにも順番を決めるんやな」
*
入口の靴箱は、鍵のない木棚だった。
受付の前には長椅子が二つあり、壁際に回数券と入浴料が掲示されている。
村民三百円。村外利用者五百円。
隣には、畳敷きの休憩室があった。低いテーブル、古いテレビ、血圧計、将棋盤。壁には、村営バスの時刻表と診療所の予定表が貼られている。
「利用者は、やはり村の方が多いんですか」
「ほとんど村の人です」
「年齢は?」
「七十代がいちばん多いと思います。八十を過ぎても来る人もおる。六十代やったら、ここでは若い方です」
「若い世代は利用しないんですか」
「たまには来ますよ。でも、働いとる人が多いから、営業時間に間に合わん。休みの日は、車で町の大きい施設へ行きます。食堂もサウナもありますから」
「村外の方が少ない理由は?」
「ここまで来るバスが少ない。ホームページも役場の案内に一ページあるだけ。旅館に泊まる人も減りました。温泉だけ入りに、細い山道を一時間近く走ってくる人は多くないです」
「泉質がよくても?」
「泉質がよければ、勝手に人が来るわけやないでしょう」
和代は受付の内側から、毎日の記録簿を出した。
「昨日は二十二人。そのうち村外は二人。先週の土曜は三十一人で、村外が六人」
「男女別は?」
「女性の方が少し多いですね」
「一度に何人入れますか」
「内湯が六人くらい。露天は三人入ったらいっぱいです」
「露天風呂もあるんですね」
「小さいですよ」
和代は女性用脱衣所の扉を開けた。
「今は誰もおらんから、入ってええです。営業が始まったら、撮影は一切あかんよ」
「施設記録用に、無人の状態だけ撮影してもいいですか」
「掲示物に名前や電話番号が書かれていないか、先に確認してください」
脱衣所には、鍵付きのロッカーが二十四個並んでいた。
洗面台は三つ。ドライヤーは二台。壁には、入浴前の水分補給、長湯を避けること、飲酒後は入浴しないことが書かれている。
浴室と脱衣所では、携帯電話や撮影機器の使用を禁じる表示もあった。
「ここでは、もともとスマートフォンを使えないんですね」
美月が言うと、和代が表情を変えた。
「風呂でスマホを使わんのは、デジタルデトックスのためやないですよ」
「はい」
「服を脱ぐ場所やからです。ほかの人が安心して入れるように、撮影できるものを出さんでもらっとる」
「その点は、参加者にも明確に説明します」
「温泉へ入ったら自然にスマホを手放せる、みたいな書き方はせんといてください」
「書きません」
「浴室へ持ち込めんのは、心を癒やすためやなく、利用者を守るためです」
美月はそのままノートへ記した。
*
浴室へ入ると、石造りの内湯が一つあった。
洗い場は五席。湯口から透明な湯が絶えず流れ込み、浴槽の縁から静かにあふれている。
床を伝った湯は、排水溝へ途切れることなく流れていた。
「本当に、源泉かけ流しなんですね」
「それを確認しに来たんでしょう」
和代は湯口へ手を入れた。
「源泉は四十二・八度前後。季節で少し変わりますけど、加水も加温もしてません。循環もなし。湯口から入った分だけ、浴槽の外へ流れます」
「湧出量は?」
「毎分百十リットルほど。二つの浴槽を満たせる量があります」
「浴槽の湯は、毎日入れ替えるんですか」
「営業後に全部抜いて洗います。朝に掃除して、また新しい湯を張る。かけ流しやから掃除せんでええと思う人もおるけど、そんなわけない」
「水質検査は?」
「定期検査を受けてます。温度と湯量も記録する。露天は葉っぱや虫が入るから、営業中も何度か見ます」
和代が内湯の奥にある木戸を開けた。
冷たい空気と、川の音が入り込んでくる。
外には、岩を組んだ小さな露天風呂があった。
三人が入れば肩が触れそうな広さである。浴槽を囲む板塀は、人の姿が外から見えない高さに作られていた。その上には、川と対岸の山が広がっている。
川は建物のすぐ下を流れていた。
水が岩へ当たる音と、湯口から注がれる音が重なる。露天風呂の縁には、雨に濡れた青い楓の葉が一枚落ちていた。
美月は思わずスマートフォンへ手を伸ばした。
和代が横から言う。
「営業前でも、浴槽の写真を外へ出すなら先に見せてください」
「分かりました」
美月は端末を戻した。
「ここからの景色は、季節ごとに変わるんですね」
「春は山桜。夏は今みたいに緑。秋は向こうの楓が赤うなる。冬は雪ですね。雪の日は道が危ないから、村外の人はほとんど来ませんけど」
「村の方は来るんですか」
「送ってもらえる人は来ます。雪の日こそ、温泉へ入りたい言うて」
「高齢者の利用が多いなら、露天までの段差は問題になりませんか」
内湯から露天へ出る場所には、二段の石段があった。手すりは付いているが、濡れると滑りやすそうだった。
「問題です。足の悪い人には、内湯だけにしてもらうこともあります。外へ出る時は声をかけてもらう。けど、誰も見とらん時に出る人もおる」
「改修の予定は?」
「見積もりは取りました。床の石を替えて、手すりを延ばすと百八十万円ほど。まだ予算が付いてません」
「温泉そのものには十分な湯量があり、質もよい。でも、施設を維持する費用と安全対策が必要なんですね」
「温泉いうたら、湯だけ見たらええと思われます」
和代は露天風呂の縁へ手を置いた。
「でも、ここを使うんは人です。体を洗う場所も、着替える場所も、休む場所も要る。冬は通路が凍る。秋は落ち葉が排水を塞ぐ。春は虫が増える。景色が変わるいうことは、手入れも変わるいうことです」
美月はノートへ書いた。
季節の景色。
季節ごとの管理。
二つを同じ行に並べた。
*
午後一時になると、利用者が続けてやってきた。
受付で三百円を払い、和代と短い言葉を交わす。
「今日は膝どう?」
「朝よりまし」
「露天へ行くなら手すり持ってよ」
「昨日、診療所へ行ったんやて?」
「薬は変わってへん」
和代は利用者の名前だけでなく、体調や家族のことまで覚えていた。
美月は受付の横に立ち、入ってくる人を数えた。
最初の一時間で十四人。
全員が六十五歳以上に見えた。杖を使う人、家族に車で送ってもらった人、手押し車を入口へ置く人もいる。
「ここ、温泉やけど、半分は集会所やで」
松井フミが回数券を出しながら言った。
「フミさんも毎週来るんですか」
「木曜は、畑を早う終えられたら来る。風呂へ入って、誰が元気で、誰が来てないか見る」
「来ない方がいたら?」
「家へ電話することもある。体調が悪いんか、用事があるだけなんか」
後ろから、白髪の女性が言った。
「フミさんは何でも知りたがるだけや」
「倒れとってからでは遅いやろ」
「私が一回来んかっただけで、息子に電話したやないか」
「息子さんが東京におるからや」
二人は言い合いながら、同じ脱衣所へ入っていった。
温泉は、村の高齢者にとって、体を温める場所であると同時に、人の気配を確かめる場所でもあった。
村外から利用者を呼べば、収入は増える。
だが、混雑によって高齢者が来にくくなれば、この場所が担っている役割を損なう。
入浴者数だけでは測れない価値が、すでにここにあった。
*
美月も入浴料を払い、女性用の脱衣所へ入った。
仕事のために施設を確認するつもりだった。
けれど、服を脱ぎ、スマートフォンと腕時計をロッカーへ入れると、ノートも持ち込めないことに気づいた。
浴室へ入り、体を洗ってから内湯へつかる。
湯は肌へ柔らかく触れた。
透明だが、普通の湯よりわずかに滑らかに感じる。肩までつかると熱すぎず、体の内側へゆっくり温かさが入ってきた。
「そこ、湯口の近くは熱いで」
隣にいたフミが言った。
「四十二度くらいですよね」
「数字やなく、自分の体で分かるやろ」
「はい」
「分かってへん顔やな」
フミは笑い、露天へ続く木戸を開けた。
「外、行く?」
「はい」
二人で手すりを持ち、石段を下りる。
露天風呂には誰もいなかった。
湯へつかると、内湯より川の音が近い。板塀の上に、対岸の山が見える。
午後の光を受けた葉が、風に揺れるたび、濃い緑から明るい緑へ変わった。
湯気が視界を隠し、風が吹くと消える。
「きれいですね」
美月は言った。
「今日は普通や」
「これが普通なんですか」
「毎週見とるからな。秋の朝は、もっときれいやで。山の上から順番に色が変わる。冬は雪が降ったら、湯気で向こうが見えん時もある」
「観光客に知らせれば、来る人はいると思います」
「来てもろうてもええよ」
フミは浴槽の縁へ腕を置いた。
「でも、私らが入れんほど来たら困る」
「一日の人数を制限する方法があります」
「誰が数える?」
「予約を導入するか――」
「私らも予約するん?」
「村の方は今までどおり利用できる形にします」
「客が予約して来たのに、村の人でいっぱいやったら?」
美月は視線を落とした。
「田中さんは、すぐ決めんから、まだええ」
フミは目を閉じた。
「先に客の数を決める人やったら、もう一緒に入りたない」
美月も山へ視線を戻した。
スマートフォンがなくても、この景色を覚えられるだろうかと思った。
春の山桜も、秋の紅葉も、冬の雪も、まだ見ていない。
知らない季節まで、宣伝文句に使うべきではない。
*
二回目の試行には、大阪で別々に暮らす母と娘が参加することになった。
母親の神田香織は五十二歳。介護用品を扱う会社で事務の仕事をしている。
娘の奈々は二十六歳。大阪市内の設計事務所に勤めていた。
応募したのは香織だった。
『母の介護について、娘へ相談したいことがあります。ただ、娘には娘の生活があるため、どこまで頼ってよいのか分かりません。電話では、お互いに大丈夫と言って終わります。一緒に過ごす時間を作りたいと思い、応募しました』
オンライン面談で、美月は奈々へ尋ねた。
「お母様から、介護の相談をしたいと聞いていますか」
『聞いています』
「今回の滞在で、何か決めることを求められていると思いますか」
奈々は少し考えた。
『実家へ戻るかどうか、聞かれると思っています』
香織が顔を上げた。
『戻ってきてなんて言ってないでしょう』
『言ってないから分からないの』
『奈々は仕事があるし、戻れるわけないと思ってる』
『じゃあ、何を相談したいの?』
『それを話すために行くんでしょう』
二人はそこで黙った。
「今回の試行では、活動を一つ選んでいただきます」
美月は説明した。
「森林散策、共同調理、温泉での入浴と休憩。この三つです」
『温泉がいいです』
奈々が答えた。
「お母様は?」
『私も温泉で』
香織も答えた。
「温泉は山路館から川沿いを歩いて八分ほどです。源泉かけ流しの内湯と、小さな露天風呂があります。ただし、貸し切りではありません。普段利用されている村の方と一緒に入っていただきます」
『知らない人とですか』
「はい。利用者の多くは村の高齢者です」
『写真は撮れますか』
「脱衣所と浴室は撮影禁止です。川や山の景色も、浴室内からは撮れません」
『せっかく露天風呂があるのに?』
「ほかの利用者のプライバシーを守るためです。建物の外に、川と山を見られる場所があります。そこからは撮影できます」
奈々がうなずく。
『それでいいです』
「浴室内では、施設の規則によりスマートフォンを使用できません。ただし、緊急連絡を待つ必要がある場合は、受付で着信を確認できます」
香織が画面へ顔を近づけた。
『母は今、短期入所を利用しています。何かあれば、私の携帯電話へ連絡が来ます』
「介護施設へ温泉の固定電話番号を伝え、緊急時だけそちらへ連絡してもらうこともできます」
『そこまでお願いしていいんでしょうか』
「宮本さんと確認したうえで決めます。難しければ、香織さんの端末を受付へ預け、着信時に声をかける方法にします」
『スマートフォンを置く意味がなくなりませんか』
「必要な連絡まで断つことは求めません」
『でも、私が何度も確認したら、娘にまたスマホを見ていると言われそうで』
『私は、そんなこと言ってない』
奈々が答えた。
『お母さんが、自分で気にしてるんでしょ』
香織は黙った。
「置くことと、連絡を受けないことは別です」
美月が言った。
「介護施設から連絡があった場合だけ、宮本さんから声をかけてもらう。それ以外の通知は見ない。そう決めることもできます」
『分かりました』
「温泉へ入っている間に不安が強くなったら、途中で上がって構いません」
『一時間を守れなくても?』
「守るために入るのではありません」
香織は小さく息を吐いた。
『少し、娘と話してから決めます』
*
二人から参加の返事が届いたのは、翌日の夜だった。
介護施設と連絡方法を確認し、緊急時は川音の湯の固定電話へ連絡してもらうことになった。
『母は、私が一日いないからといって、すぐ困る状態ではありません。施設の方から、任せてくださいと言われました』
電話でそう話す香織の声には、安心より不安の方が強く残っていた。
「任せることが難しいですか」
美月が尋ねる。
『母のことは、私が一番分かっていると思ってきたので』
「施設の方へ任せることに、罪悪感がありますか」
『あります。娘と温泉へ行くためだと思うと、余計に』
「そのお気持ちは、今回の滞在だけで解決できるものではないと思います」
『分かっています』
「参加を取りやめることもできます」
『それも娘と話しました。行くことにします』
香織は答えた。
*
二回目の試行日は、朝から細い雨が降っていた。
参加費は、母娘二人で四万八千円。
宿泊、朝夕食、温泉利用、保険、運営費を含む。山路館から温泉までは徒歩で移動するため、前回必要だった村内送迎費はかからない。
それでも、利益が出る金額ではなかった。
山路館へ到着した香織は、五十二歳という年齢より疲れて見えた。
髪を後ろで一つに結び、黒いリュックを両手で抱えている。奈々は母親より背が高く、肩までの髪を雨に濡らしながら、キャリーケースを引いていた。
「雨の中、ありがとうございます」
美月が迎える。
「こちらこそ。準備していただいて」
香織は頭を下げた。
「温泉までは歩くんですよね」
奈々が尋ねる。
「はい。八分ほどですが、雨で道が濡れています。滑りにくい靴でお願いします」
「露天風呂は入れますか」
「通常どおり利用できます。ただ、雨が強くなった場合は、内湯だけにすることもできます」
「屋根はないんですか」
「浴槽の半分だけ、小さな庇があります」
「雨の露天風呂も、きれいそう」
「足元が滑りやすいので、景色を見る前に手すりを使ってください」
奈々が笑った。
「田中さん、注意から入るんですね」
「安全に戻っていただくまでが試行ですから」
香織はリュックからスマートフォンを出した。
「施設から連絡は?」
「今のところ、川音の湯にも山路館にも入っていません」
「私の携帯にもないです」
「必要なら確認して構いません」
「でも、始まったら見ない方がいいですよね」
「決めるのは香織さんです」
奈々が母親を見る。
「また田中さんに正解を聞こうとしてる」
「聞いてないでしょう」
「聞いてるのと同じ」
「奈々」
「すみません」
奈々は美月へ頭を下げた。
「ここへ来る前から、何度も同じ話をしていて」
「謝る必要はありません」
「母は、誰かに大丈夫と言ってもらわないと、何も決められなくなってるんです」
「何もではないでしょう」
香織の声が硬くなる。
「おばあちゃんの施設だって、お母さんが決めたじゃない」
「仕方がなかったから」
「それも、自分で決めたことだよ」
「簡単に言わないで。あなたは月に一度しか会わないでしょう」
「だから、戻った方がいいのか聞いてるの」
「戻ってきてほしいなんて言ってない」
「また、それ」
二人の間に沈黙が落ちた。
「お部屋へご案内します」
美月は低い声で言った。
「話の続きをするかどうかは、お二人で決めてください」
*
午後三時、三人は山路館を出た。
雨はほとんど上がっていた。
川沿いの道には水たまりが残り、木の葉から雫が落ちている。川の水量は朝より増えていたが、濁りは少ない。
香織と奈々は、並ばずに歩いた。
香織が前、美月が中央、奈々が少し後ろを歩く。
対岸の山には薄い霧がかかっていた。
「晴れていたら、もっときれいなんでしょうね」
奈々が言った。
「晴れた日には、山の緑が川面に映ります」
「秋は?」
「楓や欅が色づくそうです」
「見たことはないんですか」
「私は、初夏の景色しか知りません」
「パンフレットには、秋も冬も書くんですよね」
「書く場合は、その季節を知っている村の方に確認します。できれば、自分でも見ます」
「三か月で東京へ帰るんでしょう」
「はい」
「冬は見られないですね」
「だから、私の言葉だけでは書きません」
奈々は山を見た。
「東京の会社の人が帰ったあと、誰が続けるんですか」
「まだ決まっていません」
「決まってないことが多いですね」
「はい」
「不安じゃないですか」
「不安です」
「それでも始めたんですね」
「一度試さないと、何を決める必要があるかも分からないからです」
前を歩く香織が振り返った。
「家族も同じかもしれませんね」
「何が?」
奈々が尋ねる。
「話す前から、何を決めるか決めようとすると、話せんようになる」
「お母さんは、私に何を言わせたいか決めてるでしょう」
「決めてへん」
「じゃあ、今日は何を話したいの?」
香織は答えず、前へ向き直った。
*
川音の湯の駐車場には、七台の車が停まっていた。
入口の前では、杖をついた男性が、家族らしい女性に支えられながら車を降りている。
「混んでいますね」
香織が言った。
「木曜の午後は、村の利用者が多い時間です」
「私たちが入って大丈夫ですか」
「村外の方も利用できます。ただし、浴槽が混んでいたら、順番に入ってください」
「観光客として特別扱いはされない?」
「されません」
奈々がうなずいた。
「その方がいいです」
受付で、和代が二人を迎えた。
「今日は雨で道が滑りやすかったでしょう」
「温泉まで歩けるとは思っていませんでした」
香織が答える。
「山路館からなら、すぐです。昔は旅館のお客さんも、浴衣でよう来てました」
「今は?」
「旅館のお客さん自体が少ないからね。村の年寄りばっかりです」
和代は受付の横に置いた籠を示した。
「緊急の連絡を待っとると聞きました。お母さんのスマートフォンは、音を出す設定で、ここへ置けます。介護施設から電話があったら、脱衣所の外から声をかけます」
「浴室へ持って入っては駄目なんですね」
「駄目です。ほかの人が服を脱ぎますから」
「承知しました」
香織はスマートフォンを籠へ入れた。
手を離す前に、画面をもう一度確認する。
「今から一時間ですか」
「一時間を始める場所は、お二人で決めてください」
美月が答える。
「入浴前からでも、湯上がりの休憩からでも構いません」
「お風呂では、どちらにしてもスマホを使えないよ」
奈々が言った。
「なら、今からにします」
香織は受付の籠へ端末を置いた。
奈々もスマートフォンを出す。
少し考え、自分の端末は脱衣所の鍵付きロッカーへ入れることにした。
「別々でいいんですよね」
「はい」
二人はカードへ、それぞれが置くものと、向き合うものを書いた。
香織はカードを二つ折りにした。
奈々は書いた面を上にしたまま、美月へ見せた。
『置くもの――すぐ答えを出すこと』
『向き合うもの――母が本当に言ったこと』
「お母様へ見せますか」
「今は見せません」
奈々はカードを木箱へ入れた。
*
二人が脱衣所へ入ったあと、美月は休憩室で待った。
低いテーブルの一つでは、三人の男性が将棋盤を囲んでいた。別のテーブルでは、白髪の女性たちが、持参した水筒の茶を飲んでいる。
利用者は、見渡す限り高齢者ばかりだった。
観光客向けに設えられた華やかさはない。
テレビの音、将棋の駒が盤へ当たる音、風呂上がりの人が血圧を測る音。誰かが来れば、受付から名前を呼ぶ声が聞こえる。
「東京の会社の人やろ」
将棋を見ていた片山が、美月へ声をかけた。
「はい」
「温泉を使って何かするんか」
「一組の方に利用していただいています」
「入浴料は五百円?」
「入浴料は五百円です。そのほかに、宿泊と運営を含む参加費をいただいています」
「温泉にも、その金は入るんか」
「通常の入浴料に加えて、宮本さんの説明や準備にかかる費用を施設へ支払います」
「客が増えたら、俺らの入浴料も上がる?」
「現時点では変更しません」
「予約せな入れんようになる?」
「しません」
「ずっと?」
「規模を変える場合は、利用者の方を含めて、もう一度話します」
「最初はみんな、そう言う」
颯太から最初に聞いた言葉と同じだった。
「言ったことを、議事録へ残しています」
「紙が止めてくれるんか」
「紙だけでは止められません」
「ほんなら、何で止める」
「ここを使う方が、無理だと言える仕組みを作ります」
「その仕組みを作るんは誰や」
「現時点では未定です」
片山は呆れたように鼻を鳴らした。
「今日のところは、将棋の邪魔にならんかったらええ」
「邪魔になった時は、言ってください」
「今、話しかけたんは俺や」
「はい」
対局相手が駒を動かした。
「片山さん、しゃべっとる間に逃げ道なくなったで」
「東京の人のせいや」
「人のせいにしたらあかん」
将棋盤の周りに笑いが起きた。
*
二十分ほどして、香織と奈々は内湯から露天風呂へ出た。
浴室内の声は休憩室まで届かない。
小さな露天には、二人のほか、松井フミが入っていた。
雨は上がり、板塀の向こうに霧のかかった山が見える。濡れた木々が光を受け、葉の輪郭を濃くしていた。
「きれいやろ」
フミが言った。
「はい」
香織は湯へ肩までつかり、山を見上げた。
「写真を撮れないのが残念です」
「写真は頭の中で撮ったらええ」
フミが答える。
「忘れてしまいそうで」
「忘れたら、また来たらええ」
「簡単には来られません」
「ほんなら、忘れてもええんと違う?」
香織は少し驚いた。
「きれいやったことまで、忘れていいんですか」
「全部覚えとかなあかんの?」
湯口から流れ込む音が続いた。
奈々は浴槽の縁に腕を置き、川の方を見ている。
「母は、何でも覚えておかないと不安なんです」
「奈々」
「おばあちゃんの薬の時間、食べたもの、体温。全部ノートに書いてる」
「必要やから書いてるの」
「必要じゃないことまで書くでしょう」
「何が必要か、あとにならんと分からんから」
「そら、疲れるな」
フミが言った。
香織は返事をしなかった。
「娘さんに書いてもろうたら?」
「奈々は仕事があります」
「一個くらい、頼んだらええ」
「一個頼んだら、その次も頼みたくなるでしょう」
「頼みたくなったら、また聞いたらええ。嫌やったら娘さんが断る」
「断られたら、悲しいです」
「引き受けてもろうて、娘さんがしんどなるのはええの?」
香織は黙った。
奈々も、すぐには口を開かなかった。
「フミさん」
奈々が言った。
「家族に、そういうことを頼まれたことはありますか」
「ありますよ。私は断ったこともある」
「後悔しませんでした?」
「したよ」
「断っても後悔するんですね」
「引き受けても後悔する時もある。どっちを選んでも、何も残らんとは限らん」
フミは露天風呂から立ち上がった。
「先に出るわ。年寄りは長湯したらあかん」
二人へ背を向け、手すりをつかんで石段を上る。
香織が娘を見た。
「村の人、はっきり言うね」
「お母さんが、言わなさすぎるんじゃない?」
「奈々もでしょう」
「私は、聞いても答えてもらえないから、聞かなくなったの」
「何を聞きたいの」
「実家へ戻ってほしいのか」
「だから、それは――」
その時、脱衣所の外から和代の声がした。
「神田さん。介護施設からお電話です」
*
香織は急いで浴室を出た。
体を拭き、浴衣を羽織ると、濡れた髪のまま受付へ向かった。
和代からスマートフォンを受け取る。
「もしもし。はい。神田です」
電話の向こうの声は、美月には聞こえない。
「転んだんですか。どこで。頭は打ってませんか。先生は――」
香織は何度も質問した。
やがて、声が少し落ち着く。
「分かりました。様子が変わったら、また連絡をください。すぐ戻った方がいいですか」
しばらく聞いたあと、「お願いします」と言って通話を切った。
「お母様は?」
美月が尋ねる。
「ベッドから立とうとして、床へ座り込んだそうです。けがはなくて、血圧も問題ないと」
「戻りますか」
「施設の方は、大丈夫だと言っています」
「香織さんは、どうしたいですか」
「分かりません」
香織はスマートフォンを握ったまま、長椅子へ座った。
「さっきまで、お湯に入って、何も考えないようにしてたんです。でも、連絡が来てないか、ずっと気になってました」
奈々も脱衣所から出てきた。
髪を乾かさないまま、母親の隣へ座る。
「おばあちゃん、どうだった?」
「転びそうになったみたい。けがはないって」
「帰る?」
「奈々は、どうしたい?」
「お母さんが決めることでしょ」
「一緒に来たんだから、奈々にも関係ある」
「でも、おばあちゃんの状態を一番知ってるのは、お母さんでしょう」
「そうやって、また私に決めさせる」
香織の声が強くなった。
休憩室にいた人たちが、二人へ視線を向けた。
奈々は周囲を見て、声を落とした。
「お母さんが私に戻ってきてほしいなら、そう言って」
「言ってないでしょう」
「じゃあ、何で私に相談したいって書いたの」
「私が決めることばかり増えて、苦しいから」
「だから、私に決めてほしいの?」
「違う」
「何が違うの」
「分からないから、話したかったの」
香織の目に涙がたまった。
「お母さんの施設を決めるのも、仕事を減らすのも、家をどうするかも、全部私が決めた。親戚は、何かあったら連絡してと言うだけ。奈々は忙しいから大丈夫と言う。みんなが大丈夫と言うから、私も大丈夫と言うしかなかった」
「私は、手伝えることがあるなら言ってって言ったよ」
「仕事を辞めて戻ってくるの?」
「そこまでは言ってない」
「ほら。できることなんかないでしょう」
奈々の表情が変わった。
「それなら、最初から呼ばないで」
「奈々」
「お母さんは、私に戻ってきてほしい。でも、戻ってきてと言って、私の仕事を奪った人になりたくない。だから、私から言うのを待ってるんでしょ」
「そんなつもりじゃ――」
「あるよ」
「勝手に決めないで」
「お母さんだって、私が断るって決めてる」
二人の声が再び大きくなる。
和代が受付から出てきた。
「続きは、奥の部屋で話しますか」
休憩室の奥には、小さな和室があった。普段は職員の休憩と、体調を崩した利用者の救護に使っている。
「使ってもいいんですか」
香織が尋ねる。
「今日は空いとります。ただし、具合の悪い人が出た時は、そっちが先です」
「ありがとうございます」
「その前に、髪を乾かしてください。せっかく温もったのに、湯冷めしますよ」
和代は二人を脱衣所へ戻した。
スマートフォンを香織へ渡す。
「これは、どうします?」
香織は端末を見た。
「持っていきます。もう、一時間は終わりですよね」
「まだ三十二分です」
美月が答える。
「やっぱり守れなかった」
「守れなかったのではありません。受けると決めた連絡が来ました」
「でも、もう置けません」
「それも香織さんが決めることです」
香織は端末を胸の前へ持った。
「今は持ちます」
「はい」
奈々は自分のスマートフォンをロッカーへ残したまま、母親と奥の和室へ入った。
*
予定していた一時間は、途中で終わった。
美月は二人の会話へ同席しなかった。
和代も、温かい茶を運んだあとは部屋から出た。
休憩室では、将棋の対局が続いている。
テレビから夕方のニュースが流れている。
村の高齢者たちは、東京から来た母娘が話し合っていても、普段どおりに湯へ入り、茶を飲み、帰っていった。
美月は受付脇の椅子に座り、何も記録せずに待った。
一時間近くたってから、奈々が和室から出てきた。
「母は、もう少し休むそうです」
「体調は大丈夫ですか」
「はい。泣いて疲れただけです」
「帰宅しますか」
「今日は泊まります」
「介護施設へは?」
「母から、今日は施設に任せると電話しました」
「奈々さんは、ご実家へ戻ることについて何か決めましたか」
「決めてません」
「はい」
「聞かないんですね」
「決めるために来たわけではないと、最初にお伝えしました」
奈々は、脱衣所から自分のスマートフォンと木箱を持ってきた。
箱の中のカードを美月へ見せる。
『母が本当に言ったこと』
その下へ、新しい文字が書き加えられていた。
『戻ってきてほしい日もある。でも、戻ってきてほしくない日もある』
「母が、そう言いました」
「はい」
「矛盾してますよね」
「両方とも本当なのでは?」
「私も、帰りたい日と、帰りたくない日があります」
「それも書いておきますか」
奈々はカードの下へ、自分の言葉を書いた。
『帰りたい日もある。帰りたくない日もある』
似た二つの文章が並んだ。
「これ、同じですね」
「少し違います」
「どこが?」
「お母様は奈々さんに対して思っている。奈々さんは、ご自分のことを思っている」
奈々はカードを読み返した。
「そうですね」
木箱へ戻し、箱を両手で抱えた。
「これ、持って帰ってもいいですか」
「体験用の備品なので、お貸しすることはできます」
「返さないといけない?」
「必要であれば、新しく作って販売することもできます」
「いくらですか」
「颯太さんへ確認します」
「何でも値段を付けるんですね」
「作った人の仕事ですから」
奈々は木箱の角を指でなぞった。
「一個、買います」
*
川音の湯を出ると、雨は完全に上がっていた。
山の霧が少しずつ薄くなり、その向こうから傾いた光が差している。
川沿いの道を、三人で山路館へ戻った。
香織はゆっくり歩いた。
奈々は母親の隣に並ばず、半歩後ろを歩いている。
「温泉、どうだった?」
奈々が尋ねる。
「よかった。お湯が柔らかくて」
「景色は?」
「きれいやった」
「秋にも来たい?」
「分からない」
「分からないんだ」
「来たい気持ちはある。でも、その時のお母さんの状態も分からん。仕事も分からん」
「来られたら来る、でいいんじゃない?」
「予約せなあかんかもしれん」
「普通に入るだけなら、予約はいらないって」
「そうやったね」
香織は少し笑った。
二人の前を、美月は歩かなかった。
話が聞こえる距離を保ちながら、少し後ろへ下がった。
川面には、雲の切れ間から差す夕方の光が揺れていた。
*
翌朝、香織は一人で朝食会場へ来た。
奈々は少し遅れて入ってきた。
二人は向かい合って座ったが、前日より会話は少なかった。
味噌汁を飲み、焼き魚の骨を取り、ご飯を食べる。
沈黙を埋めるようにスマートフォンを見ることはなかった。
「施設へ電話しなくていいの?」
奈々が尋ねる。
「朝八時に電話すると伝えてある」
「今、八時五分だけど」
香織は壁の時計を見た。
「ほんまやね」
すぐに電話をかけるかと思ったが、箸を置かなかった。
「ご飯を食べてからにする」
「いいの?」
「緊急なら、向こうから電話が来る」
「そうだね」
二人は朝食を続けた。
食べ終えてから、香織は介護施設へ電話をかけた。
母親は朝食を食べ、いつもどおり過ごしているという。
「ありがとうございます。今日の午後に迎えに行きます」
通話を切った香織は、しばらく端末を見つめていた。
「私がいなくても、朝ご飯を食べたんやって」
「施設だからね」
「分かってる」
「寂しい?」
「安心した。少し寂しい」
「両方?」
「両方」
奈々はうなずいた。
「私も、昨日、帰らなくていいと思って安心した。少し寂しかった」
「何が?」
「お母さんに、戻ってきてって言われなかったこと」
香織は娘を見た。
「戻ってきてほしい日もある」
「聞いた」
「でも、今すぐ仕事を辞めて戻ってきたら、たぶん私は怒る」
「それも聞いた」
「勝手やな」
「うん」
二人は少し笑った。
*
試行後の聞き取りで、香織は温泉について「満足」と答えた。
「泉質がよかったからですか」
美月が尋ねる。
「それもあります。何も足していない源泉だと聞いて、ぜいたくやと思いました。露天から見えた山も、忘れたくないです」
「また利用したいと思いますか」
「今回と同じ内容なら、少し迷います」
「理由は?」
「家族の話をすることまで含まれていると思うと、疲れます。普通に温泉へ入って、何も話さない時間でもいい」
「奈々さんは?」
「私も、もう一度来たいです。でも、次は母と別々に入って、あとで会いたい」
「今回は一緒に入りましたよね」
「はい。浴室でも、母は何度も私の顔を見ました。のぼせてないか、寒くないかって」
香織が苦笑する。
「癖なんです」
「次は違う時間に入ったらいいと思います」
奈々は続けた。
「離れる時間があるから、あとで話せることもあるので」
「一緒に過ごすことだけが、家族の体験ではない?」
「はい。家族だから一緒に、というのも疲れます」
美月は記録した。
『同じ場所で、別々に過ごす選択』
「参加費四万八千円については、どう思いますか」
香織が先に答えた。
「安くはないです。でも、宿泊と食事が入っているなら、払えない金額ではありません」
「もう一度払いますか」
「年に一回なら」
奈々は首をかしげた。
「私は、温泉と宿泊だけなら、自分で予約すると思います」
「プログラムは必要ありませんか」
「必要ない人もいると思います。木箱やカードがあったから話せた部分はあります。でも、話さないといけない気持ちにもなりました」
「改善するとしたら?」
「最初に、何も話さなくていいと、もっと大きく書く」
「募集案内には書いていました」
「読んでいても、実際に来ると忘れます」
「ほかには?」
「温泉のあとに、すぐ振り返りをしない。せっかく温まったのに、すぐ質問されると仕事みたいです」
「どのくらい空けますか」
「少なくとも一時間」
「理解しました」
「すぐ数字にするんですね」
「忘れないためです」
奈々は笑った。
「母が、田中さんと私は似てるって言ってました」
「どこがですか」
「何でも記録するところ」
香織が口を挟む。
「私は、忘れたら困るから書くんです」
「私も同じです」
美月が答えると、奈々は二人を交互に見た。
「やっぱり似てる」
*
二回目の試行にかかった費用は、八万九千六百円だった。
参加費収入は四万八千円。
四万一千六百円の赤字である。
第一回の七十一万円からは大きく減った。
山路館から温泉まで歩いたことで、村内送迎費が不要になった。活動を温泉一つへ絞ったため、住民側の作業時間も減っている。
それでも、事業として継続できる収支にはなっていない。
和代の追加作業は、事前確認、利用説明、緊急連絡対応、救護室の片づけを含めて二時間十分。澄江の追加作業は、母娘の部屋を分けた分を含めて一時間四十分だった。
温泉の通常営業を止めることはなかった。
村民利用者からは、試行参加者がいたこと自体への苦情も出なかった。
ただ一件、「休憩室で家族の話し声が大きく、落ち着かなかった」という意見があった。
美月は母娘の名前を出さず、村民会議へ報告した。
「温泉を使うこと自体には、問題はなかったんやな」
山根が尋ねた。
「通常営業の範囲で利用する限り、大きな問題はありませんでした」
「なら、次から毎回入れたらええ」
「毎回は入れません」
「なぜや。あれだけええ湯で、露天からの景色もある。ようやく村の売りになるもんが見つかったんやぞ」
「前からありました」
藤井が言った。
「村長が見つけたわけやない」
「言葉の話をしとるんやない」
「温泉を売りにすることで、今利用している高齢者が入りにくくなれば、本末転倒です」
美月が答えた。
「村外の利用者数に上限を設けるんか」
「現時点では設けません。ただ、試行参加者は一度に一組までとします。通常の村外利用者と重なった場合は、入浴を待ってもらう可能性も事前に説明します」
「客を待たせるんか」
「村の方にも、村外の方にも、同じように浴槽の広さを説明します。予約客だからといって、先に入れることはしません」
「それで高い参加費を払うか?」
「貸し切りや優先利用に対して支払うのではありません。宿泊、食事、温泉まで歩く時間、自分で何を置くかを選ぶ時間を含めた滞在です」
「歩く時間に金を取るんか」
「道は無料です。安全確認、案内、滞在全体の運営に費用がかかります」
山根は納得していない顔をした。
「温泉は村の資源や」
「同時に、村の高齢者が日常的に使う場所です」
和代が口を開いた。
「私は、観光に使うことへ反対やないです」
全員が和代を見る。
「村外の人にも、あの湯へ入ってもらいたい。春の山桜も、秋の紅葉も、雪の日の露天も見てほしい。湯の質は、どこへ出しても恥ずかしないと思ってます」
「ほんなら――」
「でも、村の年寄りをどかしてまで、客を入れるつもりはありません」
和代は山根の言葉を遮った。
「今来とる人は、風呂へ入るだけやない。誰が元気か見て、話をして、バスを待っとる。そこをなくしたら、ただの温泉になります」
「ただの温泉ではあかんのか」
「あかんとは言うてません。でも、今あるものを減らして、外の人向けに作り直すのは違います」
大西が腕を組んだまま言った。
「最初に田中さんへ言うたやろ。山も川も誰かのもんや。温泉も同じや。村有いうても、役場だけのもんやない」
「では、どの範囲なら続けられますか」
美月が尋ねる。
和代は考えた。
「一度に一組。貸し切りにせん。村の人の場所を取らん。浴室では撮影せん。季節の景色を宣伝するなら、実際の写真を使う。雪の日に無理して来させん。それくらいです」
「高齢者の方へ、定期的に影響を聞く必要があります」
「それは私が聞けます。毎日顔を合わせるから」
「追加の仕事になります」
「普段の話の中で聞く分には、追加やないです」
「記録は?」
「月に一回なら書けます」
「作業時間は、運営費へ含めます」
「そこは払うんですね」
「仕事としてお願いする部分ですから」
和代は少し笑った。
「なら、やってみます」
*
会議の帰り、美月は一人で川音の湯へ立ち寄った。
木曜日の午後六時。
山路館から川沿いを歩く。
夕方の光が、川面と山の斜面を斜めに照らしていた。雨上がりの霧は消え、木々の輪郭がはっきり見える。
入口には、高齢者を送ってきた軽自動車が二台停まっていた。
美月は五百円を払い、靴を棚へ入れた。
「今日は仕事やないんですか」
受付の和代が尋ねた。
「今日は普通に入りに来ました」
「ノートは?」
「ロッカーへ入れます」
「スマホも?」
「はい」
「何に向き合うんです?」
美月は考えた。
「今日は、何にも向き合いません」
「それがええ」
和代は入浴券を受け取った。
脱衣所で服を脱ぎ、スマートフォンと腕時計をロッカーへ入れる。
浴室には三人の女性がいた。
誰も美月へ話しかけなかった。
美月も話さず、体を洗い、内湯へつかった。
湯口から新しい湯が注がれ、浴槽の縁から同じ量だけあふれていく。
しばらくして、露天へ出た。
小さな浴槽には誰もいない。
山の端に夕日が残り、空は薄い橙色から青へ変わり始めていた。川の音は昼間より大きく聞こえる。
秋には、この山が赤や黄色になる。
冬には、雪が積もる。
春には、山桜が咲く。
美月は、その景色をまだ知らない。
知らないまま美しいと書けば、どこかで見た言葉を並べるだけになる。
今、目の前にあるのは、初夏の濃い緑だった。
湯気に隠れ、風に現れ、また隠れる。
「長湯したらあかんで」
内湯からフミの声がした。
「前にも言われました」
「言われてもするんやな」
「何分くらい入っていましたか」
「時計、持ってへんの?」
「ロッカーへ置きました」
「ほんなら、体に聞いたらええ」
美月は浴槽から出た。
脱衣所へ戻り、髪を乾かす。
ロッカーを開けると、スマートフォンには未読が六件届いていた。
すぐには開かなかった。
服を着て、水を一杯飲む。
休憩室には、いつもの将棋盤が出ていた。
片山が対局している。
「田中さんも入っとったんか」
「はい」
「温泉の価値は分かった?」
「泉質がよく、露天からの景色もきれいでした」
「今日は素直やな」
「同時に、高齢者の皆さんに必要な場所だと分かりました」
「仕事の答えに戻ったな」
「普通に気持ちよかったです」
「それでええ」
片山は将棋盤へ視線を戻した。
相手が駒を動かすまで、誰も話さなかった。
美月は休憩室の隅へ座った。
スマートフォンは鞄へ入れたままにした。
テレビでは天気予報が流れている。
明日は晴れるという。
窓の外から川の音が聞こえた。
温泉へ来た高齢の女性が二人、次の木曜日も一緒に来る約束をしている。
美月はそれを記録しなかった。
ただ、二人の声が聞こえる場所に座り、髪に残った源泉の匂いが薄くなるまで、将棋の次の一手を待っていた。




